カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(27)
顔に何か生温かいものが伝ったと思ったら、それは血液だった。
既にあちこち怪我していた俺は、またどこか新しい傷でも出来たのかと思ったが、それは自分の血ではなかった。
目の前では、二頭の獣が互いを殺しあっている。
一つは雄牛よりも大きいライオン。もう一頭の獣は、身長百五十cmにも満たないであろう金髪翠眼の少女。
巨体のライオンは胴体と頭部に二発ずつのスラッグ弾を受けていた。そのうちの三発は強靭な体毛と皮膚に阻まれて致命傷にはならなかったが、少女が最後に放った一発を目に食らい、片方の眼窩から血を撒き散らしていた。
眼球を貫通したららしきスラッグ弾がどれほどの深さに達したのかはわからないが、さっきまで機敏な動きを見せていたライオンは四肢を震えさせ、自らに死をもたらす銃弾を吐き捨てようとしているかのように、首を激しく振っている。
ライオンの至近に迫った少女は手に持っていた散弾銃を投げ捨てた。このライオンが手傷によって無防備になるのはほんの一瞬。散弾銃に再装填している時間は無いだろう。少女は右腿から剣のように長いハンティングナイフを抜いた。
人知を超越した力を宿したライオンを今まで追ってきた少女は、ハンターカブという獣の足と、銃身を切り詰めた散弾銃とナイフの牙、そして俺という餌を得て、あらゆる者にも倒せなかったライオンの命を狩ろうとしている。
少女はライオンの腹の下に潜りこみ、ついさっきライオンが俺にそうしようとしたように、心臓の位置に切っ先を突きたてた。
俺はついさっき言った言葉をもう一度繰り返した。
「殺すな!」
一度目に言った時は、少女は俺の言葉など断末魔の悲鳴か何かだと思って無視した。俺に反応してこちらを向いたのは、ライオンのほうだった。
ライオンは紫の目で俺を見る。野生動物特有の、本能で目前の生物を見定める視線。俺は問われている気がした。生き延びるべきは誰なのか。
俺だっていかに自分の人生が無価値であろうと、自分自身の命が一番大事だということはわかっていた。でも、この森で、魅入られるほど美しいライオンの糧になることで、俺が今まで自分を苦しめ続けた自我から開放されるなら、それが俺にとって最も望ましいことだということに気付いてしまった。
俺はライオンに食われ、小さく弱い体を捨ててこの雄大な森になる。自分の今までの人生が、そうするために組み立てられていたんじゃないかとさえ思えてくる。俺を幾度も虐待し、憎しみの対象でしか無かった母親さえもが、森の木々を傷つけ、やがて美しい森を作る強い風のように、俺にとって愛おしいものに思えてくる。
視界が澄み渡ってくるのがわかる。俺はもう森になりつつある。ライオンの胸に刃を突き立てようとしていた少女が、俺のほうを振り向いた。目が合った少女の表情が変わる。手からナイフを落とし、憎悪に輝くグリーンの瞳を恥じるように隠した。
次の瞬間、ライオンは前足で少女の体を払った。少女の体が朽木のように吹っ飛んで地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
少女という脅威を排除したライオンは、俺の元に近づいてくる。頭部の被弾によるダメージからは回復したらしい。もう逃げることは出来ない、逃げる気もない。ただ、俺はライオンの身に取り入れられる時を待った。ライオンは俺の体を丸ごと食らわんばかりに口を開けた。胸に牙が触れる、医療用のメスで切開されるように何の抵抗もなく胸の皮膚が裂かれる。ライオンは舌を突き出し、流れ出てくる俺の血を舐めた。
一度口を閉じ、血を飲み下したライオンは、空を仰ぎ見た。それから、森全体が震えるほどの大音声で咆哮した。
俺の意識と鼓膜がかろうじて無事だったのは奇跡的としか言えなかった。空に向かって吠えたライオンは、両腕を広げ、心臓を差し出す俺に冷ややかな一瞥をくれると、そのまま身を翻し森の木々の中に消えた。
しばらくその場を動けずに居た俺は、ふらつく足で少女に歩み寄った。草の上で大の字になって昏倒していた少女の肩に触れる。
少女は目を開け、次の瞬間には地面から跳ね起きた。体を探って散弾銃もナイフも失われていたことに気付いたらしき少女は、どこから取り出したのかいつの間にか手の中に現れたスプリング式の折り畳みナイフを手に、周囲を見回した。
「獅子はどこだ?」
俺は自分の胸を指した。横一文字の傷が刻まれ、血が流れ出ている。ひどく痛むが致命傷ではないらしい。
少女は特に驚くこともなく、予想していたことを確かめるように言った。
「お前を食わなかったのか」
俺は自分の傷を見下ろしながら答えた。
「そうみたいだ」
少女は俺を見て、それからライオンが消えた暗い森を見ていたが、「そうか」とだけ言った。
結局、俺の胸の傷は少女がサラシのような布を巻いて応急処置してくれた。ライオンに吹っ飛ばされた少女はといえば傷ひとつ無い様子。
同じくライオンに突進して跳ね飛ばされ、スクラップになったかと思われたハンターカブは、外装部品の多くが破損し、タイヤも歪んでいたがエンジンは問題なく始動し、走ることも出来るようだった。
俺と少女は二人でハンターカブに跨り、月明かりの獣道を走って少女の山小屋に帰った。
走るとはいえあちこち騒音を発するカブのせいか、帰り道ではお互い無言のままだった。俺も少女も、俺たちがこれから話さなくてはいけないことを言えなかった。
俺はこれからどうするか、少女はこれからどうしたらいいのか。
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