カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(26)
ハンターカブに跨った少女は、体の前でクロスさせた左手でアクセルグリップを全開にして、俺を轢き殺さんばかりのスピードで突進してくる。
ついさっき再装填して右手一本で構えた散弾銃の縦二連銃身を左腕の肘に当てながら、揺れるカブの上でしっかりと構えている。
銃口の黒い穴が見えた。狙われているのは俺。少女はライオンが俺を食おうとする瞬間を撃つ。
一度俺の胸に牙を立てながらも少女の放ったスラッグ弾を食らったライオンは、ちょっと強めのストレートを食らいつつダウンを回避したボクサーのように、四肢を踏ん張って再び俺に襲いかかってきた。
俊敏な動きを見せる二頭の獣に対し、俺は半ば腰を抜かしたような格好のまま。捕食されるのを待つだけの姿になっていた。
胸の傷は太い血管には達しなかったらしいが、ウールシャツに血の染みが広がる。痛みや負傷のショックよりも、まだ血が流れ自分が生きていることを確かめて安堵するような気分になった。きっと俺に残された命は、あと一秒にも満たない。
猟友会はもちろん警察や自衛隊、この世のいかなる力を以ってしても倒すことの出来ぬライオンが、明確な俺への殺意を示していて、それを撃つことが出来ると称する少女は、ライオンが俺を食っている時という条件つき。
あのライオンを倒すことのみのために生きているかのような少女は、ライオンを倒せる好機の前には俺の命など一顧もしないだろう。
被弾の衝撃を緩和するためか、ホームベースから三塁くらいの距離のある位置まで飛び退ったライオンは、手傷など何も負っていない様子で再び俺に向かってくる。
ピッチャーマウンドほどの間合いからハンターカブで走ってきた少女は、俺の居るバッターボックスの位置までの到達ではライオンに一瞬遅れる。その間、俺に可能だったのは、仰向けに引っくり返った体勢から上半身を起こすことだけ。ライオンは口を開けて牙を剥き、俺の頭部を食らおうとした。
今度こそもう終わりか、痛みや苦しみを味わう暇も無いほどに一瞬で頭蓋を噛み砕いてくれそうなのが唯一の救い。そう思った瞬間、ライオンは京劇の演舞のような動きで体を反転させる。いや、きっと京劇のほうが猫科の動きを真似たんだろう。
ハンターカブで突っ込んでくる少女に向き直るライオン。少女の構える散弾銃の銃身は動かない。ライオンを狙い、俺を狙っている。
極限状態で先鋭化した俺の視力は、少女がハンターカブのアクセルグリップを全開にしたまま、足さばきを少し変えたのに気付いた。
少女はカブの左足で踏むシフトチェンジペダルを踵で蹴った。手で操作するクラッチレバーの無いカブは、シフトペダルを踏んでいる間はクラッチが切れ、踏み足を戻すとクラッチが繋がる。
四速全開のままクラッチを切られたカブのエンジンが負荷を失って高回転域まで回る。カブのエンジン音に応えるようにライオンが咆哮した。こちらに背を向けているとはいえ、鼓膜だけでなく脳や頭蓋骨までもが割られそうな音。
少女はカブのシフトレバーを踵で蹴って三速に落とし、踏み足の荷重を踵から爪先に移した。急激にクラッチが繋がり、後輪が急加速した。前輪が持ち上がる。走る能力しか持たぬカブが蹴りを放ったように、カブの前輪がライオンの鼻先に襲いかかった。
次の瞬間。ハンターカブはライオンと激突した。
大型トラックさえスクラップに変える巨大なライオンとの衝突で。カブの車体が少女と共に吹っ飛ばされる。ライオンはさっき食らった二発のスラッグ弾よりダメージを食らった様子で後ずさる。ライオンの背が俺の視界を占めた。不意に母親を思い出す。生きている間ずっと俺を虐待し続けた母が急死した時は、人生で最大級の安堵と幸福感を味わったが、今になってみると、その肉体的、精神的な虐待による負荷で免疫を受けたことで、今まで死なず生き延びたという考えも無くもないとも思えるようになった。
この世の悪意を煮詰めたような母への思慕など無いが、生まれた時には二十歳まで生きられないとさえ言われた虚弱な俺を生存させてくれた要素の一つではあるんだろう。
そう思っていると、もしかして目の前のライオンが俺を守り、少女こそが外敵であるという錯覚にすら陥ってくる。俺は自分の頭を振った。俺にとっての敵とは自分を殺そうとする者。殺す者に抗うには殺すしか無い。
少女に向き直っているライオンは、ヘッドギアに一撃食らったボクサーのように、カブとの衝突で食らったダメージの回復に集中しつつ、体を絶えず揺らして相手の攻撃に備えていた。
カブと共にライオンに跳ね飛ばされた少女は、体を回転させながら着地し、ライオンに生じた一瞬のパフォーマンスダウンをチャンスとして活かすべく、自身も地面に叩き付けられたダメージが残る中、ライオンの顔面に散弾銃の狙いをつけた。
二連発の銃声。ライオンがタテガミに覆われた頭部をのけぞらせるのが見えた。その時、俺は確かに叫んだ。
「殺すな」
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