第36話 恐れ

 長い直線を前に、藤巳はこれまで何度となく繰り返した動作を思い出した。

 ベンチシート上で座り位置を調整し、両肩のシートベルトをヘソのあたりのバックルに差し込んで締める。

 アクセル、ブレーキ、クラッチ、ステアリング、シフトレバー、全て藤巳の体格に合わせて調整された各部の位置と距離を確かめる。

 ステアリングを軽く握った藤巳は、前面のインパネに付け足された回転計、油温計、油圧計に目を走らせながら、アクセルを吹かす。

 七千ccのV8エンジンが音と振動を伝えてきた、回転の上昇と下降、アイドリングを見極めた。

 すべて異常なし。出来れば車外に出てタイヤとロード・クリアランスを確かめたかったが、タイヤの磨耗もサスペンションの劣化も存在しないというこの世界の魔法を、とりあえず今は信じることにした。

 遠くでアンチモニー校長が旗を振り上げるのが見えた。重いクラッチを踏んでギアを一速に入れる。

 爪先でアクセルを踏んで回転を上げた藤巳は、校長が旗を振り下ろす動きに合わせるようにクラッチをつないだ。

 シボレーは後輪をホイルスピンさせながら発進する。藤巳はタイヤを温めつつパワーロスをしない最適なアクセルワークに集中した。

 

 シボレーは僅かに蛇行しながら直線道路でスピードを上げた。

 ゆっくりと動き出した周囲の風景が次第に速い流れとなり、形を失っていく。

 藤巳はスピードメーターを見ることなく、耳と肌とタコメーターで回転を読みながらシフトレバーに手を伸ばした

 八千三百回転で二速。V8OHVエンジンでここまで回るのは、個体差のあるレーシングエンジンの中でも当たり中の当たりだと、死んだ前オーナーが話してたらしい。

 二速でも加速は途切れない。何度も調整したホーリーのキャブは、偶然か魔法とかいうものによる介入か、この世界の気候と環境に最適な状態。三速にシフトアップし、回しきったあたりで、藤巳の視界に直線道路の終わりが見えてくる。

 藤巳はブレーキを踏み、シボレーの車体を横向きにして停止させる。

 そのままシボレーを転回させ、旗を地面に落としたアンチモニー校長の前まで走っていく。

 校長は手に持ったストップウォッチの故障を疑うようにしばらく振っていたが、目の前にシボレーが停まったのに気付き、藤巳とシボレーを唖然とした顔で眺めてから言った。

「十一秒八、新記録です」

 藤巳はそれだけ聞いて頷き、直線道路を逆走して他の生徒たちが待つスタートラインへと戻った。


 シボレーを機械的に運転しながら、藤巳はさっきまで全開走行を求めて飢えていた気持ちが満たされていないことに気付く。

 ドラッグレースの教科書通りの走り。アメリカンV8エンジン特有の高回転域での伸びの悪さと、トラック車体ゆえの空気抵抗の不利を、他車を大きく上回る強大なトルクで補う走行。

 タイムもチューンされたシボレートラックとしてはベストに近いもの。事実フェラーリやジャガー、ポルシェには勝った。

 藤巳は走るシボレーの中で、不満に打ち震えていた。

 俺のシェビーはこんなもんじゃない。

 藤巳はステアリングに設置された青いボタンを見た。

 プラスティックのカバーが被せられたままのニトロ噴射スイッチ。

 シボレーの高回転で痩せていくトルクを爆発的に増大させ、空気抵抗に失速させられるボディを力で押し通す、藤巳のシボレーに一千馬力のパワーを与えるもの。

 藤巳はアリゾナの砂漠でこのボタンを押し、未知の領域へと飛び込んだ。

 そして、この世界にやってきた。

 もう一度このボタンを押したら。

「くそっ!」

 藤巳は今の暮らしを失うことを恐れ、自らの変化を恐れ、スピードを恐れた。

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