深夜徘徊しませんか(後編)

 今までも週末の深夜徘徊は楽しみだったか、これほど土曜の夜が待ちきれなかったのはカブを買って最初の深夜徘徊に出た時以来かもしれない。

 平日の授業を上の空で聞いていた俺は、昼休みも携帯で深夜営業している古本屋やオタクグッズショップと、その周辺の地図を眺めてはコースを検討した。

 一緒に弁当を食べる友達なんて居ないので、自分の席で弁当を食べながら携帯をいじくってると、表示待ちで黒くなった画面に、目の前でパンを食っている幼馴染の淑江が映った。

 俺の後ろの席に座る彼女も誰かと一緒に弁当を食うことはせず、時々同級生から来る誘いを断って自分の席で食べているので、自然と俺は自分の席に跨るように後ろ向きになり、淑江の机に間借りするような形で弁当を食うようになっている。

 

 母親の居ない淑江は、いつも昼飯を学校に来る前にバーガー屋で買ってきたハンバーガーで済ませていて、たまにカブに関する情報を教えてくれた時は、俺の弁当に手を伸ばしてオカズを分捕ったりしている。

 普段はカブのことくらいしか会話をしない淑江が冷えたハンバーガーを齧りながら、ずっと携帯を見ている俺に言った。

「浮かれて乗ってると事故るわよ」

「わかってるよ」

 俺は相変わらず携帯をいじり、二人乗りのカブで走るには厳しい幹線道路を避けながら目的地に着くコースを組み立てながら生返事した。

 俺がカブみたいに武骨で頑丈なので気に入っているアルマイトの弁当箱に淑江が手を突っ込み、唐揚げを一つ取ろうとしたので、俺は情報の価値のようなものを査定した上で淑江の手を払い、卵焼きを摘み上げて淑江の口に放り込んだ。

 もっとくれ、といって口を開ける淑江を無視し、俺は今週末の深夜徘徊コースを決定した。


 待ちかねた土曜の夜。俺は鎌倉街道を北上し、町田と多摩の市境近くにある深夜営業の大型古書店へと、俺のカブ50改88をを走らせた。

 先週はいつも通り閉店三十分前に来て、二十二時の閉店まで店で過ごした後、来週これくらいの時間で、と曖昧な約束をした。

 今夜は少し早めの閉店四十五分前に行こうとしたが、出る前につまらない用が入ったり、忘れ物をして一度家に戻ったりして、慌ててカブを飛ばした。

 店に着いたのは閉店十五分前。遅刻とも言えない時間だけど、女を待たせるろくでもない男になってしまうのもあまり気持ちいいものではない。俺を望んだ場所に連れてってくれるカブを自慢しようにも、遅れてしまったんじゃ説得力も無くなる。

 気合いを入れた格好をするのは気恥ずかしかったので、先週と同じ整備用ツナギにライディングジャケットだけど、一応洗濯はした。髪はどうせヘルメットで潰れるから何もいじってない。

 最良のライディンググローブとして愛用している滑り止め軍手を外し、スケボー用のハーフヘルメットを脱ぎながら、今夜あの子を乗せることになるカブを一撫でした。洗車など縁のなかったカブは、水洗いされてシリコンスプレーで磨き上げられている。

 ヘルメットをいつも通り前カゴに放り込んだところ、メットが荷物に当たって音を発てる。

 新聞屋のカブで使われている大きなカゴに入ってたのは。もう一つのヘルメット。


 カブを買った時に淑江の部屋にある余ったヘルメットを分けてもらったが、女の子っぽいパステルカラーが少し気に入らなかったので、予備に回していたハーフヘルメット。

 時間が無く少し焦り気味だった俺は、定位置を別のヘルメットに占領され、自分のヘルメットをどこに入れておくか迷ったが、結局カブを買って以来数えるほどしか使ったことのないシート後ろのヘルメットホルダーにヘルメットの金具を通した。

 リアキャリアの奥のあって使うのがとても不便なヘルメットホルダーは、鍵をこじ開けてヘルメットを盗もうとする奴に作業を諦めさせるには最適だけど、もうヘルメットのストラップを切ってしまおうというイライラを引き起こす装置にもなることがわかった。あるいは、バイクごと持って行こうと思わせたり。

 次からはヘルメットの置き場所を考えなくちゃいけないな、と思いながらヘルメットを何とかホルダーに装着し、一度カブのバックミラーを覗き込んでから店内に入った。


 先週と同じ青年コミックのコーナーで、あの子はあっさり見つかった。

 棚に並ぶコミックを、手に取るでもなく眺めてた女の子は、服装も先週と同じように見えた。

 ジーンズにフリースの上着、布製スニーカー。よく見ると微妙に違う。先週の毛玉がつき、元のピンク色が褪せたフリースは、同じ店で買ったらしきマンゴーイエローの物で、新しい物らしく毛玉も袖の伸びも先週着ていた物よりマシになっている。

 足元も先週はデパートの婦人コーナーで見かけるような、デッキシューズかランニングシューズかわからないノーブランドのローカットスニーカーだったが、今夜はコンバースっぽいハイカットのバッシュ。色は紺で黄色いフリースとはチグハグな色。

 どうしようか、何て声をかけようかと迷った。一緒に古本の買い物に行く約束をしただけで、友達というわけでもない。やぁ、じゃ馴れ馴れしいだろうし、こんばんわ、じゃ堅苦しいく、キザにも聞こえる。

 俺が棚と棚の間で、本じゃなく客を見ている怪しい状態のまま突っ立ってると、向こうから俺に気付いてくれた。

 後ろで束ねただけの髪。銀縁眼鏡の奥の小さい目、少し目を離すと別の客の間に紛れてしまいそうな目立たない姿。俺を見た彼女は、口を開けて何かを言いかけたが、言葉が出てこなかったらしく、鳥が喉に何か詰まらせたような不器用な会釈をした。


 俺は彼女に歩み寄りながら言った。

「ご、ごめん、遅かったかな」

 女の子は首をぶんぶんと振りながら言う。

「いえ、その、立ち読みしてたら、すぐだったから」

 お互い顔を見合わせて笑う。愉快だったわけでなく、とりあえずそうするしか無い距離感。

 俺の顔を見つつ、目を合わせないままだった女の子は、俺の手元を見ながら言う。

「あ、あの、今日は、これから」

 女の子は目の前の書棚を見るような、その向こう、店の外を見るような感じ。先週言ったことが冗談だったのか、あるいは忘れているのかを測っているような口調。

「うん、君さえ良ければ一緒に行きたいな、ヘルメットも持ってきている」

 女の子は両手で口を覆い、眼鏡の奥の目を見開いた。それからまた不器用な会釈をする。

「あ、あの、ありがとうございます、楽しみにしてました」

 短い沈黙。お互いの遠慮や照れで、今すぐ行こう、とは言いにくい空気。俺もここでの買い物を中断させて今夜の深夜徘徊をこの子にとって退屈なものにしたくはない。


 二人して会話の続きに困った、俺は書棚に目をやった、それがここに来た本来の目的だと強がるような気持ち。書棚に並ぶコミック本をきっかけに何か喋る積もりだったが、逆効果だったらしく、女の子は特に欲しくもない古本を探す俺を邪魔しないよう声をかけずに居る。

 青年コミックの派手な背表紙を見ながら、ここからどうする?と思ってたら。俺たちの背を押すように閉店十分前の店内放送が流れた。

 俺は横で行儀良く待っている女の子を見て言った。

「行こうか?」

 女の子はまた頭を下げながら言う。

「よ、よろしくお願いします!」

 先に立って店を出ようとすると、女の子が俺の上着の端を掴もうとして、指先を触れさせて手を引っ込める。

「あ、あの、いいの?何も買わなくて」

 俺は古本の棚を見て、それから女の子を見て言った。

「ここには大した物は無さそうだから。これから色々回るから何か見つかるかもしれない」 

 俺にはそれを可能にするカブがある。今までこの古本屋しか行くことが出来なかったこの子にも、そんな世界を見せてあげたい。


 女の子にカブを見せるのが最初の正念場だと思った。失望されるだろうか。先週俺がカブに乗るのを見たはずだけど、カブは近くで見てみると二人乗り出来るようには見えない。

 後ろからちょこちょこついてくる女の子を従えるように店を出た俺はカブに向かって歩く。チラっと後ろを見ると、女の子は青いカブを見ている。目を輝かせてるように見えたのは店の照明のせいかもしれない。

 俺はカブの前カゴからヘルメットを取り出し。女の子に渡した。

「あの、お借りします」

 パステルオレンジのハーフヘルメットを受け取った彼女は、前後を確かめるように回しながら眺めてた後、頭に被った。

 ヘルメット姿の彼女は、自分がみっともないか気にしているような顔で俺を見る。俺は男としては小さめなSサイズのヘルメットを彼女が無事被れるか心配だったが、小柄な体格に似合いの小さい頭にはちょうどいいサイズだったらしく。なかなか似合っている。地味すぎる服装に彩りが加わったようにさえ見えた。

「先に乗って」

 自分のヘルメット姿を気にしている様子の女の子は、カブの後部キャリアに横座りした。

「跨って、そのほうが安全だから」

 女の子は慌てて一度カブを降り、意外とためらいのない様子で股を開き、カブに乗った。

 それから俺が自分のヘルメットをホルダーから外して被り、カブのシートに座ってエンジンをキックしていると、女の子は恐る恐るといった感じで俺の両脇から手を伸ばす。

 少女漫画に出てくるバイク二人乗りみたいに、ぎゅっと捕まるのか迷ってる様子なので、後ろを振り返って言った。

「右手は俺のズボンの腰、左手は後ろ手にキャリアを持って、体は密着させるより自分でバランスを取る感じで、そのほうが安定する」 

 俺が淑江から聞いた受け売りの二人乗りルール。女の子が言うとおりにしたのを確かめ。カブのサイドスタンドを外した。

 俺がもう一つの関門だと思ってる、後ろに数十kgの重量物を載せた状態での発進に集中しつつ、カブのアクセルをゆっくり開けた。

 カブは思ったよりもスムーズに動き出す。毎朝多くの新聞配達員が山のような新聞を運んでいるカブなら、人一人くらい造作も無いんだろう。

 後ろで女の子が「あっ」と声を上げた。


 発進と加速には少しコツがいる様子だったが、大通りに出るとカブは快調だった。

 スピードが乗ってくると後ろに人を乗せていることを忘れるほど安定し、加速や減速も自在に出来る。エンジンを88ccにボアアップして良かったと思った。

 後ろで大人しく乗ってる女の子も、特に悲鳴を上げたり体を強張らせることなくリラックスしている様子。俺が初めてカブで夜の徘徊に出た時のように、夜風の気持ちよさと、自転車とは全然違う力を手に入れた開放感を味わっているのかもしれない。

 もしもそうなら、この気持ちを共有したい。

 俺は加速良好ながら、ブレーキには意外と気を使わなくてはいけない様子のカブを出来るだけスムーズに走らせることに集中し、今夜最初の目的地に決めていた八王子の中央大近くにある、深夜営業の大型古書店へと向かった。


 それから毎週土曜の深夜徘徊は、決まってカブに二人乗りで行くようになった。

 最初は気遣いや遠慮のあった俺と彼女も、徘徊中のお喋りで互いの事を色々知ることになった。

 彼女の名前は後藤治子。驚いたことに俺より二つ年上で、北関東の高校を卒業した後、俺と出会った多摩の古書店とさほど遠くない川崎市北部の若葉台にある、IT企業の誘致地マイコンシティでシステムエンジニアをしているらしい。

 マイコンシティから自転車で通える距離にあるアパートで一人暮らしをしている治子は、土曜の夜になると電車とバスに乗って古本屋に行き、コミックやラノベを買って家で読むのが楽しみだったという。

 治子は見た目に似合わず少女漫画や女性向けBL本よりも、男が好みそうなラノベやコミックが好きで、棚を端から端まで見てはお買い得な本があると買い込む、俺も彼女に影響されてラノベを読み始めるようになった。

 俺は土曜の夜になると、狭く暗く曲がりくねった鶴川街道を走った先にあるマイコンシティ近くにある、システムエンジニアというイメージにはほど遠い幽霊でも出そうなアパートまで彼女を迎えに行き、一緒にカブで深夜営業の古本屋を回って時々買い物をし、大方の店が閉まる深夜二時~三時に若葉台のアパートまで送り届けた。


 部屋に入ることも平日に会うことも無い、携帯の番号やメールアドレスさえ交換しない、ただ一緒に深夜の徘徊をする関係。それが心地よかった。 

 時々治子はアパートに着くと、俺の上着を摘みながら、もう帰るの?とか、お腹すいてない?と言ってきたりするが、俺は誘いを断ってカブに乗り、一人でぶらぶらと走り回りつつ家に帰った。

 ずっと一人だった深夜の徘徊を一緒に楽しめる人間が出来た。土曜の夜が今までにも増して楽しみになった、治子と一緒に居ると、時々ジーンズの腰とかシャツの襟から肌が見えてドキっとさせられることもある、でも、俺は今まで一人だった世界への誰かの侵入を恐れ、変化を拒んだ。

 二人で深夜徘徊をするようになって以来、明けて月曜日の昼休みには淑江との話題も増えた。後ろに人を乗せ、前カゴに戦利品を乗せても何の問題もなく走ってくれるカブについて話し、この中古カブを見つけ、エンジンを組んでくれた淑江にも感謝した。

 淑江はといえば、いつも通りつまらなそうに話を聞いている。俺の話す事が増えたせいか淑江の口数は以前より少なくなり、カブのメンテナンスに関する口うるさい小言も減った。

「ちゃんと手入れしなさいよ」

 その日の昼食で淑江が発した言葉はそれだけだった。 

 

 治子とのカブ徘徊が日常化してから何度目かの土曜夜。俺と治子は、二人が出会った多摩の大型古書店に居た。

 俺の家からも治子のアパートからも近いこの店は、徘徊のスタート地点にすることが多くなった。

 治子は上手い具合に百円でまとめ買い出来た目当てのコミックを、俺は治子の勧めで買ったラノベを手に店を出て、二人でカブを停めた駐輪場まで歩く。

 治子が跨る前にエンジンをかけようと、俺はカブのキックレバーを踏み下ろす。何かの引っかかりがヘシ折れたような感触が足に伝わって来た時、イヤな予感がした。それからカブはキックしても空回りするようにレバーが下がるだけ。

「壊れたの?」

 俺は返事をせずキックをする、カブのエンジンはかからない。原因はわかっていた、長距離走行や重荷の負担を受けたカブによく起きる、クラッチの摩滅と滑り。


 カブに乗って数ヶ月、出先で止まったことなんて無い、俺はキックを繰り返しながら、自分の頬に汗が伝うのを感じた。

 直すには幾らかかるんだろう。大体ここからカブを引き上げ、運ぶにはどうすればいいんだろう。どうやって家に帰ればいいんだろう。

 治子は黙ってカブをキックし続ける俺を心配そうに見ている。俺のカブ、これからもずっと深夜徘徊出来る物だと思っていたカブ。壊れたカブ。原因は。何が俺のカブを壊したのか。

 俺は不安に駆られ、つい治子を振り返り言ってしまった

「お前のせいで!」

 治子はさっき買ったコミックの袋を落とした、目を見開いて俺を見ている。怒りでも恐れでも悲しみでもない、絶望したような顔。

 彼女がその感情を俺に向けていたならまだ救いはあった、治子は自分自身に傷ついた顔をしていた。思いがけず手に入った幸せに舞い上がった彼女の手から宝物が取り上げられ。やっぱり自分が不幸を背負わされる人間だと知らされたような顔。

 俺は生まれて初めて、他人のことをここまでわかるようになったことを知った。治子とは俺の最も大事な時間を共有し、心の端くらいは見せ合ったから。

「ごめんなさい」

 治子はそれだけ言って、背を向けて走り去った、追いかけようとしたが、俺には出来なかった。動かないカブから手を離せなかった。

 

 結局俺はカブを手で押し、閉店した古書店前に停めたカブの横でしゃがみこんだまま数時間を過ごした。携帯を手に取ったが、今さら謝ろうにも治子の連絡さえ知らない。淑江にカブの事で助けを求めようにも、時間はもう深夜。

 これでエンジンがかからなければ、もう家まで押して歩くしかない。そう思ってキックしたところ、カブのエンジンはあっさりと始動した。

 頭が真っ白なまま、自分がどこを走っているのかわからぬまま、俺は家に帰った。

 

 ろくに眠れぬまま迎えた翌朝。俺はカブのキーを回した。

 昨日のことは夢で、カブは変わることなく走り続ける。治子も来週の土曜迎えに行けば、いつも通り徘徊に付き合ってくれるだろう。そう思ってカブをキックした。

 キックレバーは何の抵抗も無く踏み下ろされ。エンジンはかからない。俺は動かないカブを手で押し、近所にある淑江の自転車屋まで行った。

 父親が所用で外出していて、一人で自転車屋の店番をしていた整備エプロン姿の淑江は、渋々ながら俺のカブを見てくれた。

 淑江はカブのクラッチが収まるエンジンカバーを開けることなく、カブを見ていたが、やがてオイルキャップを外した。

「へーそうなんだ。ヘンな中古掴まされたから、後ろにあの子を乗せたから、クラッチが壊れてもしょうがない、俺のせいじゃない、と」

 淑江は静かな口調で言いながら、俺にオイルゲージ兼用のオイルキャップを見せた」

「これ、全然オイルが入ってないわよ。オイル切れの状態で走らせたらどうなると思う?」

 俺は淑江の突きつけたオイルゲージを見て愕然とした。治子とカブで走るため、見た目だけ綺麗に磨いていたが、オイルの点検と交換を忘れていた。

「新聞屋のカブはあんたの可愛い子よりずっと重い荷物積んで毎日走っても、6~7万kmは持つわ。このカブが走らなくなったのは」

 淑江は手に持っていたスパナを俺の足元に叩きつけた。

「あんたのせいよ!」


 俺は膝をついた。自分のミスを棚に上げて、治子を傷つけ、淑江を傷つけ、カブを傷つけた。

「直らないか?金なら出す。クラッチを換えるならそんなに」

 淑江は爪先でカブのエンジンを蹴りながら言う。

「ダメよ、終わり、クラッチだけじゃない、たぶんクランクもシリンダーもバルブシートも、コンロッドもイカレてる、このカブのエンジンは終わり、直したいなら新しいエンジン持ってきなさい」

 エンジン交換なんて幾らかかるか見当もつかない。またバイトを始めても何ヵ月後になるか。俺の頬を涙が流れた。

「頼む、よ、エンジン、どんだけかかっても払うから」

 淑江の表情が少し変わった。目の前で幼馴染が跪いて泣く姿に呆れたのかもしれない、そうえば、子供の頃はいつも泣くのは淑江のほうだった気がする。

「一応開けてみるけどね。ダメだったらこのエンジンは捨てる」

 俺は思わず淑江に抱きついた。俺のカブが直る、もし直ったら、俺は謝りに行かないといけない。

「ちょ!何するの!ダメっ!今わたし汚いから!ダメだって!パパが帰ってきちゃう、ここじゃイヤ…」

 淑江があまり拒絶するので、俺は淑江から離れ、これ以上機嫌が悪くならないように淑江の作業を手伝う。

 それまで俺が点検程度の整備をすると、スパナでひっぱたいて指導することの多かった淑江は、俺が覚えが悪く不器用だということを理解したらしく、その日は手を取って教えてくれた。

 

 分解したカブのエンジンは、幸運なことに多くのパーツが無事だった。

 クラッチはディスクとスプリングを換えただけで、シリンダーも傷はついていたが軽いホーニングで消え、クランクはベアリングだけ交換した。

 それでもエンジンをほぼ全分解して換えたパーツは結構な値段になった。淑江は消耗部品の安いカブに感謝しなさい、普通のバイクならこの3~4倍はかかってると言ったが、本当に感謝しなきゃいけないのは毎日俺が弁当を作るという格安の工賃で受けてくれた淑江だろう。

 数日後。俺はエンジンを組み終えたカブのキックレバーに足をかけた。

 あの時エンジンを始動してくれなかった、俺のせいで走れなくなったカブに祈るような気持ちでキックする。

 胸の中でポっと火は点るように、カブのエンジンがかかった。既に組み上がり後の馴らし運転で乗り回していた淑江は、当たり前といった顔。

 エンジンのかかったカブから降り、淑江の手を取った。

 結局、作業のほとんどを淑江が行い、パーツ代も淑江のコネや店のストックで随分安くしてもらった。俺なりに礼をしなくてはいけない。

「本当にありがとう。これからも淑江の弁当は俺に作らせてくれ」

 淑江は俺の言葉に驚いた様子。毎日昼は冷たいハンバーガーだった暮らしが変わる。それをいい変化だと思ってくれているんだろう。

「本当に?良夫、あんたがわたしのご飯を、毎日作ってくれるの?」

 俺は返事替わりにカブの車体を叩いた。淑江のおかげで蘇った俺の大事なカブ。それに、徘徊だけでなくお弁当のおかずを買いに行く時にも活躍してくれるだろう。


 俺は数日の整備仕事で随分汚れたツナギ姿でカブに跨る。ある意味不自然なまでに綺麗だったツナギが正しい姿になったようにも見える。

「その、良夫、あの子に会いに行くの?」

「謝らなきゃいけないからな、会えるまで通うよ」

 淑江に直させたカブで他の女に会いに行く。何か不満か文句の一つでも言うのかと思った淑江は、俺の背を叩いて言う。

「じゃあさっさと行ってこい!私は忙しいんだ、整備が終わったら早く場所を空けやがれ!」

 言葉に反し、さっきカブを磨き上げた雑巾を胸の前に抱いた、ちょっと乙女っぽい姿の淑江に、バックミラー越しにもう一度礼を言ってから、俺は夜の道へと走り出した。


 組み直してから極めて快調なカブで、あの夜初めて治子と会った多摩の大型古書店に行った。

 正直ここに来ても、治子に会える確証のようなものは無かったが、俺とカブの無い治子にとって、電車と無料送迎バスで来られるこの店だけが唯一行ける場所。

 もし今夜来なくとも。もう一度会うまでは何度でも通う積もりだった。治子に謝りたい、それから、俺と治子のこれからの事について話したい。

 お互いの深い部分に立ち入ることの無いままだった俺と治子、でも、人は上っ面の浅い関係だけでは生きていけない。そこから深い関係になりたいと思えるのは、治子だった、こういう関係を世間では何て言うんだろう。

 そんな事を思いながらカブを駐輪場に停めた。あの店の中に治子が居るのかもしれない。居ないかもしれない。もし居るとすれば、以前と変わらぬ地味なジーンズに毛玉のついたフリースだろうか。

 そう思って俺がカブを降りた途端、肩に何かぶつかった。隣に停めたバイクだろうか。深夜徘徊しているとヘンなのに絡まれることもあると聞く。なんとかそういうトラブルを回避して逃げるべく、俺は衝突の主を見た。

 銀縁の眼鏡、小さな目。俺のすぐ横に居たのは、治子だった。

「あ、あの、ごめんなさい!」


 治子は俺の前で頭を下げた、先週のことか、それとも今ぶつかった事か、俺はそんなことよりも驚くべき事実に何も言えなかった。

 服装はジーンズにフリースではなく、彼女の勤務先であるマイコンシティでよく見かけるブルーグレイの作業着上下。東日本大震災の時に閣僚が着ていたあの格好。

 彼女の後ろには、新車のカブが停まっていた。

 カブが海外生産になって、姿を大きく変えた後も、熊本の国内工場で旧型車体のまま作られているリトルカブ。

「そ、それ、それ、どうしたの?」

 治子は新車のビニールのついた黄色いリトルカブのシートを叩きながら言った。

「その、思い切って買っちゃいました」

 それから治子は俺に頭を下げる。

「本当にごめんなさい、私はあなたにずっと甘えてました。ずっと謝りたかったんです」

 俺は治子より深くお辞儀する。

「謝るのは俺のほうだ、何の落ち度も無い君のせいだなんて言って。治子の気が済むまで何でも言うことを聞くから許して欲しい」

 

 閉店近い古本屋の駐輪場で、二人して謝り合う奇妙な姿。二人で顔を見つめあって照れ笑いした俺と治子は、各々のカブのシートに座り。色々なことを話す。

「これからは私があなたを乗せてあげたいと思ってたの、でも、カブ直ったんだね」

「50ccのカブじゃ乗せられないよ、でもいいなそれ、ちょっと乗せてよ」

 二人で店内に入ることも忘れ、話しこんでいるうちに閉店の放送が流れる。俺と治子は視線を交わした。

「良夫くん、どうしようか?今日」

「せっかくカブがあるんだ、一緒に走ろう」

 二人でカブのエンジンをかけた。治子のリトルカブはセル付きでボタンを押しただけでかかる様子。

 俺が初心者の治子を先行させるべく、合図をしようとしたら、もう閉店直前の古本屋の駐輪場に一台の原付が駆け込んできた。

 偶然にも同じスーパーカブ。郵政カブと呼ばれる真っ赤なカブは、見た目がだいぶくたびれてる。

 乗っていたのは、俺のカブを直してくれた自転車屋の淑江だった。

「お前、そのカブどうしたんだよ」


 ボロい外見に似合わず、俺の横にピタっと停まり太い排気音を発てるカブに乗った淑江は、俺を見てニっと笑いながら言う。

「ウチで引き取った廃車の中にいいのがあってね、もったいないから起こしたのよ」

 俺と淑江の遠慮の無い、見る人によっては親しげと勘違いしそうな会話を聞いていた治子が、眼鏡を光らせて俺を見る。

「良夫くん、その方はどなた?」

 俺が説明しようとしたところ、淑江が胸倉を掴んだ、そのまま顔を近づけ、俺の口に唇を押し付けてきた。淑江の舌が滑り込んでくる。

「こういうこと、かな?」

 淑江は治子にそれだけ言うと、紅潮した顔で俺を見て言った。

「もう引いたり諦めたりしないから、良夫がどこに逃げようと、わたしのカブで追いかける」

 治子がカブごと俺に近づいてきた。小径タイヤで小回りが利くカブとはいえ、治子は案外カブに乗る適性があるのかもしれない。カブに乗ったまま俺の腕を抱えこんで言った。

「良夫クンは今夜わたしと一緒に過ごすって約束してるんですけど!」


 淑江の顔が殴られたように歪む、俺と同い年の淑江は、口をパクパクさせて二つ年上の治子に圧倒されている。

「こ、今夜って、あんたたちそういう事なの?そういうの、良夫にはまだ早いと思うんだけど!」

 俺の前で繰り広げられる治子と淑江のつばぜり合い。俺はといえば淑江の郵政カブと治子の電子制御式リトルカブの、どっちが乗って面白いだろうかと考えてた。決まってる、俺のカブ50改88が一番。

 治子と淑江が俺に答えを迫るように詰め寄る。俺は二人の女子に圧倒されながら答えた。

「とりあえず、カブで走ろうか?」

 俺の答えに気が抜けた様子の二人は、まだお互いに牙をむき出しながらも提案には了承してくれた様子。俺は二人が公道で競争の真似事などしでかさないように、治子が先頭、俺が中間に入り、三番目を淑江にすることに提案した。

 一番手を指名された治子と、集団ツーリングではリーダーが務めることの多い最後尾を任された淑江が、同時に自分が選ばれたような顔で胸を張る。

 治子と俺と淑恵は、黄色と青と赤の三台のカブで一列になって走り出した。

 俺と治子と淑江の深夜徘徊。夜は暗く、時に何も見えなくなることも、人の少なさに寂しくなることもあるけど、明るく何もかも見せてしまう昼間より夜は優しい。夜だからこそ、キラキラ光るものが見つかる。

 三台一列のカブトレインは、夜の街を走る。


(終)

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