カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(24)

 森の奥深くにある、野球のスタジアムほどの広さの草原で宿敵のライオンと対峙した少女は冷静だった。

 月の光を受けてグリーンに輝く瞳でライオンを眺めている様は、憎しみや戦意よりも好奇心のようなものすら感じさせる。きっとこの少女は、もうそんな段階などとっくに超越しているんだろう。


 もう何年も前に経験した受験のことを思い出した。俺を虐待する母から逃げたい一心で、人生を賭けるような気持ちで受けた大学の受験の日は、目覚めた朝も会場までの道中も心臓が痛くなるほど緊張し、試験会場では筆記具すのに苦労するほど手が震えたが、いざ試験用紙を目の前にすると、体内にある緊張の素が枯渇したのか、テレビのクイズ番組でも見るように問題を解くことが出来た。

 結局のところ予想より良くも悪くもない結果で受験には成功し、実家を出ることは叶わなかったが、逃げるまでもなく母は数年後に死んだ。

 

 ライオンは草原の中央近く、野球でいえばピッチャーマウンドがあるあたりで、月光を背に直立していた。少女はバッターボックスの位置でハンターカブに跨っている。

 少女は呟きか独り言といった感じの声を出した。

「降りろ」

 そう言うや否や、少女は後ろ手で俺を突き飛ばした。口調や体格に似合わぬ、少女の意志が筋力を与えているような力で、俺は荷台から叩き落されて尻餅をつく。


 少女が東京に来て間もない頃に言っていた。俺には野生動物を惹きつける、人間にはとても稀な臭腺があるという。あのライオンは俺の臭いを追って東京まで来た、と。

 俺が生きて臭腺から麝香を発している限り、あのライオンは俺を追い続け、どんなに守りを固めてもそれを破って俺の体を食らうという。そこにあのライオンを祖父の仇とする少女が現れた。あの強靭で狡猾なライオンを狩る唯一の方法は、ライオンが俺を食う時の一瞬の無防備。その機を逃さず、少女が祖父から受け継いだ散弾銃と特製のスラッグ弾で射殺すること。


 それは俺が生き延びる唯一の手段でもあるという。俺が大人しくライオンの餌になり、少女が何の障害も無くライオンを撃てる状況を作り出せば、手足と内蔵が幾つか無くなる程度で助かる可能性が無くもない。

 何だか子供の時に読んだ狼王ロボに出ていた毒餌にでもなった気分だが、俺は少女の信じがたい提案を受け入れ、東京で狩り逃したライオンを少女のホームグランドで殺すべく、少女の暮らす山へ行くことに決めた。


 この少女に祖父の仇を討たせてやろうなんて気持ちは毛筋ほども無い。少女の話を鵜呑みにしていたわけでもない、ただ、母の遺産で食うに困らず家から出ない暮らしで、しばしば俺を襲った、もう生きていなくてもいいといいう思考から逃れられるならば、何でもいいと思い、偶々現れた少女に縋った。

 部屋で一人で居る時に纏わりつく死の誘惑と、俺を食い殺そうとしている巨大なライオン、どっちが怖いかを考えたが、考える前に逃げたほうがいいという結論に至り、俺は恐怖と緊張で半ば腰を抜かしながら、四つんばいになって逃げた。


 東京で常に俺に付き従い守っていた少女は、打者がバットを放り出すように俺を捨てて、バッターボックスから一塁の位置へと走り出した。ライオンの体がゆらりと動く。次の瞬間、ライオンは一塁への牽制球よりホームベース近くに居る俺の生命をワンナウトにすべく、一直線に走ってきた。

 こちらに向かってくるライオンの背後で、少女が二連発の散弾銃を構えるのが見えた。

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