第39話 約束

 藤巳たちは四百の授業と終業のごく短いホームルームを終え、各々の寮への帰路についた。

 結局その日の四百、藤巳が居た世界ではゼロヨンと呼ばれる競争は、レベルのポルシェがコース上で事故を起こしたこともあって決着がつかぬまま終わった。

 勝ち残った藤巳のシボレーとブラーゴのフェラーリ、そしてシード選手的に勝負に割り込んできたアンチモニー校長のランボルギーニが学園最速を競う最終戦は、翌日に持ち越された。

 

 ニトロの使用によって一千馬力を発揮するシボレー。藤巳はこの学園のいかなるドラゴンにも敗れることは無いと思っていたが、藤巳はアリゾナの砂漠で初めてニトロスイッチを押した時、この不思議な世界にやってきた。

 藤巳はあの不可解な現象の再現を恐れ、今までニトロの使用をためらっていたが、今日の四百でレベルのポルシェと対決し、高回転域でトルクの減少するV8OHVエンジンでは、途切れることの無いターボの加速には勝てないことを知った。

 藤巳にとって、最初のうちは右も左もわからなかったこの世界と、そこで出会った人たちは大切なものになっていた。

 今ニトロをを使えば全てを失うかもしれない、それでも藤巳は、自分のシボレーのスピードに足枷を嵌められるくらいなら、何もかも失ってでもその制約を脱するという気持ちで、ニトロのスイッチを押した。

 アリゾナの砂漠からこの世界にやってきた時のように、一千馬力の領域へと近づいていくシボレーは、ポルシェを追い上げた、その時、レベルのポルシェは藤巳のシボレーに体当たりし、車体を左右の壁に当てながら藤巳のシボレーを止めようとした

 レベルは藤巳がどこか遠くに行ってしまおうとしていることに気付いていた。そしてこの藤巳のお姉さまと称する小さな女の子は、力ずくで引き戻した。


 ボディ全体が傷ついたポルシェから助け出されたレベルは血を流していた。藤巳に抱きかかえられ、保健室の無い学園の職員室に運ばれたレベルは、割れたガラスで浅く額を切っただけだということがわかり、校医も兼任しているらしき校長に、藤巳が知る軟膏に似たクリームを塗られ、絆創膏のような白い布片を貼られただけで治療は終わる。

 頭に布を貼った姿で終業のホームルームに出たレベル。藤巳はあれだけ衝撃的な事故の後だから教室の雰囲気も重苦しいものになっているのではないかと思ったが、生徒たちには授業の中断と早い時間の終業が歓迎されているようで、放課後はどこに行くか喋り合ってる。

 レベルは黙り込んでいた。ホームルームが終わるとすぐに藤巳の横にやってきて、腕に掴まって離れようとしない。

 今日はレベルが体を張って藤巳のシボレーを止めた、しかし藤巳は、翌日ブラーゴのフェラーリ、校長のランボルギーニと決着をつける事を望んだ。明日こそ藤巳がどこかに行ってしまうかもしれない。

 ポルシェは事故で潰れた。ドラゴンの傷がすぐ治るこの世界でも修復には少なくとも明日一杯はかかる。

 生徒達が帰り始めてからも、藤巳の腕を抱えこんで離れようとしなかったレベルは、ブラーゴとコーギーに促され、しぶしぶ教室を出た。ポルシェの動かないレベルはブラーゴのフェラーリに乗せられる。

 藤巳は教室から皆を見送った。他の生徒と違い、藤巳は奨学金を得るための勤労学生。放課後はシボレーで荷物運びの仕事をしなくてはならない。


 藤巳はアンチモニー校長の居る職員室に行ったが、今日の仕事は少々の教材を街の転移魔法事務所から運ぶだけ。簡単な往復が終わり、職員室に荷物を置いた藤巳が、自分の寮に帰ろうとしたところ、校長が声をかけてくる。

「トーミさんはこれからどうなさるお積もりですか?」

 藤巳は校長に背を向けたまま返答する。

「あんたにはわかっているはずだ」

「誰よりも速く走る、それは本当に何より大切なものとお思いですか?」

「思ってるんじゃない、体が勝手にそう動く。命と引き換えてもいいと、それがわからないならあんたは他人だ」

 校長の声が震える、藤巳は振り返らなかった。今、この女の顔を見れば、明日の決着に向けて張り詰めていた気持ちが緩んでしまう。

「あなたを大切に思う人のことも考えてあげてください」

 藤巳は何も言わず職員室を出た。シボレーに乗って自分の寮に戻る。

 学生寮区画の曲がりくねった道。寮の外に居る女子生徒の何人かは藤巳に向かって手を振る、今日はそんな姿が妙に目についた。

 藤巳は薄暗い森に囲まれた幽霊屋敷のような寮の前にシボレーを停め、シャッター状の木戸を開けてシボレーを室内に乗り入れさせる。

 ドアを開けてシボレーから降りた藤巳は、木戸を閉めながら照明魔法の呪文を唱え、バスルームで温水魔法を使ってシャワーを浴びた。 洗濯魔法で身につけていた服を綺麗にした後、ローマ貫頭衣のようなパジャマを着て冷蔵庫替わりの石棺からワインとパン、チーズを取り出す。

 魔法という未知の技術で成り立つ世界にやってきて数日、こんな事は自然に出来るようになった。軽食を取った藤巳はベッドに寝転ぶ。

 夜が更けたら走りに行くのは、日本に居た頃から変わらない習慣。そのための遅い昼寝。目が覚めた頃にはワイン一本の酔いも抜け。走りに行くのに最適な時間となる。

 星が恐ろしく明るい銀色の塩湖を走るのも、今夜が最後かもと思いながら藤巳は眠りについた。


 藤巳は思っていたより早い時間に起こされた。

 いつも夜と深夜の間くらいに自然に目覚めるが、周囲の物音で強制的に覚醒させられる。

 目を開けるとブラーゴがすぐ近くで藤巳の顔を覗きこんでいた。藤巳が起きたのを知って慌てて顔を離す。

 急用か何かかと思って藤巳は体を起こした。上半身が重い。藤巳が寝ていたベッドの中でレベルが横になり、藤巳の指をくわえてすやすやと眠っている。

「あんたが寂しい思いをしてるんじゃないかと思ってね、遊びに来てやったわよ」

 ブラーゴはそれだけ言ってから言い直す。

「そう思ったのはレベルとコーギーで、わたしはついてきてやっただけだけどね!」

 ブラーゴの背後で、コーギーがくすくす笑いながらテーブルに食べ物や飲み物を並べている。

 小さなテーブルでは並べきれないほど持ってきたらしく。コーギーはテーブルを横にどかし、毛織物のラグが敷かれた床に直接並べ始めた。

 まだ寝起きで事態を把握できない藤巳の耳に、特徴的なエンジンサウンドが聞こえてきた。ランボルギーニ。

 音は寮の前で止まり、ドアが開く。アンチモニー校長が駆け込んできた。

「ここでお泊り会をしてると聞いて来ました、わたしも混ぜて!」

 

 その夜は、藤巳の寮にブラーゴ、コーギー、レベル、アンチモニー校長が集まり、飲み食い、そして喋る時間を過ごした。

 室内でピクニックをしてるような、何かの間違いで男が一人混じった女子会のような雰囲気。皆で床に座りこんで夜更けまで語り合う。

 コーギーだけは藤巳がこことは別の世界から来たことを知らなかったが、何か秘密があることには気付いていたらしく、校長から聞いても驚くというより、ふぅんそうなんだと興味深げな様子。

 レベルはずっと藤巳の膝の上に座ってる。重さやサイズが負担にならない体格なので藤巳もレベルを胸の前に抱いた格好のまま。

 レベルほどではないが小柄なアンチモニー校長は「交代です、交代です」と何とかレベルをどかそうとするが、レベルは首を振ってべーっと舌を出し、藤巳の上から動かない。

 コーギーが大量に持ってきた発泡ワインで少し顔が赤くなったブラーゴが横座りの格好で、藤巳の肩に手をかけながら言う。

「あんた、明日は本気で走る積もり?」

 それまで陽気だった皆の雰囲気が変わる。視線が藤巳に集中した。藤巳は答えた。

「俺はこのシボレーで誰よりも速く走る、そして、どこにも行かない」

 藤巳はこの夜、自分にとって大切なものと約束を交わした。

 目の前の少女たちとシボレーを。決して裏切ることはしない。 

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