第18話 月光

 酔った校長を居室を兼ねた校長室まで送り届けた藤巳は、シボレーに乗って帰路についた。

 さしあたっての予定は、校長が今夜の宿として手配してくれた来賓室に帰って寝るだけ。

 学園の敷地というよりテーマパークか自然公園を思わせる、曲がりくねった道が縦横に走る学生寮地区を走る。

 もう夜の遅い時間らしく、独立した平屋があちこちにあるコテージのような寮の多くは灯りが消えている。

 藤巳が記憶を頼りにシボレーを走らせていると、学生寮区画の端に近い、校舎のある中央区画と隣接したあたりにある来賓室が見えてきた。

 来賓室の建物の前にシボレーを停め、しばらく降りることなく運転席に座っていた藤巳は、一度ニュートラルに入れたシボレーのシフトレバーを一速に入れ、アクセルを吹かしてクラッチをつないだ。

 後輪が滑り、静まり返った学生寮区画に傍迷惑な音が響く。車を転回させるのに充分なスペースのある来賓室前で、藤巳はシボレーをアクセルターンさせた。そのまま学生寮区画をタイヤを鳴らしながら駆け抜ける。

 地平線まで続く塩湖に現れたディズニーランドほどの大きさの緑地を塀で囲った学園敷地。

 刑務所ほど物々しくない塀に沿ってしばらく走っていると、藤巳が最初にここに来た時に通った門ほど立派ではない通用門らしきものが見つかる。

 門というより塀の切れ目といった感じで、門番らしき人も居ない。藤巳のシボレーは門を通り、外の塩湖へと走り出した。

 

 夜の塩湖は藤巳が思ったよりも明るかった。

 藤巳が数ヶ月前に東京からアリゾナに来た時は、星の多さに驚かされたが、目視できる星はアリゾナの砂漠よりずっと多く、幾多の星が白や赤の靄のように集合している天の川さえ見える。

 塩湖の地面は星明りで銀色に照らされ、遠くまで見通せる。星座など知らない藤巳は、見えている星が東京やアリゾナと同じかどうかはわからなかった。月は出ていなかったが星の光で充分明るい。

 藤巳はバックミラーで小さくなっていく学園を一瞥した。昼は緑色の丘に見えたが今は黒い塊の学園は、アクセルを踏むとだんだん小さくなっていく。

 スピードメーターの数値が上がっていく。走る道など無い、どこを走ってもいい塩湖の上。ガソリンもオイルも、補修部品の心配さえいらないという事はさっき校長が教えてくれた。

 走る場所を制約する道。アクセルを踏むのを躊躇させるガソリン消費やエンジンの負担。そしてパトカー、藤巳がシボレーで走る上での制約が何一つ無い場所。

 藤巳はヘッドライトを切った。既に星の光で走行に支障ないほどに明るく、自分の位置を周辺の車に知らせる必要すら無い。

 藤巳にとって夢のような場所、ただシボレーで走って、走り続けていられる世界。

 もしかしてアリゾナの道路で1千馬力を得るニトロスイッチを入れた時、自分は死んだのかもしれないと思った。

 あの速度で車体が吹っ飛んで地面に叩きつけられれば、何が起きたのかを理解する間もなく即死していただろう。

 この世界は車とスピード以外に楽しみを見つけられないまま死んだ自分に与えられた、肉体と精神が消滅する前の世界なのかもしれない。

 車を愛した者の天国か、それとも、こうして走り続けるだけの時間を永遠に続ける地獄か。

 藤巳はアリゾナの博物館で、共に働いていたフランクリンとミントに話した言葉を思い出す。

 もしかして世界のどこかに、失われた車の墓場があって、潰れたり朽ち果てたり、一塊の鉄屑になった車の魂は、そこで走り続けているのかもしれない。

 何にせよ望むところ。ここが車の墓場なら、自分は墓守りをするまでの事。

 藤巳はアクセルを緩め、ステアリングを切ってシボレーをターンさせる。

 ここに来てからずっと抱いていた、今までの知識や常識が通じない世界への不安は許容範囲程度には寛解された。

 藤巳はやっと自分が別の世界に来たことを受け入れた。ならば明日から始まるという学園生活というものにも飛び込んでみようと思った。

 シボレーC-10トラック、藤巳のドラゴンと共に。

 藤巳は来た道を戻った。空を横切る天の川の位置で方角の見当をつけながら走り、ブラーゴやレベルがオアシスと呼んでいた緑地の島へと帰り着く。門を通り、学生寮区画の曲がりくねった道を、寝ている生徒たちに気を使って静かに通過し、来賓室に到着した。

 部屋の中に車ごと入った藤巳が戸を閉めると、どこにスイッチがあるのか室内の灯りが勝手に点く。藤巳は着ていたジャケットを脱いで部屋にあったハンガーにかけ、ジーンズとボタンダウンシャツ、下着を脱いだ。

 ベッドの上に用意されたローマ時代の貫頭衣のようなパジャマを着た藤巳は、ヘッドボードの水瓶から水を一杯飲む。アリゾナの湧き水と東京の水道水の中間の、美味くも不味くもない味。

 清潔な匂いのベッドに寝転がり。掛け布団をかけると、早くも眠気がやってくる。部屋の灯りが勝手に消える。

 静寂の中。藤巳はシボレーのエンジンが冷えていくチリチリという音を聞きながら眠りに落ちた。

 

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