第36話 終止符
黒仮面を追ったアステリオンは、回廊の途中でその人物に追い付いた。自分を追ってきた者の気配に黒仮面は身を翻し、アステリオンと対峙した。
短剣を握った白い手が、薄い闇の中で翻ったのに気付いて、アステリオンは反射的に剣を抜き、これをかわした。剣が交わった音を聞いた時、ようやく思考が自身の動作を認知して、アステリオンは舌打ちをした。
危機に対する防衛本能、とでも言うのだろうか。長い流浪の間に、いくつもの危機を回避していくうちに、考えるよりも先に、まず、体が動く様になっていた。
アステリオンが短剣を跳ね返した勢いで、黒仮面はよろめいて数歩、後ろに下がった。本当に倒さなければならない相手なら、この瞬間にアステリオンの剣が、相手の心臓を貫いている。だが、アステリオンもまた、間合いを取るように後ろに下がった。そして、剣を下ろし、静かな口調で、そこに佇む者に向かって問いかけた。
「俺は、お前の敵なのか?俺達が、殺し合わなければならない理由があるのか?」
「……」
「答えてくれ……何故、お前が剣を持って闘わなければならない……」
「……この身に流れる血が、戦いを望む。忌まわしい血脈の末裔である私の手は、この世に生を受けた時から、血に汚れていた……ふふ……あなたには、解からないわ……アステリオン」
白い手が、黒い仮面に掛けられた。ゆっくりと、その手が仮面を外す。その顔は、どこか寂し気に笑っていた。
「カラ……」
「私の名は、キャラシャ・ファンナというのよ。母方の血は、滅んだシャディアの巫女のもの。父方の血は、グラスファラオンの勇猛果敢な戦士の血。でも、これは、混ぜ合わせてはいけない血だった。グラスファラオンでは、シャディアの血は禁忌のものなんだもの。それが露見して、一族は皆、処刑されたわ。私はその忌まわしい最後の生き残りなの。この仮面はね、シャディアの生き残りを狩る、グラスファラオンの刺客……黒の使徒の仮面。私は、私と同じ血を受け継ぐ人々を殺す刺客となることで、グラスファラオンの人間として生き延びてきたのよ……」
「どうして……そんな」
「それは、簡単なこと。私は、グラスファラオンの皇帝の力から逃れられるほど、強くはなかったし、死にたくもなかった。ただ、それだけ……同胞の血を犠牲にしてでも……生き延びたかった」
「……」
「浅ましい生き方だろうと、自分でも思うわ。何もかも失って、残ったのは、この身だけ。今更、もう失うものなんかないと思っていたのに……今になって……アステリオン、あなたの心を失ってしまうのは、少しつらいわ。あなたと居て、多分、私、幸せだったのね」
カラは、そこで言葉を切ると、短剣を捨て、ゆっくりと腰の剣を抜いた。
「止めろ……カラ……」
「仮面の下の素顔を見られたら、その相手を殺さなければならないの。それが黒の使徒の掟。あなたを殺さなければ、私は仲間に殺される。そういう決まりになっているのよ。私はね、アステリオン、あなたを殺してでも、やっぱり生き残りたいのよ」
「カラ、俺を信じてくれないのか?俺は、お前を守ると言った。この俺の言葉を、信じてはくれないのか?」
「……昔、あなたと同じ事を言った人がいたわ……アステリオン、あなたは、強い人。でも、グラスファラオンの皇帝はもっと強い」
カラの剣が、アステリオンに襲い掛かる。
「カラ!」
カラから殺気は感じられなかった。だが、その剣は捕えた獲物に、容赦なく襲いかかる。一方、アステリオンにも、戦意などあろうはずはない。攻撃に転じないまでも、カラの剣を巧みにかわしていた。
激しい剣の打ち合いが続く。回廊を移動しながら、無言のまま、二人は剣を交えていた。どちらかが倒れるまで、終わらない。戦う理由がないのに、何故、こんな馬鹿げた状況に陥ってしまったのか。アステリオンは、憤りを感じていた。
ただ、一言――
どうして、信じると言ってくれない。
自分を信じると言ってくれれば、命をかけてでも、カラを守る。
当然だ。
愛しているのだから。
それを、女は信じられないと言う。そんな愛を信じないと言う……
それ程までに、グラスファラオンの皇帝の力は強大なのか。
全ての希望を、打ち砕いてしまう程に。
全ての奇跡を、否定してしまう程に。
アステリオンは、心に沸き上がる怒りを押えられなかった。それは、自分を信じないという女への怒りであり、女を信じさせることの出来ない、自分の無力さへの怒りだった。
怒りが、剣に力を与えた。その瞬間、カラの剣が弧を描いて飛んだ。そして、気付けば、アステリオンの剣先の下に、カラが跪いていた。
「なぜかしら……あなたになら、殺されてもいい。そんな風に思うのは……」
静寂の中で、カラの声が聞こえた。
……俺は、この女を殺すのか……
自問する様に、アステリオンの中で心の声が呟く。
……俺が、この女を殺すのか……
そう考えながら、アステリオンは、女の瞳に見とれていた。美しい黒曜石の瞳。初めて出会った時も、この瞳に魅了された。この美しい瞳に……
憎いわけではない。
愛しているのに。
殺さなければならない理由などないのに。
何故、自分は、剣を振り下ろそうとしているのだろう。
魔法によって、不老の体になってから、年を重ねる毎に、だんだん本来の自分を見失って行くような気がしていた。
十七だった。
自分の生い立ちを拗ねた、無鉄砲な少年だった。その無鉄砲の代価として、彼は、大人に成り損なってしまったのだ。
永遠に子供のまま。
未熟な子供のまま。
彼の時間は止まってしまったのだ。
自分が、年を取らない事に気付いてから、ずっと屈辱的な思いを抱いて生きてきた。周りの人間が、大人になっていくのに、一人だけ置き去りにされた様な、惨めな思いを抱いて生きてきたのだ。カラに出会って恋に落ち、彼女を愛する様になって、その思いは、一層強くなっていった。
生きる目的を見失って、ただ、時が流れ過ぎていくのを待っているだけ。出会った頃のカラは、そんな女だった。
手を放すと、消えてしまうのではないかと思う程、儚い、幻の様な女だった。その美しい瞳は、何も映さない、輝きを失った瞳だった。幸せを望まない女だった。だからこそ、幸せにしてやりたいと思った。守ってやりたいと思った。
だから、女を守れる男になりたいと思った。女が安心して、身を任せられる様な男に……本当の自分を取り戻りたいと、心底そう思ったのだ。
女の瞳が閉じられた。
この美しい瞳をもう二度と見ることはないのか……
そのことが、無性に哀しかった。
……どこで、何を、間違えてしまったのかしら?これが、血に込められた呪いなの?それでも、私はまだ、生きていかなければならない?ねぇ、アスティ……私、もう……疲れてしまったのかもしれない……だからねぇ……
「……お願い……もう、終わりにして……私の愛しい人」
まるで魔力でもあるかのように、その言葉は彼に命じた。
それに抗う術もなく、アステリオンは剣を振り下ろしていた。
「目を覚ましなさいっ!アステリオンっ!!」
その人の、そんな切羽詰まったような声を初めて聞いた。目の前に、まるで白い大きな鳥が舞い降りたように、忽然と彼女は彼の目の前に姿を現した。
「……ダーク・ブランカ……?」
「お、お久し振りね、アステリオン」
苦痛に顔を顰めながら、白い魔女は力ない笑みを浮かべていた。アステリオンは自分の剣が何を貫いたのか、そこで初めて気付く。魔女の白いドレスが、血を吸ってみるみる赤く染まっていく。
「ダーク・ブランカっ!」
「いっ……動かさないで、これ、そおっと抜いてくれないかしら?」
「お……おぉ」
アステリオンはダーク・ブランカの腕に刺さった剣を、ゆっくりと抜いた。
「……ご、めん。大丈夫か?……」
ダーク・ブランカは顔を顰めながら、傷の具合を確かめるように自分の腕を検分すると、そこに逆の手を当てた。その掌から、光が零れ落ちる。
……治癒魔法か……やっぱ凄いよなぁ……大魔法使いさまは……
「ていうか……俺が言うのもなんだけど、そもそも何で防御魔法使わないんだよ……」
そうしてくれていたら、自分は彼女を傷つけることはなかったのにと、アステリオンが不満げに言う。
「悪かったわね。この子を守る防御魔法を展開して、あなたに掛けられていた東方の魔女の暗示を解いて、そしたら、タイミング的にちょっと間に合わなくなっちゃって、時間を止めたりしてたら、間に合わなかったのよ。あなたを、初速の早い威力無調整の攻撃魔法で吹き飛ばして良かったんなら、こんな怪我はしなくて済んだ訳だけど?」
「そ……それは、お気遣いどうも……」
いの一番に、時間を止める魔法を使えば良かったんじゃないの。とは、さすがに言えなかった。それほど、慌てていたのだという事だろう。
「……俺、ホント何やってんだろうな」
緊張状態から解放されて、力が抜けたように、アステリオンはその場に座り込んだ。
「……守るなんて……簡単に言って。それなのに簡単に魔女の暗示なんかに引っ張られて、こいつを殺そうとするなんて……最低だ。その上、お前にまでこんな怪我させて……」
「仕方ないわよ、あなた、弱いんだもの」
「……はっきり言ってくれる」
「相対的に見て、グラスファラオンの皇帝と、東方の魔女と、どちらを相手にするにも、今のあなたじゃ歯が立たないレベルということよ」
――アステリオン、あなたは、強い人。でも、グラスファラオンの皇帝はもっと強い。
カラの言葉が、改めて心に刺さる。
「俺はもっと強くなりたい……大切なものをきちんと守れるように。強く」
「……」
「俺……どうすればいい?」
「……一人でなんでもできるって、そう思っているうちは、そういうの難しいと思うわよ」
「……」
アステリオンは意識を失ったままのカラの髪をそっと撫でる。ただ、死にたくなかった。そう言った彼女の言葉に、やるせない思いが広がる。この世に生を受けて、だれもが当たり前のように与えられる生きる権利を、彼女は人を殺すことと引き換えにしなければ、手にできなかった。
「……一体、どんな呪いだよ」
そんな呪いで人を支配するグラスファラオンの皇帝とは、どれほどのものなのか。今のアステリオンには、想像もつかない。
「なあ……ダーク・ブランカ」
アステリオンが、魔女に呼びかける。
「……あの時の約束を、覚えているか?」
あまりにも真摯な眼差しを向ける若者に、魔女はその先の言葉を予想して、少し困ったような顔をした。
「……ええ、覚えているわ。また会うことがあったら、その時は……」
「……その時は、俺の願いを一つだけ聞いてくれる」
「そう。一つだけ、あなたの願いを叶えてあげる。そういう約束だったわね」
このアステリオンは、ただ一つの願いを抱いて、世界中、魔女を追いかけていたのだ。そしてダーク・ブランカは、それを知っていて、“逃げていた”のだ。
――不老の魔法を解く事。
それが、この男がずっと抱き続けていた願い。
今よりもっと、ずっと強い男になる為に、この男はきっとそう願うのだろう。
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