第37話 スピード
藤巳がかつて車と呼んでいたものが、1/4マイルと呼んでいた距離を駆けぬける速度を競う四百の授業。
生徒たちは、模擬的なトーナメント試合の形を取った四百の、予選ともいえる第一回の走行を終えた。
準決勝の第二回走行に残ったのは、フェラーリに乗るブラーゴ、ポルシェのレベル、ジャガーのコーギー。そしてシボレーC-10のトーミ。
鈍重な仕事用のドラゴンという印象を抱かれてたシボレーで、意外な活躍を見せた男子新入生に他の生徒は驚いている。
藤巳はストップウォッチを持った校長からタイムを知らされた。
彼にしてみれば九百馬力のV8エンジンを載せたシボレーにしては速くも遅くもないタイム。シボレーのトルクを活かしつつ、高回転の伸び不足と空気抵抗という欠点も晒された形。
藤巳のシボレーには、それらの欠点を押しのけることが可能なニトロ・オキサイドのボタンがあった。
シボレーに一千馬力のパワーを与え、何もかも振り切る加速を与えるボタン。
藤巳は最後までそのスイッチを押せなかった。
アリゾナの砂漠でニトロを使い、一千馬力を体感すると同時にこの世界に来た藤巳は、あの不可解な現象の再現を恐れた。
今の自分が得たものを失いたくなかった。
藤巳は、自分にスピードより大事なものがあることにショックを受けていた。
パワーとスピードを恐れる奴には、このシボレーに乗る資格は無い。
藤巳は四百のゴール地点から、コースを逆走してスタートラインに戻った。
他の生徒たちが、藤巳の乗るシボレーに寄って来た。
「凄い!トーミくんがこんなに速いなんて知らなかった!」
「このシボレードラゴンはどんな魔法を使ったの?」
「今度わたしにも四百の走り方を教えて」
最初は唯一の男子生徒を疎んでた女子たちが、シボレーの左ドア前に集まって藤巳に話しかける。
それまで隠してた十代の女子なりの異性への関心も手伝い、皆が藤巳を称讃と好奇心の篭った目で見ている。
藤巳は女子生徒たちと目を合わせないようにしながら言った
「少し疲れた。次の走行まで休ませてくれるか?」
日本に居た時も、藤巳が高校を卒業してアリゾナに来てからも、女子にこんな無愛想な応対をしたことなんてなかった。
学生時代の藤巳は、女の子の性格や思考に興味を持つことは無かったが、高性能な車のボディのような美しい体型の女子には貪欲な性格だった。
今の藤巳は誰とも話したくなかった。皆から離れた場にシボレーを停めたが、いつでもゴロ寝できるベンチシートに寝転ぶ気にはなれなかった。
両肩のシートベルトを締めたまま、シボレーのステアリングに手を乗せ、目の前に並んだ幾つものメーターを見ていた。
視界に入ってくるのはステアリングのスポークに着けられた青いプッシュスイッチ。
このボタンを押すだけでいい、それで自分はこのシボレーを誰よりも速く走らせることが出来る。
誤操作防止のプラスティック製カバーの上から何度もボタンを押す。藤巳は停車したシボレーの中で目を閉じた。アリゾナでこのボタンを押した瞬間を思い出す。彼には経験の無いドラッグを体中に射ちこまれたような加速。
車を走らせる上での犠牲や引き換えの無い世界で、このボタンを押せば自分は全てを失う。
アリゾナの田舎道で走るたびガソリンとオイル、部品を消耗し、給料の残額と時々姿を現すポリス・カーを気にしながら走る生活に戻る。
藤巳はそれはイヤだと思ったが、イヤながら何とか耐えられぬ範囲のものではないと思っていた。
車を走らせるため支払うものの多い世界なら、そのために働くなり飢えるなりすればいい。安楽なこの世界には無い苦労も、車とスピードのための負荷ならば辛くない。
藤巳が失いたくなかったのは。そう思った時に目に浮かんだのはブラーゴ、レベル、コーギー、そしてアンチモニー校長の顔。
誰にも理解してもらえない車とスピードの世界。今まで誰も居なかった藤巳の世界に現れた仲間。藤巳の孤独を救ってくれる存在。
車という物言わぬ機械に人生を費やした藤巳は、自分がずっと寂しい思いをしていたことを知らされた。
シボレーのサイドウインドが叩かれた。
藤巳は閉じていた目を開け、ウインドを巻き下ろす。
「トーミ、わたしたちが走る時間」
シボレーの横に立っていたのはレベル。
ポルシェターボに乗る少女。この世界に来た藤巳のことを誰よりも心配してくれた子。
レベルは藤巳の顔を覗きこむ。
「トーミ、体の調子が悪いの?走るのやめて早退する?風邪なら直るまで一緒に居てあげる」
藤巳はレベルのヘルメットみたいに頭にぴったり撫でつけた銀色の髪に触れる。柔らかくいい匂い。
「ありがとうベル、大丈夫だ。早くベルと一緒に走りたいよ」
レベルは小さな手で藤巳の両手を包む、透明に近い灰色の目で藤巳を見つめながら言った。
「トーミ……どこにも行かないで」
藤巳がこの世界に来てからずっと彼を小さなお姉さまとして守っていたレベルは、藤巳の憂いに気付いていた。藤巳の気持ちがどこにあるのかも。
レベルの故郷は魔法とドラゴンの研究が進んだ王国だという。藤巳が知らないことまで知っているんだろう。
藤巳はレベルに顔を寄せて言った。
「ベル、俺は走りたい、でもどう走ればいいのかわからない」
藤巳はレベルと出会って以来初めて、この小さな女の子を姉として頼った。
レベルは体を伸ばし、藤巳の体を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから、トーミはわたしのポルシェについて走ってくればいい、これからもずっと」
レベルはそれだけ言うと藤巳から離れ、自分のポルシェへと駆けていった。
藤巳はまだ残るレベルの匂いを吸い込むようにひとつ息を吸い込み、シボレーのクラッチを踏んでシフトレバーを一速に入れた。
シボレーとポルシェはスタートラインに停車した。
藤巳には一つわかったことがある。走ることへの悩みは止まっていたら解決しない。
答えを得たいなら走ればいい、自分一人ではわからない問いにシボレーは答えてくれる。レベルもきっとポルシェの走りで教えてくれる。
さっきまでの迷いが消えた藤巳は、ただ前方の一点を見つめてシボレーのステアリングを握った。
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