第2話 フェラーリの男
フェラーリ288GTO
一九八四年。
車に関する安全や環境の基準が今とは異なり、今よりもほんの少し車好きに優しかった時代に作られた車。
七〇年代フェラーリの基本構造と外見を持つボディに、八十年代~九十年代フェラーリの高性能モデル ~市販車だけでなく、フォーミュラワン・フェラーリチームのレーシングフェラーリも含まれる~ の主流となるV8ツインターボエンジンを積んだフェラーリ。
元々この車はフェラーリ社のテストドライバーが、コースを下見するレッキ走行のため所有していた車で、発売前の新型フェラーリと博物館に所蔵されているヒストリックフェラーリの両方の視点で路面や気候等のコース状況を見ることの出来る、旧くて新しいフェラーリは実用品として信頼され酷使され、そして愛されていた。
テストドライバーの死後、三姉妹の父がこのフェラーリを入手した経緯は謎で、フェラーリ社からUSドルの力で買い取ったイタリア駐留米軍の女性少佐が彼にベタ惚れし、結婚の約束を条件に譲ってくれたなんて真偽不明の噂も流れている。
288GTOが日本に正規輸入されたのはほんの数台、フェラーリ博物館のオーナー松田芳雄氏、ミュージシャンの河村隆一氏が所有していると言われている。
三姉妹の父は趣味人で、フェラーリ以外にも何台もの車を所有していた。
父が死んだ時にはまだ自動車免許を持ってなかった真理は遺産整理の時に車も処分した。
父の旧友だった外車販売業者が決して粗末に扱わないことを約束し、買い叩くことなく引き取った車の代金は、遺産と共に相続した事業借金を返済してオツリが来た。
車と女に関しては惚れっぽく移り気だった父は、その生涯で何台もの車を乗り継ぎ、しばしば商売のために輸入した希少外車を自分で買い取って乗り回していた。
三姉妹がまだ幼い頃、その母親が死んですぐの時期に入手したフェラーリGTOを父は永らく所有し、よく走らせていたが、ある時を境にフェラーリは家から消えた。
三姉妹にとってフェラーリは音もうるさく乗り心地も硬い車で、父が普段の足にしていたトヨタのバンのほうが好きだった。
三人がフェラーリを嫌ったほんとうの理由は、フェラーリが二人乗りだから。
助手席には一人しか乗れない、三姉妹のうちの一人しか乗れない。
三姉妹は、誰かが乗れば他の誰かに寂しい思いをさせるフェラーリが嫌いだった。
それでもジャンケンや順番で決める一人だけの助手席で過ごす、父と一緒にフェラーリに乗るドライブを楽しみにしていた。
フェラーリが嫌いな三姉妹はフェラーリに乗る父が好きで、父のフェラーリに乗せてもらうのがとても大好きだった。
父の思い出の残るフェラーリ。
今、目の前で動いている父のフェラーリGTOを運転しているのは、見知らぬ男。
「あ、あ、あんた何よ!」
舞はガレージから発進しようとするフェラーリの前に立ちふさがった。
フェラーリは軽くタイヤを鳴らし、カーボンディスク特有の軋むようなブレーキ音と共に停止する。
足を震えさせながらフェラーリの前に立つ舞、まるはガレージから出てきたフェラーリに好奇心を窺わせている。
真理は一歩引いた場所で、懐かしい記憶をいとおしむように見つめている。視線の先にあったのは父のフェラーリではなく、フェラーリのドアを開けて出てきた若い男。
まず目を惹くのは剃りあげたスキンヘッドと彫りの深い顔。体格は男子としては中背くらい。緑色の整備用ツナギ服を着た男は、フェラーリの横に立って無表情に三姉妹を見回している。
舞は半分腰が引けながらも、フェラーリから出てきた男に、犬が威嚇で吠えるような声を上げる。
「あ…あんた何者よ!ひとんちのガレージに勝手に入って…それに…この車パパのじゃない!」
フェラーリから出てきた男は動じていない様子。
車から出て真っ先に、たった今急制動をかけたブレーキを一瞥し、それから目の前で叫びたてる舞を眺めた。
どう見ても日本人で、外見から察する年齢は高校一年ながら若干老け顔の舞と同じくらいだが、舞が発した言葉が通じてないように見える。
あるいは、他者から自分に向けられた感情を知覚することが出来ないようにも。
背はそれほど高くない。自称一六九cmの舞と殆ど同じ。彼のほうがほんの少し低いかもしれない。
剃りあげたスキンヘッドに、どこか日本人離れした中性的な顔。
一八〇cmを超える筋肉質の体で、国を問わずモテる情熱的なハンサムだった父親とは対照的な印象を与える、中背で細身の男。
新生活への希望に満ちた新居での暮らし、すべてが順調に見えた初日に起きた珍事。
突然現れた不法侵入の男を前に立ち尽くす三姉妹。
長女の真理が一歩進み出た。
「やはりここにいらっしゃったんですね?一度あなたにお会いしたいとずっと思ってました」
無言だった男が口を開く。
「……タカの……娘か……?……」
男は三姉妹の父親をファーストネームで呼んだ。
感情に乏しい視線をまだフェラーリの前で仁王立ちする舞に向ける。
「走る、どけ」
舞は再びフェラーリに乗ろうとする男に再び吠えた。
「何言ってんのよこのドロボウ!」
真理と舞が男との距離を保つ中、末っ子のまるは男に駆け寄ると、腕にしがみついた。
「おウチの探検はもういいや~わたしこのおにいちゃんと遊びたい」
ガレージから出てきた男にさほど驚いた反応を見せていなかった真理が男に歩み寄る。
「中に入ってお茶でも飲みませんか?積もる話もたくさんあります」
真理に見つめられた男は目をそらして軽く首を振り、隣のフェラーリのドアを摘んだ。
舞は男の変化に気づいた。表情は乏しいが、微かに現れた感情を隠すのはあまり上手くないように見えた。
不可解な男が見せた、お気に入りの毛布を母に取り上げられた時のような顔。
さっきから散々驚かされた舞が、相手が気弱そうに見える兆し見せた瞬間を敏感に察して強気の笑みを浮かべる。
「いいから来なさい!あんたをドロボウとして警察に突き出す前にゆっくり話し合いましょう」
舞の言葉が理解できないかのようにその場を動かなかった男は、腕に絡みついた末っ子のまるが男を見上げながら発した言葉を聞き、掴んでいたフェラーリのドアから手を離した。
「……パパのこと……話して……」
男は小さく頷いた。一度降りたフェラーリに乗り込んで、車庫の外に出したフェラーリをバックでガレージの中に戻す。
真理は二階の居間に通じる玄関ではなく、男のフェラーリが出てきたガレージに入っていく。
「今お茶とポットをお持ちします、引っ越してきたばかりなのでお茶菓子は手作りでなく買ってきたものなのが残念ですが」
男は階段を昇ろうとする真理を手で制する。それからガレージ真ん中あたりのスペースに折りたたみのテーブルを広げ、アルミパイプ製のキャンプチェアを置いた。
男は無言のまま、ガレージの壁にある、食器棚というよりも工具が入ってそうな外見のスチール棚を開け、湯沸しポットとカップを並べる。
ガレージには不似合いだがそこに置かれた車には調和した金の装飾入りのティーカップが、三人の来客に充分足りるだけあった。男は電気式の湯沸しポットと輸入物のティーバッグの箱を出す。
舞がガレージのあちこちを睨み付け、まるが興味深げに見ている内にお茶の準備が出来上がった。
ここに客を迎えるのには慣れた様子。
ガレージを隅々まで見た三姉妹には、このガレージが車庫や工場ではなく生活の場でもあることがわかった。
大型車四台が収まるスペースがあるガレージ。シャッターのある正面から見て一番左端は整備時に車体を持ち上げるニ柱リフトと壁一面の工具に占められていた。
中央左寄りはフェラーリが収まるスペース。
そのガレージが想定している車より全長、全幅共に小さいフェラーリ。後部の余分なスペースには手製らしきセミダブルサイズのパイプベッドが置かれている。
ガレージと上階を結ぶ出入り口に面した中央右寄りは何もなく、空間は今のようにテーブルを広げて来客をもてなすだけでなく、ガレージ全体を実際の面積より広く見せる効果を発揮していた。
右寄りが生活スペースらしい。後ろの壁際にはアパート用のユニットバスが据え付けてあって、ステンレス流し台とガスコンロ、食器棚らしきいくつかのスチール棚、ノートパソコンが載った小さなテーブルがある。
整備区画と車庫兼ベッド、何もない空間と生活スペース。構造的には明確に分けられているようでいて実際にはそうでもく、イタリア語の印刷されたダンボール箱や木箱が部屋のあちこちに散在し、流し台に整備用の工具が載っていたり、整備スペースの溶接機の上にワインの瓶が置いてあったりする。照明は天井に並ぶ蛍光灯がガレージ内を、くつろぎと憩いの場よりも精密な作業に相応しい程に眩しく照らしていた。
男は舞からの敵意の篭った目つきや、まるの興味深げな視線を意に介さず、棚のあちこちを開けては必要なものを取り出し、機械のように正確な動きでお茶の準備を済ませた。
席を勧められる前に腰かけた舞は、三姉妹の前に置かれたカップにお茶を注いだ男が着席するのを待ちかねたように喋り始めた。
「まず……あんたは何者? なんであたしたちの家に入り込んで、パパのフェラーリに乗ってるの?」
男はイタリア語が印刷されたクッキーの箱を手に取り、中身をテーブル中央に置かれた藤籠に開けてから口を開いた。
「俺のものだ」
男は席を立つ。ビクっとする舞に全く反応せずガレージの隅まで行き、デスクにある書類引き出しを開けて、数枚の書類を出した。
妙に手際のいい仕草は、世慣れてるというより言葉でのコミュニケーションを嫌ってるように見える。
書面のやりとりだけで必要な伝達が出来ればそれで済ませるタイプ。
まず言葉ありき。相手と充分な言葉を交わし、契約書はそれに従するものというビジネススタイルだった三姉妹の父とは正反対。
男が出したのは数枚の書類と複写紙。
このフェラーリを譲渡し、ガレージを永続的に使用する権限を有するという旨が綴られた紙。
土地権利書と車の名義を記載する車検証。
書類をひったくった舞は記載内容を確かめた。まだ自己紹介の類を一言もしていない男の名が、羅宇屋仁樹(らおや にき)という奇妙な名前であることを知る。
舞は直筆の文面を指で追う。忘れることなど出来ない特徴的な筆跡。
「……パパの字だ……」
書類には遺産相続の手続きに立ち会って何度も見た父親の実印が捺されていた。
真理はポンと手を打った。
「そうだ!忘れてました、不動産屋さんの話ではこの家にはもう一人の名義人が居るって」
舞は真理の顔を見た。まるは男が出したイタリア製のクッキーを指差して「食べていい?」と聞き、仁樹が頷くと両手に持って食べ始めている。
「つまり…この男はわたしたちの家に住み着くってこと?」
まだ外気温は肌寒い春の昼下がりだが、ガレージの中は寒さを感じない温度に保たれている。
ガレージの床に置いてあるアラジンの石油ストーブはついてない。真理は心地よい暖かさは隣に止まるフェラーリが発するものだと気づいた。
大容量のアルミブロックエンジンが放つ熱と、どうしても視界に入る赤いボディがこのガレージを適温にしているらしい。
まるがテーブルの上に両手をつき、目を輝かせ仁樹の顔を見る。
「まるにお兄ちゃんができたの?」
仁樹は返答に困るでもなく、まるの言葉を聞いて少し考え込む仕草をした。
舞は書類を叩きつけ、席を蹴って立ち上がる。
「とにかく!明日にでも不動産屋に行きましょう!都内庭付き一戸建てが泥棒男つきなんて!サギじゃないの!」
続いて真理も席を立つ。
「そうですね…あまりお邪魔しても悪いですし、今日はこの辺でおいとまさせていただきましょう…」
自分たちのために出してくれたキャンプチェアとテーブルを片付けようとした真理を、仁樹は手で止める。彼はお茶とテーブルセットをさっさと片付ける前に小声で言った。
「あなたにそんな事をさせられない」
仁樹は三姉妹のうち、長女の真理に対してだけは明らかに対応が異なる。
まるはそれに気づいたが、頭に血が上った舞は気づかなかった。真理は当然そうなるものと理解している様子。
「え~わたしおにいちゃんともっとおしゃべりした~い」
最初に会った時から彼に興味深々だったまるは不満そうだったが、舞が強引に腕を取って連れて行く。
「わたしたちはこれからディナーですの、ドロボウ、アンタはこの寒いガレージでパンでも齧ってなさい」
舞がまるを引っ張ってガレージと住居を繋ぐドアに向かう中で、真理は黙々と席を片付ける男に礼を言った後、振り返って舞がドアの鍵を内側から開け、階段を登り始めたのを見てから男に話しかける。
「父から聞いていた貴方のパスタを賞味できないのは残念です、それは後日改めて……もしご迷惑でなければ明日にでも」
男はまりの丁寧な口調にまるで命令でもされたかのように、小声で返事した。
「いつでも、あなたが望んだ時に」
一度舞に腕を引かれてガレージを出たまるが、舞の手をふりほどいてガレージに戻ってきた。
「バイバイおにいちゃん、また遊びにきてもいい?」
早々に片付けを終え、工具を乗せたワゴンをフェラーリの横まで転がしていた男は、まるを見ることもせず返答した。
「入っていい、中の物には触るな」
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