第四章 百足
壱
「や、旦那。いらっしゃい」
馴染みの古道具屋の主人が愛想よく声をかけてきた。
「どうです例の本。売る気になりましたか」
「ははは、まだこの本は手放せぬな」
「そうですか」
夢人は笑いながら断ると店の中を見渡す。所狭しといろいろな道具が置いてある。
「親父。何か良い刀は入っているかな」
「はいはい。どういったのをお探しです」
「そうだな、これと同じぐらいの奴で、切れればそれでよい」
夢人は腰の大刀を差し出す。
「ちょっと値が張りますが、これなどいかがです」
奥の間から持ち出されたのは黒塗りの鞘に収められた一振り。
「同田貫の出物ですよ」
「ほぅ同田貫か」
夢人はすらりと抜き放つ。肉厚で重厚な刃がぎらりと光る。真偽はどうであれ確かに切れそうである。刃こぼれもなさそうだ。
「これをもらおう。いくらかな」
「そうですね。三十両でどうです」
「よかろう」
夢とは懐に手を入れる。もらったままの切餅がまだ懐にある。
「そういえば旦那。こっちの刀はどうします。お引取りしますが」
「そうだな。刃が欠けているが構わぬか」
「ちょっと拝見します」
主人は刀を抜く。欠けてはいるが手入れは行き届いている。
「まぁこれぐらいなら……五両で引き取りますが。どうします」
「では引き取っていただこうかな」
夢人はそういうと差額の二十五両を主人に渡す。まいどありがとうございます、そう言って主人は金を受け取る。
「それからな、こう……持って歩けるような鉄の棒のようなものはあるか」
「鉄の棒ですか」
「うむ……十手のようなもの……なえしでも良いかな。鉄刀でも良いが長いと邪魔だな。脇差ぐらいの鉄刀などあるものなのかな」
「何にお使いになるんです」
「そうだな……礫を叩き落としたい」
投げられた火箸とは言わなかった。礫でも火箸でも同じようなものである。
「なるほど。それなら旦那、こんなものはいかがでしょう」
そういって主人が出してきたのは鋼で出来た扇子。鉄扇だった。
「なるほど鉄扇か」
夢人は鉄扇を手にとる。ずしりと重い。表面が黒光りしている。多少錆が浮いている部分もあったが、磨けば問題なさそうだ。
「ん。開かぬな」
「その鉄扇は元々開きません。そういう造りです。ですがその分丈夫ですよ」
「なるほど」
これならば多少無茶な使い方をしても心配はなさそうだ。なんと言っても持ち歩きには丁度いい。
「これをもらおう。いくらかな」
「いえ、刀のおまけということで。お代は結構です」
「そうか。ではもらっておこうか」
夢人は鉄扇を帯に挟む。立ち上がると新しい大刀も腰に指した。
「じゃましたな」
まいどどうも、主人の声を聞きながら、夢人は古道具屋を後にする。
弐
「いろいろあってちと疲れたな」
夢人はいったん長屋に戻ったのち、再び外に出ていた。湯屋に行くためである。
夢人は湯屋が好きだった。身も心もさっぱりした気分になる。無論心の淀みが湯屋の湯で洗い流せるわけではないが、それでもさっぱりするのは気持ちの良いことだった。
それに浪人といえども身は綺麗にしておいたほうが良い。垢だらけでは用心棒の仕事もやってこないものである。
湯屋はまだすいていた。番台に湯銭を払うと脱衣場で着物を脱ぐ。下帯も外して手ぬぐいで前を押さえると流し場へ。軽く身体を流すと石榴口へ向かう。
「お危のう」
一声かけながら石榴口をくぐると湯舟に入る。石榴口の中は湯気が立ち込め更に暗い。殆ど何も見えなかった。
湯に足をつけ、ゆっくり奥へと進む。湯は湯気を出すためか少し熱めだ。
「ふぅ」
湯舟につかる。自然と溜息が出る。その溜息から全身の余分な力が抜けていく。体がゆったりとなっていく。凝りがほぐれていくのだ。気持ちも柔らかくなって行く。なんとも心地よい。
暗がりに次第に目が慣れていく。湯気の中に白い肌が動く。一人かとも思ったが少しは居るようだった。
この時代の湯屋は混浴である。無論女も混じっている。いや、女のほうが多いかもしれない。
目を瞑ると再び溜息。ゆったりとつかる。今までのことを少し考えてみる。
行きがかり上浪人を斬った。
妙な女が声をかけてきた。
本を渡された。
越前守に会った。
奇妙な町人に襲われた。
成る程色々あったわけである。しかもこの全てが面白い事に一つにつながっていく。
「次は何がくるかな」
ふぅっと両の腕を脇に軽く伸ばす。手の先が柔らかいものに当る。いつの間にか脇に人が来ていたらしい。
「おっと。失礼した」
「いいえ」
女の声だ。どこかで聞き覚えのある声。
「この時分から湯屋とは、いい身分ですねぇ。旦那」
白い影がスーっと寄って来る。ぴたりと脇に寄り添う。柔らかい肉の感触が夢人の肩に触れる。柔らかい中にも引締まった感触。
「旦那、流石になかなか良い身体してますねぇ」
「おぬし……牛だな」
「はい旦那。奇遇ですね」
「そんなわけは無いな。つけていたな」
「旦那が囮になった時から、私の仕事は影に日向にお守りする事ですよ」
「その割には助けに出てこなかったではないか」
「必要でしたか」
「ふむ。必要は無かったかな」
「じゃあ良いじゃないですか」
牛は小さく笑う。
「どうでした。相手は」
「うむ。なかなかの腕だった。はじめに来たのがあれだけの腕となると、もっと腕の立つのがいるのだろうな。牛は何か知らぬのか」
「それを調べるのに出入りしてる浪人に取り入ろうとしたんですがね。旦那が斬っちゃいましたから」
「ああ、なるほど」
今度は夢人が笑う。
「それは悪い事をしたかな」
「いいえ。おかげで楽させてもらってますからね」
牛は笑いながら立ち上がると湯舟の縁に腰をかける。白く暗い湯気の中に牛の白い身体が浮かび上がる。肩幅も広く胸も豊かだ。腰や腿の肉付きも良い。腹には筋肉がついているのが見て取れる。全体に柔らかそうではあるが、所々引き締まってもいる。柳腰には程遠いが、これはこれで良いものである。
「なかなか良い身体をしているな」
「ふふ、お世辞でも嬉しいですよ」
「いやいや、なかなかに色香がある」
「本当ですか。なんかその気になっちまいそうですよ」
「なるほど、それもいいな」
夢人は笑う。自分よりも大きな女の抱くというのは初めてだ。
「それじゃぁさ旦那」
牛はもう一度湯舟に浸かり直す。
「不忍池の畔に美味い料理を出す水茶屋があるんですよ」
不忍池界隈の水茶屋は出合茶屋を兼ねているところも多かった。金はある。そんな店でゆっくりするのも悪くない。それに美味い料理というのがいかにも牛らしい。
「ではそうしようか」
夢人はそういうと再び湯舟の中で大きく身体を伸ばし、気持ち良さそうに深く息を吐き出した。
参
もうそろそろ朝四つといったところ、百足はてくてくと街中を歩いていた。無論夢人の長屋に向かうためである。
道行く人がそれぞれに振り返る。皆一様なのは、その顔に驚きが含まれていること。
それはそうである。女だてらに長大な野太刀を背負い、顔には眼帯、たっつけ袴に丹前姿。目を引かないというほうが無理である。
元も殆どの人はどこかの大道芸人とぐらいにしか見ていなかった。なので振り向きはしても咎め立てるものは誰一人としていなかった。
百足のほうも慣れたもので悠々と街中を歩いていく。たまに囃し立てる子供には手を振ってみせたりもする。まるきり大道芸人気取りである。
「なんだなんだ朝っぱらから芸人がのうのうと歩いておるな」
そんな百足に声をかけてきたのは柄の悪そうな浪人だった。
三人でつるんで歩いてくる。月代も剃らず無精髭も生えているが、着ている物だけはこざっぱりとし、袴もそれほど擦り切れていなかった。それなりに金はある浪人だということだろう。
こういった輩をいちいち相手にするのも面倒なので、百足はニッコリ微笑むと、会釈をして通り過ぎようとする。
「まてまて、どんな芸をするのだ。見せてみよ」
面倒なのに絡まれた。しかし百足の顔には笑みが浮かぶ。
「芸見せればよろしおすか」
「ほう貴様京女か。そうだ芸を見せてみよ。面白ければ祝儀をはずむぞ」
「へぇ。ほんなら」
百足は背負った大野太刀をスラリと抜く。
「ほぅ。竹光ではないのだな。そのような長い得物を良く抜けるな。それだけでもたいしたものだ」
「ありがとうさんどす」
「で、何をするのだ。独楽でも回すか」
「そうどすな。こんなんいかがどす」
言うが早いか大野太刀を上段に振り上げると、腰を落とすように一気に斬り下げる。風斬り音とともに、何かを断ち斬るような湿った音。
「んん」
両脇の浪人たちは何が起きたか一瞬わからなかった。しかし真ん中の浪人、声をかけてきた浪人の体がぐらりと傾くとばったりと倒れるにいたり、何が起きたのかを理解し始める。
真ん中の男は頭の先から股間までがザッパリと両断され、赤やら白やら黄色やら、いろいろなものをぶちまける。幾ら重い大野太刀とはいえ、人間の身体はこう易々と両断できるものではない。頭蓋、肩骨、肋骨、腰骨、そのすべてを斬り裂いていることになる。並みの技量ではなかった。
「な……貴様」
二人の浪人は慌てて刀に手をかける。しかし百足の太刀筋のほうが数段早かった。斬り降ろした大野太刀を素早く上げると横薙ぎに一閃。その動きに淀みも迷いも全くない。それはまるで野菜か何かを斬るかのような気軽さだった。
「ほんなら、ごきげんよぅ」
百足は大野太刀を鞘に収めると上機嫌で歩み去る。刀に手をかけたまま凍りつく二人の浪人。程なくして斬られた首から血が噴出し、頭をごろりと押し転がす。全身を朱に染めながら首無しの胴がしばらく立ちつくすが、そのうちばったりと倒れこんだ。
通りかかった運の悪い町人が、無残な死体を目のあたりにし、悲鳴を上げて腰を抜かすのは、これからしばし後の話である。
四
「おはようさんですぅ」
夢人の長屋の前で百足が声をかける。怒鳴るような大きな声というわけではないが、澄んだ良く通る声が長屋の中を抜けていく。
「……おはようさんですぅ」
返事が無い。再び声をかける百足。しかしやはり反応は無い。
「いやぁ留守やろか」
しばし様子を見る。やはり反応は無い。百足は戸に手をかけると、中の様子を伺うように、そーっと戸を開けようとする。その姿勢はまるで今まさに盗みに入ろうとする、盗人のそれであった。
「我が家に何用かな」
「ひやぁっ」
突然声をかけられ悲鳴を上げる百足。目を丸くしてそろりと振り返るとそこに夢人が立っていた。
「急に声かけんといてや。おどろくわ」
「……それはすまなかった。して、何用かな」
夢人は女を見る。一見して尋常な相手ではないのは解る。女だてらに大野太刀を背負い、たっつけ袴に丹前姿。振り向いた顔の右側には鍔で作った眼帯をしている。言葉使いからして上方の女のようだ。そして新しい血の臭いと染みついた血の気配。
「あんたはんが夢人はんどすか」
「そうだが……どなたかな」
「うちは百足いいますぅ
「面白い名前だな」
「あんたはんの名前もそうとうだと思いますぅ」
そう言いながら百足はまじまじと夢人を見る。
「へぇ……結構いいおとこやわぁ」
「ははは、一応礼を言っておこうか」
「で、その色男が朝帰りどすか。すみにおけしまへんなぁ」
「なに、ただの破落戸浪人だよ。それでその百足殿が何用かな」
「百足って呼び捨てておくれやす。殿とかつけられるとむずいんで。えっと……黄道館から来たゆうたら早いやろか」
なるほど黄道館の門人か。夢人は頷く。
「で、その黄道館の御仁が何用かな」
「わかってはるくせに。まぁええわ。ええと太平……太平……なんやったかしら」
「太平要術書か」
「そうそれそれ」
百足はにっこりと笑う。その表情だけを見れば京女らしい品の良い可愛らしさが感じられる。
「その本返して欲しいんどす」
「千両ならお譲りしよう」
「千両っ」
百足は心底驚いたように目を丸く見張る。
「わやくちゃやわ。千両いうたらあれですえ、小判千枚ですぇ」
「そうだな」
「小判一枚で一月はおまんまが食べれるんですぇ。しかもひとりやないですえ。四人はいけるんちがいますか?」
「そうだな」
「千枚あったら千月……ええと……八十三年でおつりくるわ」
「ほほう」
算術には明るいのか算盤も使わずに計算してみせる。その部分は純粋に夢人を感心させた。しかしなんとも奇妙な驚き方だ。
「それは大金だな」
夢人はわざと大仰に頷いてみせる。
「大金どす」
百足も大仰に頷く。
「どちらにせよ渡す事は出来んな」
「そうどすか。残念どす」
しかしその顔には笑み。まったく残念そうではなく、本当に嬉しそうだ。
「それじゃこういうのはどうおす」
百足は背負った大野太刀をぽんぽんと叩く。
「うちと勝負してうちが勝ったら本もらいます」
「ほう。では私が勝ったらどうする」
「そうどすな……」
百足はさらに大きな笑みを浮かべる。
「うちをさしあげます。それで手ぇうちまへんか」
「ふむ。それはそれで面白いかもな」
「ほんならそういうことで」
百足は晴れやかな笑みを浮かべながら大野太刀に手をかけると、その長大な刃をすらりと抜く。長大で肉厚な刃が光を浴びて白くなる。
「いや、まてまて」
「なんですのん」
慌てて制止する夢人。百足の笑みに曇り生じる。いきなり水を差すな、目がそう訴えていた。
「こんな狭いところでそんな馬鹿でかいものを振り回すつもりか」
「何の問題もあらしまへんぇ」
百足はちょこんと首を傾げる。
「お前に問題がなくてもこちらにはある。こんなところでそんなものを振り回されたら長屋の住人に塁が及ぶ。それはちと避けたい」
「へぇ」
百足は少し驚いたような、気の抜けた声を出す。
「意外とこまいこと気ぃにしなはるんや」
「細かくは無いと思うがな」
「で、どうします」
百足は抜いた大野太刀を鞘に戻す。その動作に淀みは無い。これだけ長大なものを自然に扱う技量は驚愕に値する。
「場所をかえよう。もっと広いところの方がそっちも都合が良かろう」
「へぇ。かましまへんぇ。ほんならいきまひょか」
連れだって長屋を後にする。
五
「この辺でよいか」
隅田川沿いの土手下で二人は対峙する。足を取るような草も少なく、人通りもそれほど多くない。ここなら邪魔も入らない。もっとも邪魔しようと思う人物などいないだろう。人が集まったとしてもそれは単なる野次馬である。
「へぇ。うちはかましませんぇ。ほんならここで」
百足は大野太刀を抜くと背中に結わえた鞘を外し土手脇に投げる。
「……」
「まってまって夢人はん。もうその台詞は聞き飽いたわ。うちは小次郎じゃあらしまへん」
「……」
夢人は口の端を少し歪めると、ゆっくりと刀を抜く。
双方とも振り上げす下段に構える。
夢人は前方やや左に、百足は右後ろに引いた型だ。
ず、ずず……足を擦るようにしてお互いに間合いを計る。
間合いからすれば百足が有利だが初太刀を外せばそれだけ隙も大きくなる。
百足がゆっくりと刀を動かす。下段から中段へ。中段から上段へ。そして切っ先を後ろに回すと丁度刀を肩に背負うような形になる。
こうすれば肩で大野太刀の重みを支える事ができる。長くなるとふんでの型か。
一方の夢人はまったく動こうとしない。地摺りの下段。
ず、ずず……二人の擦り動く音のみが静かに響く。土手の上にはちらほらと目敏い野次馬が集まり始めていた。おそらくこの場にも牛は来ているのだろうが、それを確かめる術はなかった。
「そういえば夢人はん」
視線は外さず、刀身もぶれず。しかし百足が話し掛ける。
「御本はどこにありますのん」
「心配するな。ここにある」
夢人の視線が小さく落ちる。微かに懐を見る。
「それ聞いて安心しましたわ」
百足は微笑む。安堵の表情。
「軍学はんに怒鳴られずに済みます。安心して……殺れますわ」
「そうか。それは良かったな」
まるで他人事のように嘯く夢人。百足の刃が狙っているのは他でもない夢人の命なのだ。しかしそんな事は微塵も気にした風も無い。
じゃっ
地面を蹴って仕掛けたのは百足。背負った刃を一気に振り下ろす。遠心力に乗った切っ先が甲高い風斬り音を奔らせる。
夢人はその切っ先を軽く引いてかわす。
「む」
切り下ろされた百足の切っ先が地面に触れるかというその直前、まるで透明な何かに受け止められたかのようにぴたりと止まる。止まると同時に間を開けず、今度は風を巻き上げ一気に斬り上げられる。強引ともいうべき斬り返しだ。
寸でのところで踏み込むのを止めた夢人は、軽く身を仰け反らせる。斬り上げられた切っ先が伸びる。
「……」
夢人はさらに半歩引いて刀を構えなおす。顎先に朱が滲む。
「ひぁ。これを避けはりました」
百足が目を見張る。しかし目を見張ったのは夢人も同様だった。
あの大野太刀をあの体制から斬り上げたのである。しかも切っ先の速度は振り下ろす時と変わらぬ速さで。
あわやの所で見切ったものの、普通なら顔を両断されている。
「恐ろしいな」
夢人は呟く。その言葉に反して顔には笑みが覗く。心の底から状況を楽しんでいる。
「恐ろしいのは夢人はんや。吉助はんも言うとりましたが、なんちゅう見切りや」
百足も嬉しそうに話す。いずれにせよ、どちらも尋常な神経の持ち主ではない。
再び対峙する二人。
夢人は下段の地摺り。
百足は刃を背負う。
夢人は柄に添えた左の手を離すと帯に手をやる。脇差と共に指していた鉄扇を抜くと胸の位置で横に構える。
「受けきれますぇ」
百足が再び踏み込みと同時に斬り下ろす。風斬り音が耳を刺す。しかしそれと同じにして、体制を低くした夢人も踏み込む。
大野太刀の強さはその重さと遠心力にある。切っ先に向かえば向かうほど振り下ろされる速さは早くなり、その力は強くなる。しかしその反面、柄の近くはどうか。
刃を掻い潜るように大きく踏み込んだ夢人は鍔先近くで大野太刀を受け止める。ガキンと鋼の打ち合わさる音。それと同時に右の手の刀を斬り上げる。
一歩間違えば体を両断されかねない思い切った斬りこみ。しかし夢人の動きに迷いはない。否、迷いがないからこそできる動きと言えた。
「ひぁ」
ぴたり。その切っ先は百足の咽にぴたりと張り付く。
「う……く……」
動けない。
動かない。
「……うちの……負けどす……」
搾り出すような声を上げる百足。額に薄っすらと汗が滲む。愛想笑いをしているつもりなのか口元が歪むが引きつるように小さく震えていた。
「お前が負ければお前は私のものだったな」
「あい」
百足は声だけで頷く。
「ではその命、どのようにしても構わないということだ」
「え?」
言うが早いか夢人は切っ先を躍らせる。ヒュッっと風が鳴る。
「う……あ……」
糸が切れたかのようにその場にぺたりと座り込む百足。
「斬られた……斬られた……どこ……」
うわごとのように呟く。額にぶわっと汗が噴出す。肩がカタカタと震えだす。
剣客である以上、斬り合いの中で斬られて死ぬのは恐くない。
しかし、終わった後で、改めて斬り殺されるのは話が少し違った。斬り合いという緊張から解かれ、心を省みる余裕が生まれる分、恐怖が伴った。
その辺の覚悟の甘さが百足の中にはあったといえばそれまでだが、死ぬのはやはり怖いものである。
「どこ……どこを……どこ……」
どこを斬られたのか解らない。というよりも、どこも痛くない。鮮やかに斬られると痛みが少ないとも聞く。それとも斬られていないのか。
ふと目を落とすと鍔が落ちていた。百足の眼帯である。どうやら斬られたのは眼帯の紐のようだ。
安堵とも怒りとも羞恥とも付かない複雑な気持ちが百足の中にこみ上げてくる。
「夢人はん……」
「ははは、ちと悪ふざけが過ぎたかな」
悪びれず笑う夢人。心底面白そうに笑う。
「いけずや……いけずやで夢人はん」
百足が声を上げる。頬を膨らませ、緊張が解かれたからか、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。
「あんまりやわ」
「ははは。すまんすまん。しかし死ぬよりはましだろう」
刀を収めながら笑う夢人。
「……せやね……負けたのはうちや。文句いえへん」
はぁ、と百足は天を仰ぎながら溜息をつく。何か踏ん切りのついたような、深々とした溜息。
「でも夢人はん強いなぁ」
「なに、ちょっと私が早かっただけだ」
「そのちょっとが大事なんおすぇ」
したり顔で百足が頷く。
「軍学はんとどっちが強いやろ」
「先程から出てくるその軍学とやらは何者だ」
夢人が問い掛ける。百足は座り込んだまま夢人を見上げて話し始める。
「軍学はんはうちらのまぁ大将みたいなもんどす」
「ほう黄道館の館主ということか」
百足は頭を振る。
「館主はんは別ですぇ。軍学はんは館主はんの右腕どすな」
「なるほど」
つまり館主とは別に浪人たちを仕切っている人物がいるという事だろう。
「その軍学とやらはそんなに強いか」
「やりあったことはないおすが……目ぇが違います。あと頭も良いおすぇ。いっつも難しい本読んではります」
「なるほど……いろいろ詳しく聞きたいところだな。どれ、この辺りなら少し歩けば船宿もあるだろう。酒でも飲みながら話を聞くとするか」
夢人は歩き始める。が、いっこうに百足は立ち上がろうとしない。
「ん。どうした。ゆくぞ」
「へぇ」
百足はばつが悪そうにはにかむ。
「腰が抜けてて立てまへん。おぶってっておくれやす」
六
「そろそろ詳しく聞かせてもらおうか」
隅田川にある船宿の二階、こじんまりとした座敷に二人は居た。
布団の上にうつ伏せに寝そべる。二人とも裸だ。夢人のほうはタバコ盆を寄せると一服付け、百足の方はなんとはなしに脚をパタパタと遊ばせている。
百足の肌は抜けるように白い。身体つきも悪くない。武芸者らしく引締まりしなやかな肢体と腰つきが目を引く。百足の背にはその名を示すかのように、ムカデの彫物が彫られていた。
「せやね。何聞きたいどすか」
「まずはお前の他には誰が居る」
「うちの他に館主はんとその娘はん入れて六人。その他に御浪人はんが三十人ぐらいやね」
「館主とその娘は良いとして……その他の四人とは」
「軍学はんと塞翁はんと厳岳坊はんと吉助はん」
吉助はこの間の火箸使いだ。軍学は彼等の首魁らしい。他の二人ははじめて聞く名だ。
「塞翁とはどのような人物だ」
「塞翁はんは気ぃの良いご隠居はんどす。もう六十過ぎとんのと違うやろか」
「そのような御老体がか」
「強いんちゃいますの?ようしらんけど。そういえばなんかいっつも竹で出来た杖を大事そうに持ってはりましたなぁ。足腰が悪そうには見えへんかったけど」
杖か……仕込み杖かもしれない。
「厳岳坊は……坊主なのか」
「一応ぼんさんらしいですえ。身の丈七尺近い大男どす。見たまんまの怪力ですぇ。なんや拳法を使うていうてはりました」
大男の拳法使い。これも注意は必要だろう。
軍学という男は異能者を集めて何をするつもりなのか。
「で、黄道館は何をするつもりなのだ。お前たちのような武芸者や浪人者を数多く集めてなんとする」
「んー」
ここで百足は少し困ったような顔をする。
知らない、という顔ではない。言うのを躊躇っている。流石に仲間を売るのは辛いのか。
「ま、ええか」
うって変わってさっぱりとした表情になる。この切替の早さには夢人も苦笑せざるを得なかった。
「うちはもう旦那はんのものやし。隠すわけにはいかへんわ」
百足はそう言って笑う。
「で、何が目的なのだ」
「うちもようは知らへんのやけど、館主はんは世直し世直しいうてましたぇ」
世直し、幕府の転覆を計っていたと言うことか。
過去にもそのような輩が居た事は確かにある。しかしことごとく失敗している。正気の沙汰とは思えない。
「お前も本気で世直しなど考えていたのか」
「うち?うちは楽しければなんでもいいどす」
まぁそんなものだろう。夢人は苦笑する。
「もっとも……」
百足は笑いながら続ける。
「本気で世直しなんて言うていたのは館主はんだけどすけどな」
なるほど、それならばわかる。
浮世離れした館主が金儲けに利用されているのだ。
そしてその金儲けの黒幕は寺社奉行の一人、松平佐渡守だろう。そうなれば話はつながる。
「話は大体わかった」
夢人はもう一服つける。紫煙がふわりと浮かぶ。
「それよりうち、これからどないしよ」
夢人の顔を覗き込みながら百足が呟く。
「旦那はんがうちの主人やさかい、面倒みておくれやす」
「やはりそうくるのだな」
さらに夢人は苦笑する。
「旦那はんの長屋にでも住まわせてもらおかしら」
「うちは手狭だからな。ご免こうむる」
夢人は笑う。しかし何か考えねばならない。
「そうだな……文を書いてやるゆえ越前守の屋敷に行ってみよ」
「越前守。旦那はん寺社奉行の大岡はんと知り合いなんどすか」
「行きがかり上な。そのような事になっている」
「それでうちらに鎌かけてきなはったんどすか」
「まぁ……結果的にはそうなるかな」
「はぁ……またえらい人に目ぇ付けられていたんどすなぁ。そんなとこいって大丈夫やろか」
「さぁてな」
夢人は立ち上がると下帯を締め、更に肌襦袢を羽織る。
「その辺は自分で巧く立ち回るしかないな。もっとも越前守はなかなかに話のわかる男だ。意外に気に入られるかも知れんぞ」
「もうなるようにしかならしまへぇん」
百足は裸のまま大の字に転がると、観念したように声を出して笑い出した。
七
船宿で二人は別れると、夢人は自分の長屋へと足を向ける。百足は言われた通り大岡の屋敷に向かうつもりだろう。
時は昼七つを過ぎた辺りか。日も傾き始めていたがまだ街中は人通りが多い。今日のうちに片付けてしまいたい仕事などを急いで仕上げる者もいるのだろう。少し冷え始めた風が夢人の肌には心地良かった。
「旦那」
「牛か」
着流し姿の大柄な女。越前守の忍。牛頭陣八である。やはりつけていたのか。このなりなのだから気が付いても良いようなものだが、流石は忍といったところか。
「首尾はどうです」
「イタ、抓る奴があるか。妬いているのか」
「いけませんか。で、どうだったんです」
うむ、夢人はわざと神妙に頷くと、百足から聞いたことを牛に伝える。
「黄道館の陣容は見えてきましたね。しかし世直しとは……」
「最もそう叫んでいるのは館主だけらしいがな」
「そうだとしても由々しき話ですね。いや……手を入れる良い口実になるかな」
牛は一人頷く。
「その線からならうちの殿様も佐渡守様に一手打てるかもしれない」
「確かに佐渡守は焦るだろうな。幕府転覆の黒幕などと思われてはお家が潰れかねん」
しかしそうなると逆に佐渡守が事態の隠蔽を図るかもしれない。それはそれで夢人にとっては面白くない。
元々が暇つぶしではじめた祭りなのだ。早々簡単に終わってもらっては困る。何がどう困るのかと問われれば返答のしようも無いが、なんとなく、困る。
「で、百足って女はどうしたんです」
「ああ、大岡殿の屋敷にいかせた。文を持たせてな」
牛は呆れた。
「それはまた大胆なことを……まぁうちの殿様も物好きですから、拒みはしないと思いますが」
「どうなっても私には関係ないがな」
「……結構酷いですね、旦那」
「所詮私は破落戸浪人よ」
くく、と夢人は口端を歪める。
「それよりも旦那、これからどうするんです」
「どうするも何も……」
牛の問いかけに夢人は頷く。
「こちらから仕掛けるか、仕掛けてくるのを待つか……二つに一つしかあるまいよ」
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