カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(15)

 俺には少女が小声で述べた謝罪の意味がわからなかった。

 肩に負った怪我のせいで難しいことを考えるのが面倒臭くなっていたんだろう。

 特に意味のある言葉だと思えなかったので、とりあえず俺は怪我の処置が終わったことに安堵し、ウールの靴下を被せられた傷口を撫でた。

 ただシャツを着るだけでも片手では手間がかかったが、日本では非合法なサンタマリア・ノヴェッラの軟膏が利いたのか、鈍い痛みを感じるだけで発熱や再出血は無い様子。

 俺が何も言わずにいると、少女はまだ血の残るバスルームの浴槽を見つめながら呟いた。

「わたしはハンター失格だ。都会だ祭りだと浮かれて備えを怠り、結局のところ獅子に遅れを取ってしまった」

 俺としては夜店を巡っている間も、初めて会った時と何も変わらない様子だった少女が浮かれていたということに驚かされたが、何か俺にはわからぬ彼女なりの内面変化があったんだろう。


 俺は頭の半分で少女の話を聞き、残りの半分で今夜の夕食を何にしようと考えていたが、夜店で色々食べた上に怪我のこともあって食欲が無かったので、とりあえず少女に向き直った。

 少女は俺から目をそらしながら言う。

「何より大切なお前に傷をつけてしまった」

 少女の話を聞く姿勢を取りながら、頭の中では今夜何のアニメを見ようかと考え始めていた俺の思索はどこかに飛んでいった。

 この無口で無愛想、おまけに順法精神にも乏しい少女は、俺のことを大事に思ってくれていたんだろうか。

 少女は潤んだグリーンの瞳で俺を見る。そして俺の体に指を触れながら言った。

「お前は私にとって大切な人間だ。お前という餌があれば私にもあの獅子を狩ることが出来る。あの獅子がお前を食う瞬間こそが、私のただ一つの好機だ」

 多少なりとも真面目に話を聞いたのがバカらしくなった。途端に腕の傷が痛み始める。もうこの少女と、彼女が連れてくる面倒事とは縁を切りたい気分だった。


 俺は自分の身に降りかかった厄難を出来るだけ手っ取り早く片付けるべく、少女に言った。

「お前はあのライオンを殺すために、俺の居る東京までやってきた。そうだな?」

 少女は頷く。俺はほとんどその場の思いつきのような提案をした。

「それがアウェイでは勝てない相手だとして、ホームならどうだ?」

 俺を見つめるグリーンの瞳が輝きを宿した。一つだけわかったのは、この少女は祭りを楽しんでる時や落ち込んでしおらしくしている時より、狩る者の顔をしている時のほうが魅力的だ。

「どうせ俺はこの家に閉じこもっていても、いつかはあのライオンに食われるんだろ?」

 少女は家の中を見渡しながら答える。

「そうだ。あの獅子は既にこの家を狩り場と想定し、侵入路と退路を作り始めている。準備が終わったらこの家の壁など易々と破るだろう」

 少女と話すことで、俺自身の中の迷いも消えていく。俺は自分自身の決意表明を兼ねて、少女に言った。

「俺をお前の山に連れていってくれ」

 そう言いながら差し出した手を、少女は握り返した


 俺のことを獣の餌だと思っている少女と交流を深める気など無かったが、これから少女を俺の衣裳部屋に連れて行き、一緒に旅準備をしなくてはいけない。

 俺は少女の手を引いて階段を登りながら、一つだけさっき聞き忘れたことを質問した。

「お前とライオン、山ではどっちが強いんだ?」

 少女はさほど性徴の見られない胸を張って言う。

「私に決まっている」

 根拠に乏しい不完全な言葉だが、とりあえず俺の背を押すきっかけとしてはそれで充分だった。


 正直なところ、俺は自分が何でこんなことを言い出したのかよくわからなかった。

 自身を守る最善の策のようでいて、口からのでまかせに近い提案。もっと熟考すれば、この家の守りを固めるなり公共の保護を求めるなり、いい案が出てきたように思う。

 自分自身に動機のようなものがあるとすれば、あのライオンと対峙した時、鋭い爪に腕を裂かれ、自分自身の血が撒き散らされるのを見た瞬間。

 あの時確かに俺は思った。もう死んでもいいんじゃないかと。

 とりあえず安全で不自由の無い家の中での暮らしをしている間、しばしば頭の中を過ぎった思考。

 このままでは、俺はライオンに殺される前に、自分自身の中にある何かが枯渇して死んでしまうだろう。

 俺は生きるために、長らく閉じこもった家を出て、少女と共に旅立つことになった。

 

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