カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(23)

太陽光を反射する月は、都会で暮らしていた人間にとっては信じられないほどの光量で、森全体を照らしている。

 以前ネットの読み物で、月の満ち欠けは人間の精神状態に大きく影響していて、満月の夜は犯罪や事故が増えるという話を聞いたことがあるが、これほど明るい月の下に居ると、その理由がよくわかる。夜間の光量が増えればそれだけ活動の範囲や時間も増加する。だから事件も多くなる、それだけのこと。

 俺と少女もまた、月が隠れている晩には到底走れぬであろう暗闇の獣道を、ハンターカブで走っていた。


 ついさっき少女が電源のコネクターを引っこ抜いたので、カブのヘッドライトは点灯していないが、月光のおかげで路面と進路の状態は問題なくわかる。

 ある程度の速度までなら、直接的な照明で明暗の差が大きい日中よりも、間接照明の月明かりのほうが走りやすいかもしれない。

 林道をブっ飛ばすラリー車ほど速くはないが、人の足ではありえない、ちょうど猪や熊が山中を駆けるくらいの速さで走るのは、快適ともいっていい走行環境だった。


 少女の暮らす山に来て数日。ネットもテレビも無い山小屋は、思ったより快適で興味深いものだったが、こうやって月夜の晩にハンターカブで走り回るのも気持ちいい。

 これがただのカブ散歩ならどれだけ良かっただろうと思いながら、カブを操縦する少女の背を見つめた。

 少女は夜中に俺のベッドまでやってきて以来、触れるのが怖くなるほどの緊張感を纏っていた。

 人間にはとても稀な臭腺を具えているという俺を追って、日本のどこかから東京までやってきた巨大なライオン。少女の祖父を殺し、少女がずっと追っているという獅子がすぐ近くに居るらしい。


 ハンターカブで獣道を走り続けて随分時間が経った。

 山小屋での暮らしの中で、時計で時間を測ることを忘れつつあったが、低い位置に出ていた月が頂点に近い位置に昇るくらいの時間。防火林道の奥にある湖畔の山小屋から、どれだけ山中深く分け入ったかわからない。

 登山者や林業関係者が往来する登山道周辺が山という大きな生物の表皮なら、きっと今走っているのは、人が分け入るを許されぬ山の胎内のようなものなんだろう。


 ジープすら走れぬ山道をオフロードバイクで踏破した奴が、こんなとことまでバイクで登った人間なんて他に居ないだろうと思ってたら、地元の山菜取りのお爺ちゃんがカブで来ていたという話を聞いたことがある。

 ダカールラリーの参加車両に関する規定が緩やかだった頃、バイク参加者の多くが走るのを諦め押して歩く最難関セクションで、カブは数少ない生き残りのバイクの中に名を連ねていたという。

 そして、このハンターカブもまた、他のバイクや移動機械には決して出来ないことをしていた。少女が自らの手足に等しいほどに乗りこなしているハンターカブは、人の体しか持たぬ少女を獣に変える魔法の道具のように、人が分け入ることの出来ない獣の領域を走っていた。


 カブが少女にとっての獣の足なら、俺は少女の背にそっと触れた。脇のあたりに硬く冷たい金属の感触。高価な狩猟用散弾銃の銃身と銃床を惜しげもなく切り詰めた少女の牙。

 月光の夜、一頭の獣となった少女は山中を駆けていた。少女が必ず殺すと誓った獅子を追うために。

 次の瞬間、俺は自分の考えが間違いであることに気付いた。夜中に俺を連れてカブで山小屋を出た少女は、ライオンを追いかけるために山に入ったのでは無い。

 視覚や聴覚ではなく、人の身に備わった未知の器官のようなものが、俺の誤った推測に正しい答えを与える。全身が逆立つような気分。背後から迫り来る生命の危機。俺の前でカブを操縦する少女の金髪が微かに逆立ったのが見えた。

 あのライオンがすぐ近くに居る。今までずっと山中をカブで走っていた少女はライオンを追っていたのではない。必死で逃げていた。


 木々のトンネルのような獣道が唐突に途切れ、前方に広い空間が現れた。

 月の光に照らされて銀色に光る草原。カブはどこか古代の闘技場を思わせる森の中の広場に出た。

 少女は草原の真ん中でカブを急停止させる。つんのめって少女の背にぶつかった俺は後ろを振り返り、少女がカブを止めた理由となるものの姿を見た。

 雄大な体に白銀の体毛。血を吸ったように赤みがかったタテガミ、俺が東京の街中で遭遇した、あのライオンが居た。

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