第3話 契約

 翌朝。

 夕食を出前の蕎麦で済ませ、居間に布団を並べて寝た三姉妹。

 ある程度の余裕を見越して引越しの日程を決めたおかげで、三人とも学校はまだ春休み。新学期が始まるまでにはまだ数日ある。

 三姉妹はこの家の譲渡手続きを代行してくれた、遺産相続の法務処理を行う法律事務所に乗り込んだ。

 引越し荷物の整理はまだ残っていたが、舞はまずこの問題を解決しないといけないと主張した。

 「有効ですね」

 三姉妹の父とは大学の先輩と後輩で、ラグビー部ではフォワードとマネージャーだった遺産後見人の女性弁護士、阿仁絵里さんは書類を一瞥して言った。

 「真理さんには随分前にお話したんですが、まだ混乱していることを考慮せず説明不足だったことをお詫びします。この家のガレージ、所有権は仁樹君にあります」

 遺産や引越しの手続きを姉の真理に任せきりだった舞は予想外の答えに驚き、真理と絵里さんの会話に割って入る。

 「じゃあ……あたしたちがあの男をガレージに住まわせなきゃいけないってこと?」

 真理は十六歳のまいの非礼な言葉遣いを諌めようとしたが、絵里さんは不快感よりも、まだ赤子だった頃から知っている舞の成長に目を細めている様子。

 「正確には彼の所有するガレージに付随する居住区画、それを彼に分譲してもらってるという形です」

 絵里さんは事務所に保管されている書類をテーブルに並べながら、彼の名前が書かれた欄を指で示す。

「この手続きを代行したのも私でして、タカちゃん…お父君からくれぐれも頼まれました、彼があのフェラーリで走り続ける限り、あらゆる扶助をしてくれと」

 真理は納得した様子。どちらかというともう知っていることを改めて確かめ、安心したような表情で絵里さんに深々と頭を下げた。

「わかりました、お忙しいところお手数をおかけしました」

 冷徹なまでに明瞭な説明を終えた絵里さんは少し柔和な口調で話し始めた。

「彼のガレージに引っ越したということは、もうあのパスタを賞味されましたか?羨ましい、私も固定資産税の支払い手続きでお邪魔した時に頂きましたが、ポモドーロのパスタが絶品で」

 どうにも納得できない様子の舞が苛立ちまぎれに答える。

「狸庵の天ぷらソバです!」

「店屋物とはお気の毒様」


 帰路、舞はずっと不機嫌だった。

「認めない、認めない、わたし絶対認めないんだからね!」

 高めの身長とスポーツに馴染んだ体型の舞が怒り心頭の表情で歩いていると、通行人が道を空けるほどの迫力がある。

「舞ちゃん」

 真理は何とか妹を落ち着かせようとするが、言葉が思いつかない。

「何よ!」

 替わってまるが話しかける。

「そんなにパスタが食べたかったの?」

「違う!」


 三姉妹で揃って家に帰ると、男とフェラーリはガレージから居なくなっていた。

 真理は怒りの矛先を見失い不機嫌になった舞に、とりあえず引越しの荷物整理をさせた。

 力仕事は次女の担当と何となく決められていた。

 三姉妹の中でも際立って背が高い舞。身長は中学一年の頃には既に一六五cmを超えていた。

 現在中一の末っ子まるは、長身な父よりまる自身が顔も知らぬ母に似たようで、十二歳にしてようやく百四十cmに届くか届かないか。十八歳の真理は同年代の女子の中でも目立たぬ一五五cm。

 舞は体格にふさわしく男子より力持ちで、体育の授業では競技を問わずトップクラスの成績だったことで、同級生からはフランケンと呼ばれている。

 本人の前で口にしたら途端に不機嫌になるアダ名は、高校在学中に生徒会役員をしていた真理が、クラス内のいじめを無視し、時に幇助していた教師を免職、自殺未遂に追い込んだことで教師たちの間から吸血鬼と言われたことと関係あるのかもしれない。


 真理の部屋は二階の和室、舞とまるは同じく二階の洋間を自室と決め、居間に積んだ荷物の運び込みを始めた。 

 元よりそれほど荷物は多くなかったが、いざ自力で引越しをしてみると、運ぶのにも整理するのにも結構手間がかかった。

 最も多かったのは舞の本で、その次がまるの画材。

 真理の荷物は少なく、服と学校の教材、その他色々が入った大ぶりの段ボールが三つだけ。

 御殿場のマンションに暮らしていた頃の家具や食器は、引越しの時に新調することを決め、処分した。

 既に以前から注文していた新しい食器と調理器具は届いている。今夜の食事は出前じゃなく手作りの夕食にすると決めていた真理は、引越し用に借りていたトヨタの1トントラックに乗って、歩くには遠いが車ではすぐ近くの場所にあるショッピングセンターまで、今夜の食材を買い揃えに行った。


 舞とまるは引越し作業を続けた。荷物は最小で家具は据え付け済みとはいえ、一度置かれた家具を動かす必要があったり、力仕事はまだ残っている。

 夕方頃に買い物から帰って来た真理は、部屋の整理と夕飯の準備を並行して進めながら言った。

「こういう時に、男手が欲しくなるわね」

 他の二人も思っていたこと。

 舞はまるを見た。父を失ってまだ一年。思い出して悲しむことを心配したが、まるは開け放たれた窓の外を眺めながら言った。

「おにいちゃんが帰ってきた」

 少し遅れて舞も、大径のマフラーが発する重く低い音が近づいてくるのに気付く。

 音源は家の前で一度停止し、それから姉妹の居る家の真下へと移動していく。


 この家の建てつけはいい。

 施工した大手建築業者の宣伝パンフレットには、災害で周囲の家が全焼したり半壊する中、雨樋ひとつ焼けただけの自社施工住宅が載っていて、壁の耐火材や防音、防犯性、二重ガラスも一般家屋としては過剰なまでの品質を誇っていた。

 地震等の災害時に、建物の剛性だけではなく柔性で被害を軽減する構造の家全体が微かに振動する。

 防音がしっかりしている家でも上下方向の音はかなり伝わる。下からの重低音は不快な騒音というほどではないが、耳をすませばわかる音量。

 特に、あの音が帰ってくるのをずっと待っていた人間にはよく聞こえる。


 舞が少し前の記憶を懐かしむように呟いた。

「パパがフェラーリで帰って来る時もそうだったわね、音とアクセルの癖で一km先からわかったわ」

 昨日は間近で聞いたフェラーリの排気音。耳を押さえたくなるほどの大音量ではなかったが、フェラーリは他の車とは異質の音がする。

 父の記憶を振り切るように頭を掻いた舞は、とりあえず現実の自分たちに降りかかった問題を片付けるべく、真理とまるを連れてガレージへの階段を降りた。


「あんたうるさいわよ!それに何ひとんちのガレージに勝手に入ってきてんのよ!」

 ドアを開けるなり怒鳴った舞に続いてガレージに降りてきた真理が、ガレージに入庫中のフェラーリに歩み寄る。

「お帰りなさい仁樹さん。ちょうど夕食が出来たところです」

 フェラーリをガレージ内の定位置に停め、ドアを開けて出てきた仁樹の腕にまるが絡みつく。

「おにいちゃんどこ行ってたの~!ずっと待ってたんだよ」

 仁樹は三人をガレージ内の設備でも見るように無関心に見回しながら、一応まるの問いには答えた。 

「仕事だ」

 もっと色々聞きたげな様子で仁樹の右腕を離そうとしないまる。いつのまにか仁樹の傍に来ていた真理は左腕にそっと手を触れた。

「さぁ、いらしてくださいな、シチューは一度冷めてしまうと美味しくなくなります」

 仁樹は見上げる真理から目を逸らし、怒鳴り散らす舞を一瞥もせず、フェラーリのボディを眺めていたが、腕にしがみつくまるを見て言った。

「もう少し、説明が必要かもしれない」


 仁樹が着替えてから行くというので、三姉妹はキッチンセットと食材の揃ったダイニングで彼を待った。

 引越し初日を出前で済ませた真理は二日目の夜、三人が初めてこの家に帰ってくる日の夕食は手作りのビーフシチューにすると決めていた。

 マンション暮らしだった頃から舞もまるも、父親も生前は大好きだった真理のシチュー。

 普通は何時間も煮込まないと味の出ないビーフシチューを、シャトル鍋も圧力鍋も使わず手早く仕上げるコツは真理の企業秘密らしい。

 仁樹がガレージから三姉妹を追い出してから五分少々、仁樹が三階に上がってきた。ノックの音。真理の「お入りください」の声と共に部屋に入ってくる。

 さっきまで緑色の作業ツナギだった仁樹は、スポーティーなブレザージャケットにウールのスラックス。コットンシャツに紋章の刺繍が入ったネクタイを締めている。

 三姉妹の父もそうだった。仕事中はカジュアルな服を好んで着ていたが、家で夕食の食卓を囲む時はネクタイを着用していた。

 無遠慮にリビングに入ってくる仁樹に舞は食ってかかろうとしたが、まるが手を引いて「おにいちゃんはまるの隣ー!」と食卓に座らせる。

 キッチンで準備をしていた真理が「何かお飲みになりますか?」と声をかけるが、仁樹は首を振る。

 真理のシチューが舞の手で食卓に運ばれる、舞は仁樹の前にシチューの深皿をドンと音たてて置いた。

 三姉妹と一人の男の夕食が始まった。


「今は何のお仕事をなさってるんですか?」

 真理の問いに、一度シチューのスプーンを置いて背筋を伸ばした仁樹は答える。  

「雑誌に記事を書いています」

 さっきから他愛ない質問を繰り返すまるには、質問が聞こえていなかったのかと思うくらい時間を置いた後で、短すぎる答えを返すだけの仁樹。問いの半分以上には、わからないという返答。

 舞の因縁付けに近い質問には、わからないと無言無回答の二種類だけだった。 

 そんな彼が、真理の質問には即座に答え、わからない問いには推測さえ付け加える。


 仁樹を見る舞の表情が少し変わる。

 それまでは姉妹の生活と安全を脅かす外敵を見るような目つきだったが、別種の敵に向けられた視線。

 舞は体育会系の外見と見た目通りの馬鹿力に似合わず、読書を好む少女だった。

 物心ついた頃より本が好きで、父にはいつもオモチャよりも本をねだっていた、父もそんな舞に本は制限なく買い与えた。

 特にやりたい事もなく、友達の誘いで陸上部に在籍していた中学時代から文芸部によく顔を出していて、今通ってる学園の現国教師からも、その文才と文章への熱意から目をかけられていたが、文芸部の部員や顧問を務める古文の教師とは反りが合わず、部には入らずじまいだった。

 まいは文章が好きで文学が嫌いだった。

 事実を歪曲したり嘘を創作したり、不自然な修飾の度合いを競う文学作品は好んで読もうとは思わず、いつもノンフィクションやルポタージュを読んでいた。


 前菜とサラダ、メインディッシュの一人前にファミレスのステーキ一枚分ほどの肉が入ったシチューとサブディッシュのガーリックライス、デザートを食べ終わった仁樹は、ナプキンで口を拭う。

 真理は世話女房のように立ち上がって仁樹の肩に手を置きながら言う。

「今コーヒーをお淹れします」

 最初は男が部屋に居るだけでイヤそうな顔だった舞も、仁樹からもう少し話を聞きだしたいような顔をしている

「これから仕事があります、シチュー、美味かった」

 男は席を立ち、ナプキンを畳んでテーブルに置くと、簡素すぎる感謝の言葉のみを残して、リビングを出て階段を下りていった。

 階下で微かにスチールのドアを開け閉めする音が聞こえる。

 仁樹が去った後のリビングは、三姉妹にとって御殿場で三人暮らししていた時よりも寒々しいものに感じられた。


 夜中というには早い時間。舞はガレージへの階段を下りた。

「入るわよ」

 返事は無い。舞が構わず鍵のかかっていないドアを開け、中に入る。

 仁樹はガレージの隅にあるデスクの前に座り、パソコンのキーを打っていた。

「パパから盗んだ車の運転しか出来ないと思ったら、どうやら人間の言葉がわかる程度の知能はあるみたいね」

 仁樹は全く反応を示さず、ただPCのディスプレイに表示されるテキストファイルと、横に置かれた雑誌を交互に見ながらキーボードを叩いている。

「見るわよ」

 反応は無い。許可を求める必要など無いと思い、舞はPCの画面を覗き込む。

 文章作成用のテキストファイルが開かれていた。上端に表示されるファイル名から、自動車雑誌の名前だということがわかる。

 車にも車雑誌にも興味の無い舞だったが、父が生きていた頃、何度か父が外車雑誌の企画に協力したこともあって、幼い舞は雑誌社主催のサーキットイベントやスピードアタックに連れてってもらった事があった。

 舞はテキストファイルの文章を読み込む。

 内容は新しく発売された自動車カスタムパーツの紹介記事のようだった。

 車には疎い舞にも、いくつかの専門用語を飛ばして読めばわかる文面。

 食事を共にした時はほとんど自分から話さず、何か問われても短すぎて理解するのも難しい返答しかしない男。

 その文章は驚くほど饒舌で、充分な情報量がありながら読む人間を飽きさせないユーモアも交えている。

「それがあなたの仕事?」

 仁樹はキーボードを打つ手を止めることなく、モニターを向いたまま舞を見ることもせず返答した。

「そうだ」

 仁樹が平静な分だけ、舞のほうは感情が押さえきれなくなりそうになる。

「あんた、この家から出ていきなさい」

 意志の力で冷静な声を出そうとしながらも、舞の声は震えた。

「あたしたちには遺産がある。ここより環境のいい場所に設備の整ったガレージを買って、パパの車と一緒にあんたにくれてやるわ。だから、あたしたちの家から出て行って」

 仁樹はキーボードを打つ手を止めた。何か舞の言葉に反応したのかと思いきや、資料として開いていたイタリア語の自動車雑誌をめくっただけ。

「出来ない。ここはタカの場所。タカは友達だ」

 舞は自分の声が上ずっていくのがわかる。

「パパを名前で呼ばないで!」

 仁樹は仕事の手を止めぬまま、デスクトップのモニター、その平板な液晶板のずっと先を見ているような目つきで答える。

「俺がタカの場所、タカが俺の場所を守る。片方が死んでも約束は消えない」

 舞は悲鳴に近いヒステリックな声を上げた。今すぐ仁樹を平手打ちしない自分自身が不思議だった。手を振り上げると目の前の男の後ろに、パパの顔が浮かんでくる。

「あんたを絶対に追い出してやるからね!パパの車もパパのガレージも全部奪って放り出してやる!」

 仁樹は舞がドアを乱暴に閉め、階段を登って行った後も記事の執筆を続けていたが、最後の一説を書き終え、ファイルをPCとニ系統のバックアップに保存した後、ドアの方を見た。

「なるほど、タカの娘だな」

 仁樹はほんの微かではあったが、笑っていた。

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