第7話 アンチモニー校長
校長と名乗る黒髪の女子は藤巳に右手を差し出した。
藤巳はついさっきレベルと握手し、子供みたいな大きさの手ながら、ポルシェを日々扱っていることを感じさせる強い握力と固い掌に気付いたが、この市松人形を思わせる女子の手は、吸い付き締め付けるような、藤巳の知っている人体の常識が通じないと錯覚させるような印象を抱かせる。
弱めの握手をして手を引っ込めた藤巳に、アンチモニー校長はデスク前の椅子を勧めた。
藤巳がブラーゴの言いなりでここに来たのは、何かを売りにきたわけでも頼み事をしにきたわけでもなく、自分を取り巻く不思議な状況について聞き出すためだったが、アンチモニーと言う少女に毒気を抜かれたように大人しく席につく。
理由の一つは、自分よりだいぶ背が大きい男の藤巳を見ても、気後れや警戒を微塵も感じさせない黒目がちな瞳と、もう一つの理由。部屋の三分の一近くを占めている漆黒のランボルギーニ・カウンタック。
尋ね事をしにきたという目的を半ば忘れ、この車を触らせて、あわよくば乗せて貰いたいと思い始めていた藤巳は、デスク前の椅子に座ったアンチモニー校長に話を切り出す。
「まず最初にお聞きしたいことがあります。ドラゴンとは何ですか?」
さほど興味の薄い雑多な問題は早めに片付け、あとはランボルギーニの話をしたいと思っていた藤巳は、さっきからブラーゴやレベルが発するドラゴンという単語の謎について聞いておこうと思った。
アンチモニー校長は揺るがない瞳で藤巳を見つめながら言う。
「ドラゴン、それは人を守り人を助け、人を人には達せぬ速さの世界へと連れていくものです。機械にあらず獣にあらず、この世界ならざる物をドラゴンと呼びます」
余計に混乱した藤巳は、それまでの推測からもっと明快な答えを得るべく立ち上がった。
デスクの背後にある窓から、この建物の前庭に並ぶ三台の車を指す。
「要するにあれの事ですか?」
後ろで突っ立っていた二人のうちブラーゴが反応する。
「ちょっとあんた校長に無礼よ!」
アンチモニー校長がブラーゴを制するように視線を送ると、ブラーゴはハっと口を噤む。それからアンチモニーは藤巳が見る限り一度も笑っていなかった目を少し和らげ、横のカウンタックを指して言った。
「ええ、これもそうですね」
藤巳は回答を得た。正確にはブラーゴとレベルの会話から察していた答えを検算した。この女たちは藤巳が日本語で車、英語でCARと呼ぶものをドラゴンと称している。
アンチモニー校長はその体格には大きすぎるデスクチェアから足をブラブラさせながら言う。
「それでは今度は私からご質問させていただきます。あなたはどこのどなたですか?」
背後のブラーゴとレベルも藤巳の答えを待っている気配がする。藤巳としても部屋に招き入れられ問いに答えてもらった以上、身元を名乗ることに異存は無かった。
「俺は高良藤巳、アリゾナ州ツーソンのホットホイール博物館で学芸員補助をしている。国籍は日本。ワーキングホリデービザでアメリカに滞在している」
後ろの二人が固まっている気配が藤巳には理解できなかった。それほど突飛な経歴とも思えない。アメリカの一部で日本人への排斥感情があったのも昔話、今じゃどこにでも居る、それに目の前のアンチモニー校長は何一つ驚いていない。
アンチモニー校長は藤巳を上から下まで眺めた後、もう一度藤巳の目を見て言った。
「非常に明瞭かつ簡潔な自己紹介でした。うちの生徒達に見習わせたいところです。一つ指摘、助言を差し上げたいところがあるとすれば、あなたが発した言葉の中に、わたしが知っている単語が何一つ無いということでしょうか」
驚いたのは藤巳のほうだった。目の前の女はアリゾナもアメリカも、日本さえ知らないという。後ろをチラっと見たが、ブラーゴは眉間にシワを寄せ、レベルは無表情ながら目を見開いている。納得する回答を得た顔ではない。
藤巳はアメリカ東部に文明的な生活を拒む宗教的コミュニティが幾つか存在する事を知っていたが、フェラーリにポルシェにランボルギーニ、スーパーカー教なんて聞いたことないし、そんな物があったら外車輸入業をしている藤巳の父親がすぐに買い付けに来るだろう。
アンチモニー校長は藤巳を見ながら言う。
「困りましたね、何か他の確認手段があればいいのですが」
校長は言葉に反し困惑が感じられない瞳で藤巳を見る。藤巳にはこの感情が窺い知れぬ校長が、目の前の男から何が出てくるのか楽しみにしているように見えた。
藤巳は今までのそれほど豊富でもない対人経験から対処策を思考する。一つ思いついた。藤巳の父が言葉の通じぬ相手と商売をする時の手段。
「身分証を見ればわかるかもしれません」
困った時は筆談。藤巳は自分の名前や所属、国籍、瞳の色まで書かれたアリゾナ州発行の免許証を取り出し、デスクの上を滑らせてアンチモニー校長に渡した。
校長は日本に比して簡素な紙の免許証を丁寧に受け取り、しばらく眺めていたが、何かを思いついた顔をしてデスク端のペン立てから一本のペンを手に取った。
ボールペンでも鉛筆でも羽根ペンでもない、ガラスの棒みたいなペンを手に取った校長は、藤巳の免許証をひっくり返し、そこに何か書き始めた。
免許証の裏に書かれるのが違反履歴である事は日本もアメリカも変わらない。アリゾナに来てから今まで免許の裏を綺麗なまま保っていた藤巳は思わず声を上げた。
校長は立ち上がり、手を伸ばしてデスク越しに免許証を返してきた。藤巳はどんなイタズラ書きをされたのか免許を裏返して確かめる。
それは文字のような図案のような、歴史の教科書で習った象形文字を思わせる羅列だった。
何て書いてあるのかと思った途端、その象形が脳内に直接意味を伝えてきた。
これが読めますか?
知らない文字なのに読める。薄気味悪さに免許を手から床に落とし、慌てて拾い上げる。
違和感の元を消し去ろうと免許の裏をゴシゴシ擦っても、書かれた文字は消えない。英語の記載と校長の書いた未知の文字、同じく知っている言語のように読み取れる。
「お読みになったのですね?」
藤巳はすぐに否定してここから逃げ去りたい気分だったが、藤巳の反応を見たアンチモニー校長は疑いを挟ませぬ口調で言った。
「トーミさん、あなたはわたし達が知る世界の外、ドラゴンの世界から来たお方です」
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