第五章 虜囚

      壱


 隅田川沿い吾妻橋の近くに夢人はいた。

 川に釣り糸を垂れ、ぼんやりと川を眺める。暖かくなり始めた日差しがのんびりと降り注ぐ。

水面に垂らされた釣り糸はなびく事も無く、ただ川の流れにのみその身を委ねている。浮が引かれる気配は一向に無いし、夢人もそれを気にする風も無い。

「釣れますかな」

 温和そうな柔らかい老人の声。みれば小柄な老人が笑みを浮かべていた。どこかの品の良い隠居風のいでたちで、手には竹で出来た杖を突いていた。

「そうですな。釣れましたな」

 夢人は竿を上げる。その糸の先に魚は釣れていなかった。

「ほほう。何が釣れましたかな」

「御老体が釣れました」

「なるほどわしか。はっはっは、これは一本とられましたかな」

 おそらく老人は百足の言っていた塞翁と呼ばれる老人だろう。この吾妻橋は黄道館にも程近い。ここで釣り糸でも垂れていれば、何か釣れるかも知れない。そう思っていたのである。

案の定、読みが当っていれば、なかなかの大物が釣れたことになる。

「わしだ誰だかご存知なのかな」

「黄道館の塞翁殿とお見受けするが」

「ふむ」

 塞翁は顎髭を扱きながら頷く。

「なるほど……百足が帰ってこないと思っておったが……そちらに寝返ったようですな。仕様が無いやつめ」

 塞翁は百足を批難するが、その様は子供の悪戯を嗜める好々爺の様である。あくまでも穏やかに慈悲深い。

「しかし、となれば話も早いですな」

 塞翁は手にした杖をゆっくりと摩りながら話す。

「本をお返しいただけませぬかな。あの本は元々当方の館主の物。そちらの手に渡ったのも何かの手違い。ここは一つ、度量を見せてはくださらんかな」

「度量ですか。ははは、それではそちらも誠意を見せていただきたい」

「ほほ、これは手厳しい」

 はははは

 はははは

 塞翁が笑う。

 夢人も笑う。

「しかし春夜殿。千両はちと法外じゃよ」

「そうですかな。使いようでは万両を生むものと思いますが」

「もっとも春夜殿。貴公本当に金が目的かな」

 塞翁の表情が少し厳しくなる。

「それはどのような意味ですかな」

 夢人はわざとらしく思案するかのように顎を撫でる。

「どうにもわし達が遊ばれているように思えてならんのじゃ」

「なるほど。確かに私は暇を持て余しておりますからな。そう思ってもらっても結構」

「やれやれ、遊びでいびられては適わんな」

 塞翁は肩をがっくりと落とすと、大きく溜息をつく。

「とんだ御浪人に目をつけられたものじゃて」

「なに御老体」

 夢人が嘯く。

「人間万事……でござろう」

「その通りじゃ。いや若い者に教えられてしもうたわ」

 塞翁はカラカラと笑う。

「何が良くて何が悪いかなど、その時にはわからぬものじゃて」

 塞翁はなおも笑う。

「本を奪われたおかげで、こうして楽しめるのじゃからな」

 手にした杖を鋭く振りぬける。老人とは思えぬ鋭い振りである。黒光りした竹の杖が風を切り裂きびゅおっと唸る。

 振りぬけた杖の先から何かが飛び出す。勢いよく飛び出したそれは一直線に夢人目掛けて飛んでいく。不意の一撃。その勢いは残像が影を引き、一筋の黒い疾風となる。

 無論夢人も瞬時に反応する。飛来するそれを首を背けるようにして軽くかわすと、ゆっくりと刀に手をかける。

「ほほ、流石に決まらんか」

 塞翁は手にした杖をくっと捻る。捻ってから再び勢いよく振りぬける。

しかし今度は何も飛び出してこない。その代わりに塞翁の姿が白く煙る。靄のようなものがかかり、日の光を浴びて何かがきらきらと輝く。それはまるで蝶の麟粉の様でもあった。

「む」

 慌てて口元を押える夢人。それを見て塞翁は笑う。

「ほほ、気がついたか。しかし手遅れじゃよ」

 勢いよく振り出されたその粉は、既に夢人の全身をゆらゆらと包んでいた。

「これは……」

 その先の言葉が出ない。刀に添えた手が巧く動かず、抜くことも侭ならない。次第に風景がぼんやりとぶれ始める。

「安心せい。ただの痺れ薬じゃて」

 しかし倒れ行く夢人の耳に、その言葉は届いていなかった。

 

      弐


「御浪人様、御浪人様」

 囁くような歳若い娘の声が小さく響く。

「御浪人様」

 小さく揺すられる夢人の身体。

「ん……む……」

「気がつかれましたか」

 薄らと目を開ける夢人。

ほの暗い部屋だ。いや、いやに高い天井と雑然と置かれた物を見るにどこかの蔵の中のように見えた。

「申し訳御座いません……いらぬ面倒に巻き込んでしまいました」

 声の主を見る。洗い髪に白衣緋袴。格好こそは違うが黒目がちの瞳に見覚えがあった。あの時の本を託してきた娘である。

「ああ、あの時の娘さんか」

「身を起こさないでください」

 身体を起こそうとする夢人を娘が制する。

「軍学たちは薬がまだ一時は続くと思っているようです。薬が切れたことが知れれば厳しい詮議がされましょう」

 夢人は言われるままに横たわる。大小は無論ない。鉄扇も無い。懐の本も無かった。

となれば持っていた本が贋物であったことは知れただろう。最も贋物であった故に命をつなげたとも言える。本物を取り返せば夢人は用無しなのだ。

「そういえば娘さんは何故こんなところに」

 横たわったまま目を閉じ、小さな声で尋ねる。

「本を持ち出したことがばれました」

「そもそも娘さんは何者なんだい」

「わたしは黄道館館主の娘。涼と申します」

「何故館主の娘さんがあんなことを」

「……御浪人様にはすべてお話します……あの本さえなければ……」


 館主越賢良師はその名を賀茂実道、遠くは陰陽師に連なる血筋らしいが、元は一介の本草学者にすぎなかった。妻には早くに先立たれ、娘の涼と二人で生活していた。

 暮らしは決して裕福ではなかったが、学問所をひらいたり、薬草を売ったりと生活に困る事は無かった。

 実道は大の書物好きで、古本屋に出かけては色々な本を買い漁っていたが、これは本草学者の常とも言える。本となると見境が無くなる嫌いがあったが、本を買うぐらいの生活の余裕はあったのである。

 ある日、実道は偉く興奮した面持ちで古本屋から帰ってきた。何でも稀代の奇書を手に入れたという。

 その本こそが『太平要術書』であった。

 実道はくる日もくる日も本の習得に没頭した。没頭するにつれ本業の本草学のほうは疎かになり、生活も困窮し始めた。

 そこで涼は父親の気が済むならと、ちょっとした手助けを思いついた。悪戯ともいえるかもしれない。

 実は涼には小さなころから不思議な力があった。それはほんのほんの小さな力ではあったが、超常の力には間違いなかった。

 たとえば……傷の治りをほんの少し早めたり、痛みをほんの少し取り除いたり、離れたところの蝋燭に小さな火を灯したり……遠い陰陽師の血が偶々発芽したのかも知れない。

 母親はこの力を知っていた。しかし誰にも言わぬよう、父親にも言わぬようにと諭されていた。故にこの力のことを実道に話したことは無かった。

母親の亡くなった今、この力は自分ひとりの秘密として、深く深く仕舞い込んでいた。

 そのころ実道は『符水』の取得を目指していた。符水とはお札を漬けた水であり、その水を持ってすれば傷は治り病は癒えると言うものである。

 実道は自分の腕に傷をつけると符水を涼にかけさせる。

 この時に涼は自分の力を使った。ここで傷が治れば父上は満足して本来の本草学者に戻ってくれるのではないかと。

しかしその考えはあまりにも浅はかだった。

 元々浅くつけられた切傷が、見る間のうちに治っていく。

 符水の成功に狂喜した実道は更に太平要術書に没頭していく。それにつられるように涼も力を使っていく。

 人を呼んで治療をはじめる。

噂が噂を呼び更に人が集まる。

人が集まればまた噂になる。

 涼も人助けの為に力が使えるならと、その時は思っていた。秘めていた力が人のためになるのは嬉しかったし、力を使っても父親の『太平要術書』の力ということになる。

 そうやって力を使ううちに、実道は越賢良師を名乗り『世直し』を口にするようになり始めた。

その力に溺れ始めた。

そしていつの間にか後戻りのできない深みへとはまっていったのである。


「つまりは全てお涼さんの力だったというわけか」

「はい御浪人様」

「夢人だ」

「え」

「私の名前は春夜夢人。夢人と呼んでくれてよい」

「では夢人様」

「しかし俄かには信じられんな」

 そうでしょう、と涼は頷く。

「ですが一時切れぬはずの痺れ薬を浄化したのは私の力です。こう申し上げれば信じていただけますか」

 なるほど確かに痺れは抜けていた。となればやはり涼の力ということになるか。

「それでは礼をいわねばならんな」

「お礼なんて……私のせいで夢人様には危ない目に……」

「いや……好きで巻き込まれたようなものなのでな」

 口元を歪めて笑う夢人。はぁと涼はあいまいに頷く。

「ともかく今はここから出ることを考えなければなりません」

「それはまぁ……何とかなると思うがな」

 はぁ、再びあいまいに頷く涼。この夢人の自信がどこから来るのかわからないのだ。しかし夢人には一つの確信があった。

それは牛である。

あの女は付かず離れず夢人の傍にいる。それは間違いない。おそらく夢人が捕らわれたことも知っているだろう。夢人を捨て置くということも考えられなくは無いが、おそらくそれは無い。

忍にしてはあの女、なかなかに情が深い。

 無論牛は来た。しかしそれは少々夢人の予想を超えた登場であった。


      参


「いたい、いたいってば」

 土蔵の分厚い扉が低い音と共に開けられ、人が一人押し込まれる。

「ああっ着物ぐらい返しておくれよ」

 低い音と共に再び土蔵の扉が閉まる。ガコンと閂のはめられる音。ガチャリと錠の閉められる音。暗い土蔵の中に白い大きな影が浮かぶ。

「やれやれ」

 白い影は肩をすくませると、土蔵の奥へと入ってくる。

白い肌に晒しと下帯だけをつけた裸だった。

高い上背と広い肩、豊満な胸、肉付きの良い肢体と腰。顔を見る間でもなかった。いわずと知れた牛頭陣八、牛その人である。

「や、旦那。まだ痺れてるのかい」

「牛、お前まで押し込められてどうする」

 悪びれない牛に対し、夢人は少しゲンナリとした声を出す。

「まぁまぁ旦那……そちらの娘さんはだれです」

 涼は小さく会釈する。相手は女だがあられもない姿で余りにも堂々としているためか、少し伏目がちに答える。

「へぇ……館主の娘さんですか……でもなんでこんなところに」

「私に本をくれたのは、この娘さんでな」

「へぇ……なんでまた」

「そんなことより牛。どうするつもりだ」

 そうですねぇ、と牛は思案するそぶりを見せる。しかしすぐににかっと笑う。

「ま、手は打ってありますよ」

「ほう、どうするのだ」

「というより、わたしはわざと捕まったんです」

 牛は土蔵の更に奥、暗がりのほうに向かう。

「さて……んん……と」

 戻ってきた牛の手には小さな円筒形の筒が握られていた。

「何だそれは」

「爆雷ですよ。たいした威力じゃありませんが土蔵の壁にひびぐらいは入ります」

「よく見つからなかったな。身包み剥された割には」

 牛は小さく笑う。

「詮索は無しですよ。まぁ女には隠せるところがあるって事です」

「なるほどな」

 夢人もそれ以上の詮索はせず、起き上がると土蔵の隅に転がっていた木刀を手に取る。おそらくはここが剣術道場だった頃に使われていたものだろう。古いが鉄刀木で出来た硬く丈夫な代物だ。

「で、破った後はどうする」

「爆破の合図で旦那の連れてきた眼帯の女が切り込む手はずになってるんですよ。あとはまぁなるようになれって感じです」

「ほぅ百足か」

「なかなか面白い女ですね」

 牛は爆雷を仕掛けると導線を延ばす。

「お涼ちゃんは外が静かになるまで土蔵の中にいなさいね」

 涼は頷く。

「後は火を……しまった火打がしけって……」

「あの……」

 涼が遠慮がちに牛に話しかける。

「そこに火をつければ良いんですか」

「そうだけど」

「それでは任せてください」

 涼は導線の先端を見詰る。眉間に小さな皺が寄る。黒目がちの瞳が微かに不思議な色を帯びる。

チリチリ小さな音がして導線の先に火がついた。

「おどろいた。さ、反対側によって」

 一同は爆雷とは反対側の壁による。

「口をあけて耳を塞いで下さいな。威力はたいしたこと無いですが音はでかいですよ」

 一同言われたとおりに反対側で身構える。

 どごぉん

 黒煙と共に爆雷が炸裂する。爆風が周りの荷物を吹き飛ばす。土蔵の壁に大小さまざまなひびが走るが崩れるには至らなかった。

「おい牛」

「十分です。壁を吹き飛ばすほどの火薬を使ったら、こっちまで吹き飛んじゃいますからね」

 言うが早いか牛はひびの入った壁に駆け寄る。駆け寄りながら左の肩に力を込める。左の肩が盛り上がる。そのまま体重を乗せるようにして壁に向かって体当る。

牛の身体は一気に壁をぶち破った。

 爆雷の衝撃で脆くなった壁は、牛の体当たりで一気に崩れる。瓦礫の煙が立ち込める。牛の後を追うように夢人も瓦礫の山から土蔵の表へと出た。


 どごぉん

「来はった」

 合図の音が鳴った。百足は大野太刀をスラリと抜くと、黄道館の正門を袈裟懸けに斬る。門扉と共に閂がばっさりと両断され、ごとりと音を立てて落ちる。百足は門を蹴破ると、そのまま館内に押し入った。


 どごぉん

「何事じゃ」

 突然の轟音。塞翁は居間にて大声を上げる。

「裏手土蔵にて爆音が」

「おのれ、やはりあの女只者ではなかったようじゃ」

「いかが致します」

「いかがも何も、彼奴らを逃がすでない」

「はっ」

 塞翁もゆっくり立ち上がる。

「やれやれ……軍学にどやされるわい」


 佐渡守との会合の帰り道、軍学は思案しながら歩く。佐渡守の話では、世直しの話を越前守が聞きつけたらしい。

「始末をつけねばならんかな」

 一人呟く。そろそろ潮時なのかもしれなかった。 

 どごぉん

「んん」

 思案しながら歩く軍学の耳に轟音が届く。それほど遠くない。方角は黄道館のほうだ。

「まさか」

 軍学は胸騒ぎを覚えると、柄に手をかけ刀を押える。そして黄道館に向け一気に駆け出した。

 

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