カブ・ハンター ~forest princess in tokyo~(1)
やっぱり外になんか出るんじゃなかった。
息を切らし、足を震えさせ、今さらながら後悔する俺の視線の先には、一頭の獣が居た。
金色の体毛とタテガミ、猫科の獣であることを思わせる四肢。あれがテレビや新聞で見たことのある、ライオンという獣だということくらいは俺にもわかる。
横に停めてあった軽自動車より大きいライオンは、五十mほど離れた位置に居る俺を睨む。黒い目が光った。
ライオンは俺に向かってダッシュしてきた。俺は背を向けて全力で走る。
さっきからライオンに追いかけられていた俺は、地元の有利で小さい路地や徒歩なら抜けられる建物の隙間を利用して何とか距離を稼いだが、どうやらここまで。俺は無事に家まで帰ることが出来ない状況らしい。
ライオンはあっという間に距離を詰めてくる。人の足では到底敵わぬ速度。俺は理性による判断以前の本能的な生存欲求に従って走り続けたが、ライオンは俺を易々と追い詰める。鼻息が触れた。
畜生。人はなんて弱いんだ。もっと強ければ、もっと速く走ることが出来れば、こんなとこでライオンに食われ死なずに済んだのに。
俺の視界の先に、一人の人間が現れる。その人間はバイクに跨っていた。
縋りつくようにバイクの荷台に乗った。俺が逃げろという前に、バイクは急発進した。今にも触れんばかりだったライオンとの距離が開く。
振り返ってライオンの姿が見えなくなった頃、一息ついた俺を後ろに乗せたバイク乗りは、乗っていたオフロードタイプのバイクを停め、俺を引きずり下ろした。
状況はどうであれ、いきなり後ろに乗られたら誰でも怒る。俺は命を救って貰った礼を言うべく、バイクとそれに乗った奴を観察した。
丁寧に礼を言うべき相手か、それとも助けられた恩も投げ捨て逃げたほうがいいような危険な奴かを判断しなくてはいけない。
バイクは、カブと呼ばれる原付バイクだった。普通のカブではない。ごついタイヤ、悪路走行のため上部に装着されたマフラー、輸出用のオフロード仕様カブ、CT110ハンターカブ。軍用っぽい緑色に塗られた車体は傷だらけで、旅荷物らしき物が積まれている。
ハンターカブに乗った小柄なバイク乗りは、ボロボロのカブに似合いの格好だった。
風雨に晒されたペコスブーツ、あちこちが革で継ぎ当てされたジーンズ、元の色がわからないほどに汚れたマウンテンパーカーに革の手袋。ツバつきの帽子に顔を覆う布のついた溶接用のバラクラバ帽を被っていて顔はわからない。
バイク乗りはネズミ色のバラクラバ帽を脱ぐ。蜂蜜色の髪。白い肌にグリーンの瞳、薔薇色の唇。俺を助けてくれたバイク乗りは、女の子だった。
東京二十三区の端にある、杉並区の閑静な住宅街で、俺は一頭のライオンと、一人の少女に出会った。
また都内に動物が迷い込んできたらしい。
俺はネットやゲームをするため正面に置いている42インチディスプレイの横、TV放送を映している一回り小さいモニターを見た。
ニュース番組を流す画面では、都内のどこかに現れた猪がショーウインドのガラスを破壊する様が映っていた。
原付バイクよりも小さな体で暴れ回り、何人かの人に怪我をさせた猪は、猟友会の人たちに射殺されたらしい。
最近、東京に野生動物が現れることが多くなった気がする。
山と市街地が隣り合った神戸や大阪では、猿や猪の出没がローカルニュースになることは珍しくないというが、周囲の山と都心の間にベッドタウンと呼ばれる広い住宅地のある東京では、犬や猫より大きい動物に遭遇する機会はほぼ無かった。
それが今年になってから、数日に一度は都内に動物が現れ、捕獲騒ぎが起きている。
猪だけでなく、鹿、熊、ニシキヘビやワニまで出現し、そのたび少なからぬ被害が発生している。
ニュースでは温暖化と異常気象が原因だとか、ペットショップのずさんな管理や無責任な飼い主のせいだとも言われているが、原因はそれだけでは無い気がする。
どちらにせよ、家に居る限り関係の無いこと。そう思いながら俺は、射殺された猪が引きずられていく姿を映したTVモニターのチャンネルを、通販番組に変えた。
今の暮らしを始めて何年目か、ずいぶん長いこと家から出ていない。
父親は俺が生まれる前に姿を消し、数年後に死体で見つかった。女一人で俺を育て、しばしば俺に暴力を振るっていた母親は俺の大学卒業の目途がついた頃に病気であっさりと死んだ。
母が生前に個人経営の街金で稼いだ遺産の大半は相続税で持っていかれたが、そこそこ纏まった額の金と、二十三区の端、杉並区の一戸建てが手元に残った。
大学の卒業を控え、特にやりたい事も見つからず、俺が成長するに従って虐待と束縛がエスカレートしていた母から逃げたかった俺は、さしあたっての問題が無くなった今の家で暮らし続けることを選んだ。
外債と投資信託で、真っ当に税金を納めても現在の資産から暮らしに充分な配当を受けることが出来る。とりあえず家に居れば何でも通販やネット注文で手に入るし、食事はケータリング会社が配達してくれる。
人と会うのが嫌なわけではない、たまに宅配便の人と学生時代やった配達バイトの世間話などをしたりもするし、ご近所さんへの挨拶ぐらいはする。
ただ、外出や買い物、それに人付き合い等の、生きるために行う積極的な活動をする気にならない、それだけ。
広い家で趣味のコレクションに囲まれつつ、このまま人生を終えるのも悪くないかなと思い始めた俺の中に、一つの懸念が生まれた。
このままでは引きこもりニートになってしまう。
客観的に見れば自分が間違いなくそういう状態だということはわかっていたけど、まだ心のどこかで一歩手前で踏みとどまっているという根拠の無い自負のようなものがあった。
しかしこのままでは誰がどう見てもニート。俺は外に出るのが怖いんじゃない、ただ面倒なだけ、出ようと思えば簡単に出られる。そう思った俺は、数年ぶりに靴を履き、外に出ることにした。
そして、ネットやテレビではわからない外の世界の危険を目の当たりにした。
やっぱり外になんか出るんじゃなかった。ライオンに襲われるなんて思わなかった。
俺をライオンの追跡から助けてくれたハンターカブの金髪少女は、俺の姿を上から下まで無遠慮に眺めている。
とりあえず危険な相手ではないが、普通の人間でもないことは何となくわかったので、俺は簡単な礼を述べてさっさと家に帰ろうとした。
金髪の少女は俺の顔を見た、グリーンの瞳が鋭く輝く。少女は俺の肩越しに背後を見ていた。俺が振り返ると、さっき振り切ったはずのライオンが俺を見ている。
俺はもがくようにハンターカブに乗ったが、少女はその場に立ったまま動かない。恐怖で足をすくませているのかと思った俺は、少女の腕を強引に掴んでカブに乗せようか、それともこのカブを盗んで俺だけ逃げようかと考えた。
俺は自分がカブに乗ったことが無いことを思い出し、少女に手を伸ばす。少女をその手を払い、後ろ手でカブに手を伸ばした。
カブの車体に斜めに取り付けられたケースから何かを取り出す。ガシャンという金属音。
少女はカブに積まれていた二連発の散弾銃をライオンに向けていた。
ライオンと散弾銃を構えた少女は睨み合う。グリーンの瞳が、見ていて寒気がするくらい綺麗だった。しばらくこちらを見ながら、前足でアスファルトの地面を引っかいていたライオンは、やがて身を翻し住宅街の中に消えた。
ライオンの居た場所に散弾銃の銃口を向けながら、少女は口を開いた。
「私はあの獅子を狩りに来た」
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