カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(20)
女の子の部屋にお邪魔するなんて経験は初めてだったかもしれない。
高校から大学の時には、居心地の悪い家から逃げ出すようにバイトに励み、学校やバイト先で親しくなった人間の中には女の子も居たが、部屋への誘いは理由をつけて断っていた。
誰かの住処に行けば、どうしても自分の部屋と比べてしまう。その当時から建坪はそれほど広くないが建物への金のかかり具合に関しては豪邸とも呼べる家に住んでいて、広い俺の部屋には空調もセキュリティも備わっていたが、俺にとって自分の家とはくつろげる場所では無かった。
普段から気まぐれに俺を殴り、酒に酔うと虐待の度合いがひどくなった母親の目を逃れるように過ごし、母が眠ったり外出したりした頃を見計らって眠る。目覚めた時に嗜虐の笑みを浮かべて木刀やスタンガンを持つ母親が居ないことを願いながらの短い眠りには慣れたが、他人の家に行って誰も入ってこない部屋や、眠っている間の身体の安全を心配しなくていいベッドを見ると、羨望で体が痛くなる。
それに比べ、今の環境はどうなんだろうと思った。銃火器と獲物に囲まれた山荘で、俺はライオンから襲われる脅威に晒されている。目の前の少女は、壁で擦ったマッチで石油ランプと薪ストーブに火を点けている。
炎に照らされた少女は、モスグリーンのマウンテンパーカーを脱いだ。下にはオレンジのウールシャツとショットガン。腰には剣のように長いナイフ。
ビアンキの革ホルスターで吊られた散弾銃を外した少女は、銃器整備用の机の隣、鉄パイプに幾つかの服が架けられた部屋の隅に歩み寄る。
もしかして俺のことを意識せず、ここで着替えるつもりかとちょっと期待したが、少女が取り出したのはポケットの一杯ついた厚布製のベスト。
中には色々なものが詰まっているらしくポケットが膨らみ、重そうな音を発てるオリーブ色のベストを着た少女は、銃器の架けられた壁の横から何かを取り出しながら言った。
「夕食の鱒を釣ってくる」
少女はそう言って山小屋を出ようとする。俺もあまり座り心地よくない獣の敷き革から立ち上がり、一緒に外に出る。
後ろからついてきた俺を振り返った少女は、山小屋の隣にある物置のような小さな丸太小屋を指しながら言った。
「風呂にでも入って待っていろ」
ここでは俺は余所者で居候。大人しく少女の元を離れ、小屋に行く。最初にあの少女をうちに泊めた時のことを思い出した。あの時もケータリングの夕食が届くまで風呂に入れたような気がする。
一度丸太小屋に戻り、ハンターカブに積みっぱなしだった給食袋程度の旅荷物から、一枚だけの替えパンツとシャツを出した俺は離れの小屋に行く。
風呂に入れといっても沸かし方も聞いてない。だいたい湯沸かし器なんてついているんだろうかと思いながらドアを開けたが、狭い脱衣場の奥の引き戸を開けると、広い檜の浴槽には湯が満たされていた。
いつのまに沸かしたのかと思って風呂場を見ると、浴槽の横の変色した金属製のパイプから入浴剤の匂いのする湯が流れ出ている。温泉を引き入れているらしい。
風呂場に置かれているランプの使い方はわからなかったが、外の光が入る大窓があった。目の前には湖が広がり、山々の間に陽が沈みつつある絶景ともいえる景色。夜も月が出ている日ならロマンチックだろうと思った。
湖ではカヤックのような舟に乗った少女が釣り糸を垂れている。釣果に恵まれたらしくカヤックを漕いで湖畔の桟橋に戻ってきた。
その後もしばらく、夜の帳が降りる頃まで入浴を楽しんだ。シャンプーもシャワーソープも見当たらないが、このお湯だけで充分な気がする。事実あの少女は綺麗な金髪と白い肌を保っている。
それなりに満たされた気分で風呂から上がり、丸太小屋に戻ると、中央のテーブルには夕食が並んでいた。
刻みアーモンドが乗った五百グラムはありそうな鱒のムニエルと山菜のソテーと黒パン。少女がグラスに透明な液体を注いでくれた。
少女と差し向かいに座り、いただきますと言って鱒と黒パンを食べ始めた。少女は軽く頷いて食い始める。透明な液体は飲んでみると湧き水らしく清涼感のある味。
向かいでナイフとフォークを忙しく動かし、鱒と黒パンを食らう少女のおかげで、俺も気取らずリラックスして食べることが出来た。皿に残ったバターソースまで黒パンで拭いて食う。
食後に少女が出したイチゴ、ブルーベリー、ラズベリー等の盛り合わせをデザートに食べ、満たされた思いで少女にごちそうさまと言った。
俺より先に夕食を終えた少女はまた軽く頭を頷かせるだけだったが、ほんの少し、得意げに笑っているようにも見える。
食事を終えた少女は風呂に入ったと思ったらすぐに出てきた。前もそうだったが彼女の入浴時間は短い。少女は部屋の隅のデスク前に座り、銃器の整備を始めた。することの特にない俺は、敷き革の上に寝転ぶ。熊らしき動物の毛皮は感触意が生々しくて苦手だったが、慣れると悪くない。
銃器の分解整備を終えたらしき少女はドアを開けて外に出た。湖に向かって二連ショットガンを撃つ。一つ頷いた少女は硝煙の香りをまといながら室内に戻ってくる。
試射を終えた少女は、部屋の隅にあるベッドを指差して言った。
「おまえはそこで眠れ」
それだけ言って、少女は山小屋の中二階に繋がっているらしき折り畳みの階段を登り始める。俺は赤白チェックのシーツがかかった、赤毛のアンの映画に出てきたような木製ベッドと少女を交互に見ながら言った。
「お前は二階で寝るのか?」
ついさっき少し見せてもらった中二階は、見た限り屋根裏といった感じのそれほど広くないスペースに、キャンプベッドと寝袋、小さなテーブルがあるだけだった。
もし自分が普段寝ているベッドを俺に譲ってくれたというなら、俺は遠慮して二階で寝ようと思った。
少女は面倒くさそうに答えた。
「あの獅子が一階のお前を食いにくる、私が二階から撃つ」
極めて明瞭な理由。エサは鼻先に、待ち伏せは奥に。どっちにせよ今日は長い一日だった。考えるのが面倒になった俺は少女が普段使っているらしきベッドをありがたく借りることにした。
階段を登る少女は、もう一言付け加えた。
「ゆっくり眠れる夜は、これが最後だと思え」
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