第38話 ターボ
藤巳のシボレーとレベルのポルシェはスタートラインに並んだ。
さっきまで走ることに迷い、濁っていた藤巳の心は、曇天の無いこの世界の空のように澄み渡っていた。
このシボレーの持つ能力を全て開放すれば、自分が手に入れた夢のような世界は失われるかもしれない。どうすれないいのかわからなかった藤巳は、レベルと触れ合うことで一つだけわかった。
走ることに迷ったなら、走らないと答えは出ない。
今は四百の距離を最速で走り切ることだけ考えることにした。それからどうすればいいかは、走った後で考えればいい。
遠くにアンチモニー校長が旗を持ち上げるのが見えた。藤巳はシボレーのアクセルを吹かす。古臭いOHVエンジンが濁った音をたてる。
フェラーリやジャガー、あるいはランボルギーニほど澄んだ高音ではないな、と少し照れくさくなる。
隣のポルシェもアクセルを吹かす。屋台の発電機みたいな音。ポルシェの空冷フラット6エンジンも低回転や空吹かしではあまり耳障りのいい音は出ない。
藤巳は横を見る、レベルと目が合った、互いに微笑みを交わす。手のかかる困った子を持った者が共有する気持ち。
これでもV8は高速高回転で宝石のような音を奏でてくれる。藤巳とレベルは同時に前方を見た。
遠くの校長が片手にストップウォッチを持ちながら、もう片方の手に持った旗を高く振り上げる。
ここから見たら鉄道模型の人形ほどの大きさしかない校長の表情や息遣いまで見えるような気がする。全ての感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。
旗は振り下ろされ、シボレーとポルシェはタイヤを鳴らしながら急発進した。
最初は藤巳の思った通りポルシェが駆け出すように前に出る。エンジンが車体の後端にブラ下がったポルシェ。発進時には後輪を強烈に地面に押し付け、トラクションを発揮する。
フロントエンジンのためトラクションの不利なシボレーは、ポルシェの半分ほどの太さの後輪がパワーを地面に伝えきれず浪費する。しかし、勝負はこれから。
後輪が一瞬空転した後、塩湖の地面をしっかり噛んでシボレーの重い車体を前へと蹴っ飛ばす。ヘッドレストの無いベンチシートで藤巳の頭が後ろに持っていかれた。
脳味噌にまで感じる加速Gの中で、藤巳はポルシェに対する遅れを最小にすべくアクセルを踏み込む。
ここから7000ccのV8エンジンが真価を発揮する。スーパーチャージャーを使わない無過給でも九百馬力。市販車はもちろんレーシングカーでも稀な馬力を、アメリカンV8はカーマニアが趣味で行うガレージチューンで手に入れることが出来る。
強大なトルクは加速を途切れさせない。有り余るパワーでシボレーは軽く蛇行する。藤巳には剛性の高いトラックの車体が捩れるのがわかった。
ポルシェを追い抜いて一気に前に出たところで、タコメーターが6000回転を越え、パワーカーブが頂点を過ぎたのがわかる。加速が鈍ってくる。一度抜いたポルシェが高回転寄りのトルク特性を活かして横に並び、そのまま前に出る。
OHVエンジンはバルブ開閉にプッシュロッドを介するせいで高回転域での追従性で、カムが直接バルブを開閉させるオーバーヘッドカムのエンジンに一歩譲る。ニトロを装着したのは、この回転域で他車に遅れを取らないため、例えば目の前でシボレーを追い抜こうとするポルシェみたいな車に。藤巳はニトロスイッチのカバーを指で跳ね上げたが、まだ早い。
ギアを二速に入れる。回転が落ち、再び中回転の分厚いトルクが戻ってきた。前方を走るポルシェもシフトチェンジしたのがわかる。シボレーはパワーを見せ付けるようにポルシェを抜き去る。
そのままポルシェとの差を広げたが、藤巳はまだ安心していなかった。あのポルシェにはターボがある。一速ではその威力を発揮するほどブーストが上がらなかったようだが、レベルが二速へのシフトチェンジで一度戻したアクセルを踏み込んだ数瞬の後、藤巳の耳に特徴的な高周波音が聞こえた。
藤巳のシボレーが二速の高回転域に近づきトルクを失う中。ポルシェはターボ音を響かせながら追いつき、ドン、という衝撃と共に追い抜いていく。
反射的に藤巳の指がニトロスイッチに触れた。藤巳は意思の力で踏みとどまり。先行していくポルシェとの距離を慎重に測っていた。
三速。既に四百の半分近くを過ぎ。このギアを使い切る頃にゴールに達する。藤巳は再び加速したシボレーでポルシェを追った。
ポルシェもシフトチェンジする。アクセルを抜くとブーストが落ち、再びブースト値が上がるまで時間のかかるターボの弱点を突く形で横並びになる。
一速、二速で繰り返したようにシボレーは加速のピークを過ぎようとしている。このままでは三速でブーストを上げたポルシェに抜き返されるだろう。藤巳は横目でポルシェを見た。レベルは停止した車の中に居るように無表情に前方を見ている。藤巳の視線に気付いたのか、横目で藤巳を見た。いつもの藤巳を頼ったり甘えたりする目ではない。攻撃の意志とも違う。藤巳を包み込むような優しい目。
こんな子と一緒に居られて、何の心配もなくシボレーを走らせられる世界は藤巳にとって夢のようだった。でも、このシボレーの本当の力を封じられるような世界は、藤巳にとって何の価値も無い。
「ごめん、な」
藤巳はニトロスイッチを押した。
シボレーV8エンジンの欠点である高回転でのトルク減少を補い、目の前のポルシェにシボレーの後塵を拝ませるもの、藤巳をアリゾナの砂漠からこの世界まで連れてきた一千馬力のパワーを手に入れるもの。
エンジンルームでシュっと音がしたかと思ったら、底まで踏んだアクセルを更に踏み込んだようにシボレーは加速していく。
藤巳は自分の周りの世界が高速で流れていくのを感じた。ポルシェは真横に並んでいる。このポルシェを抜き去れば、この世界での時間は全て終わる。
並走していたポルシェが少し横に動く。藤巳のシボレーから離れた。それからポルシェは軌道を変え、シボレーに思い切りぶつかってきた。
四百のコースの最高速点に近い場所での衝突。軽く小さい車体のポルシェが弾き飛ばされた。藤巳のシボレーもコース横の壁に突っ込みそうになる。
藤巳はそのまま壁に刺さりそうなシボレーのステアリングを体重をかけるように押さえ、車体を立て直す。バックミラーにはポルシェが映っていた。
横壁に車体後部をぶつけたポルシェは、そのまま跳ね返って逆側の壁にフロントをぶつけ、もう一度跳ね返った時に車体を一回転させた。
前進のエネルギーを残したまま屋根を地面に叩きつけられたポルシェは、横倒しになってサイドを擦りつけながらも前に進み続けたが、やがて停止し、ボンと音をたててタイヤを下にした正位置に戻った。
藤巳は狭いコースでシボレーをスピンターンさせ、ポルシェの場所まで走った。シボレーを事故現場の近くに急停止させ、ベルトを外して車外に出る。
「ベル!」
藤巳は叫びながら車体がグシャグシャになったポルシェに駆け寄った。レベルは大破したポルシェの中で目を閉じ、ぐったりとしている。額から一筋、血を流していた。
藤巳は歪んだポルシェのドアに手をかける、軋むドアは全力をこめてやっと開けることができた、車内に体を突っ込み、レベルに声をかけた。
「大丈夫か!」
レベルは目を開け、腕を伸ばして藤巳に触れた。
「……トーミ……よかった……居なくならなくて……」
レベルが体を起こし、自分でシートベルトを外そうとしている。体のほうは大丈夫らしいと一安心した藤巳は、手を伸ばしてレベルを抱き起こした。
「何でこんなことを」
ポルシェから出た藤巳の腕から飛び降りたレベルは、背伸びして藤巳の頭をチョップした。
「危ないことしちゃダメ。わたしはトーミのお姉さまだから、トーミが悪いことをしようとしたら、何があっても止める」
やせ我慢して自分の足で立ったレベルが足をフラつかせたので、藤巳はレベルを抱き上げてシボレーまで運ぶ。レベルは藤巳に身をゆだねて目を細めていた。
ゴール地点から来たらしきアンチモニー校長がいつのまにか近くに居て、レベルのポルシェを調べている。
「これが直るには明日までかかりますねぇ、今日の四百の授業はこれで終わりですね」
藤巳はレベルを抱っこしながら校長に言った
「続きは明日だな」
校長は藤巳を見る、疑問を覚えたというより藤巳の真意を推し量るような顔
「続きとは?」
俺は四百のラインを超えてた、この勝負は俺の勝ちだ、まだ決勝が残ってるだろ?」
校長はしばらく藤巳を見ていたが、ひとつ頷いてから言った。
「わかりました。明日の午後の実習は四百の最終戦。トーミさんのシボレーとブラーゴさんのフェラーリ、それから、私も走ります」
「それは面白い」
校長は藤巳のシボレーの助手席に勝手に乗りこんだ。藤巳は胸に抱きかかえたレベルをベンチシートの中央に乗せ、自分は運転席に座る。
三人で生徒たちが集まるスタート地点へと戻る中、レベルはずっと藤巳の腕を掴んでいた。
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