第弐章 太平要術書
壱
夢人は牛と別れた後もふらふらと街中を歩いていた。とにかく浪人は暇である。しかし暇を潰すにも結構金はかかるものである。で、自然と街中をふらふらと歩くことになる。
「そう言えばこの界隈には……」
ふらふらと歩くうちに浅草界隈まで足を伸ばしていた。日も傾き始め、人通りもまばらになる。記憶が確かであれば黄道館はこの界隈にあったはずだ。
手近な農家に訪ね聞くと、その場所はあっさりとわかった。そうやって尋ねてくるものも多いらしい。言われたとおりに畑道を抜け、寂れた神社の裏手に回る。
立派な門構えの屋敷が一軒。『黄道館』の看板を掲げている。その造りを見るとどうやら元は剣術の道場か何かであったようだ。既に時は暮れ六つに近い。門は閉ざされている。
どちらにせよ乗り込む気はなかったので関係はなかった。ただ単に近くに来たから好奇心がてら寄ってみただけのことである。先ほど斬った浪人と鉢合わせればどうなるかとも思ったが、人がでてくる様子はなかった。
何とはなしに夢人は裏手に回る。裏木戸が見えるがやはり硬く閉ざされていた。
「思ったよりひっそりとしているな」
もっと怪しげな宗教を想像していた夢人には、少々拍子抜けではあったが、得てしてそういうものなのかもしれない。そのまま何気も無く裏木戸の前まで歩いていく。
ギィ
「あっ」
「ん?」
裏木戸から出てきた娘と丁度鉢合わせる。年のころは十五、六。黒い艶やかな髪を櫛巻きにして纏めている。
娘は驚いたように黒目の大きな瞳を見開き、しばし夢人を見つめていたが、気を取り直したように伏目がちに一礼すると、夢人が来た方へと歩み去る。夢人もそれ以上気にすることも無く歩み去ろうとした。
背後で聞こえていた足音が不意に止まる。背中に視線。しかし殺気があるわけではなかった。夢人は気にせずに歩む。
「……あの……」
背後から控えめな声がかけられる。
「あの……御浪人様……」
再び声。
「何か御用かな」
「あの……」
娘は小走りに近づいてくると小さく会釈をする。
「急に呼び止めてしまい、申し訳ありません」
「いや、それは構わんが。娘さんはここの人かい」
「はい」
「ここは『黄道館』と言うそうだが」
「……御浪人様はここに御用がおありだったんですが……」
娘の顔が少し曇る。用がある人間では拙かったのだろうか。
「いや、特には無いな」
「そうですか」
娘は少しほっとしたような表情を見せる。その意味するところは解らない。
「で、何用かな」
「ああ……見ず知らずなお方に不躾なお願いで恐縮なのですが……」
娘は手に持った風呂敷包みを差し出す。
「この本を処分していただきたいのです」
「本……開けてもよろしいか」
娘は小さく頷く。夢人が包みを開けるとかなり古びた本が入っていた。日本のものではないらしい。唐物のように見えた。
「なぜにそのようなことを」
「……」
娘は目を落とす。わけありなのは解る。しかしそれをしゃべる気も無い様子だった。
「……合い解った。預かろう」
夢人は本のみを懐にしまうと、風呂敷は娘に返した。
「……え……受けていただけるんですか」
意外そうな目を向ける娘。
「理由も聞かずに……」
「話してもらえるのかな」
「それは……」
「なれば良いではないか。もう夜も近い。こんな時分に娘さん一人を歩かせる事もなかろうよ」
「ありがとうございます」
娘は深々と頭を下げると、そのまま裏木戸の中へと戻っていった。
「さて」
夢人は再び歩き始める。この本がなんであるかは皆目見当もつかない。ただ夢人の直観が何かを感じさせた。
「吉と出るか凶と出るか。なんにせよ暇つぶしにはなりそうだ」
夢とはひとり笑う。
「暇つぶしのために厄介ごとに首を突っ込むか……悪い癖とは知ってはいるが……私は長生きできそうにもないな。しかしまぁ、長生きするほどの人生でもないか」
弐
「軍学っ軍学はおるかっ軍学を呼べ」
夜四つも過ぎたあたり、越賢良師は悲鳴にも近い声を上げる。脇に控えていた若い門人が一礼すると慌てて駆けて行く。
「お召しにございますか」
程なくして軍学が現れる。夜半にもかかわらずきちんとした身なりだ。
「うむ軍学……中に入れ。他の者は下がれ」
若い門人は一礼して去る。軍学は障子を閉めると居間の中ほどへと進む。
「して急なお召し。いかがいたしました」
「うむ……」
取り繕ってはいるものの、相当に動揺しているのが見て取れる。心ここにあらずといった感じだ。
「無いのじゃ」
「無い」
「うむ……我が聖典『太平要術書』が無いのじゃ」
「なんですと」
その言葉に流石の軍学も血相を変える。
『太平要術書』は黄道館にといって御神体とも言うべき書物。それが失われたとなると黄道館そのものの意義が危うくなる。
そもそも御神体たるその本が失われた今、良師の神通力は発揮されるのか。それは死活問題といえたが、それはひとまず触れずに置くことにした。
ここで悪戯に動揺を見せれば本来気の小さい良師は更に墓穴を掘りかねない。冷静に冷静に。
「落ち着きください」
軍学は勤めてゆっくりとした口調で話し始める。
「まずはいつまではお有りだったか思い出していただきたい」
「……午後の祈祷の時には確かにあった。となると……それ以後ということか」
「如何にも。では御本に触れることの出来る人物は」
「本を納めたこの御箱を扱っていたのは……我と……まさか」
「……御息女のお涼様ですな」
「……そのような……いや……涼を、涼を呼べ」
程なくして涼がやってくる。すっと正座すると深々と頭を下げる。
「……お呼びでしょうかお父様」
「涼……お前に問い質したい事がある」
「……」
良師の娘……涼は正座のまま黙ってうつむいていた。
「御本を持ち出したのはお前か」
「……」
俯いたまま動かない。
「……お前なのだな」
「……」
「涼……お前……」
「お父様」
涼は意を決したように顔を上げると良師をみつめる。黒目がちの双眸に意思の光が映る。
「お父様……どうか本の事は忘れ、世直しのことも忘れて以前の普通のお父様にお戻りくださいませ」
「……な……に」
良師の目の色が変わる。怒りに打ち震える。
「お父様に世直しなど……似つかわしくも」
「黙れっこのたわけめがっ」
雷鳴のの如き怒号が響く。
「娘のくせに我のこの想いを理解できぬとは……なんという慮外者じゃ」
怒りに実を振るわせる良師。そこに軍学が割って入る。
「良師様……お涼様も良師様の身を案じての事。軽率に過ぎた行為とはいえ、まずはお気持ちをお静めください」
軍学は涼のほうに向き直る。
「してお涼様。御本はいかがなされました」
「……」
再び俯くと沈黙する涼。怒鳴りつけようとする良師を軍学が右手で制する。
軍学は涼の顔をまじまじと見つめながら、静かな声で問い質す。
「燃やされましたか」
「……はい」
「……ふむ……この軍学に嘘は通じませぬ。燃やされたわけではなさそうですな。誰かにお渡しになられましたか」
「……」
「なるほど……誰かに渡したのですな。では誰に」
「……存じません……」
「存じぬとは、見ず知らずの相手に渡したということですかな」
「……」
「それはどのような人物でした」
「……」
「お話いただけませぬか」
「……」
涼は沈黙を続ける。その口は既に貝のごとく硬くと閉じられたままだ。
「喋らずともこの軍学の手にかかれば、いずれ知れることです。意地を張らぬほうが身のためですぞ」
「……」
「もうよい軍学」
幾分冷静さを取り戻した良師が、それでも少し荒い息で告げる。
「涼……お前は裏手の土蔵で禁足じゃ。少し頭を冷やすがよい。軍学、全力を挙げて御本を探し出せ。よいな」
「御意」
参
「黄道館か」
夢人は自分の長屋でごろりと寝そべると、天井をぼんやりと眺めながら何とはなしに思いを巡らせていた。
黄道館
あの浪人者はそう呼ばれる一団に組しているらしい。噂では館主が術士でその術を持って人々に施しをしているという。
特に耳にしたのが符水という施術だった。何でもお札を漬け込んだ水を与えるという。塗れば外から傷を癒し、飲めば内から病を癒すという。
評判が高くなれば人が集まる。人が集まれば金が動く。金が動けばこの前のような無頼の輩も群がるのだ。館主の不徳の致すところ、と言えなくも無い。
そんな金に集まるごろつきを斬ったわけだ。
とはいえ夢人も明確に意図があって斬ったわけではない。行きがかり上、斬ることになった。ただそれだけのことである。
「さて……仕掛けてくるか否か」
もっとも相手も夢人の素性を知るわけでもない。取り巻きの二、三人が斬られたところで気にも留めないかもしれない。
そしてもうひとつ。夢人は手を伸ばすと部屋の隅に投げてあった本を引き寄せる。
古びた本だったが装丁はしっかりしていた。表紙には『太平要術』の文字。中をめくってみると漢文がびっちりと並び、所々奇妙な絵柄が描かれていた。
「何かのお札のようにも見えるか……」
もしやこれは黄道館の『符水』、それについてかかれた書物か。
そうなると何故そこの娘が持ち出してきたのかが気になる。
「解らぬ事だらけだが……そこがまた面白い」
「夢人の旦那。いるかい」
暇をもてあましていた夢人の長屋に声をかける女の声。どこかで聞き覚えのある声だった。さてどこで聞いた声だったかなかな?夢人は手に持った本を懐にしまうと、半身を上げる。
「どなたかな」
「牛ですよ。お忘れですか」
ああ、あの大喰らいの女だ。あの浪人を斬った後に声をかけてきた女。巡らす思いに呼応するかのように現れるとは、世の中なかなか面白い。
「憶えているよ。何用かな」
「うちの殿様が旦那に会いたいって言っていましてね。今暇ですか」
そう言えば改めて繋ぎを付けると言っていた。夢人はすっかりその話は忘れていたが、どうやら雇い主との話がついたらしい。
「暇で無い浪人なんておらんよ。行こうか」
夢人は起き上がると大小を差す。軽く居住まいを整えると表に出る。
「しかし……この長屋を教えた覚えは無いのだが」
「ふふ……そこはそれってやつです」
「……空恐ろしいな」
「別にとって喰いやしませんよ」
「さて……どうだかな」
牛はカラカラと笑う。二人は連れ立って歩き始める。
「で、どこに行くのだ」
「赤坂まで」
赤坂といえば武家屋敷も多い。
「どのような人物がおぬしの殿なのだ」
「まぁ……そうですね。詳しくは行けばわかりますよ」
「行けば……か」
「それより旦那。お屋敷に行く前に団子でも食べていきませんか?」
「……遠慮しておこう」
「そうですか……つまらないねぇ」
四
「ここですよ」
牛が門脇の木戸を叩くと門番が顔を出した。牛の姿を確認すると中へと導く。
かなり立派な屋敷である。
「まてまて……ここはもしや寺社奉行の……」
「大岡様のお屋敷ですよ」
大岡越前守忠相……かつては江戸町奉行を務め、将軍吉宗の幕政改革にも参画した傑物である。
本来寺社奉行とは大名の務める役であり、それを一万石の大名格とはいえ旗本である大岡忠相が勤めるのは破格の待遇といってよかった。それほどまでに将軍の信頼厚い人物である。
「なるほど……寺社奉行か」
眉唾物とはいえ宗教家絡みの件なのだから、寺社奉行が出てくるのは成る程もっともと言えばもっともである。
木戸をくぐると身なりの良い五十を過ぎたであろう侍が一人、待ち構えていた。
「用人の佐伯勘兵衛と申す。貴公が春夜殿か」
「いかにも」
「殿がお待ちじゃ。上がられよ」
「じゃあ旦那。また後ほど」
牛はそう告げると庭のほうに回っていった。
夢人は佐伯に案内されて玄関から座敷へと通される。信用されているのか、逆に気にも留められていないのか、腰の物を取り上げられる事はなかった。
「ここで暫し待たれよ」
そういって佐伯は出て行った。
開け放された障子からは庭が一望できる。立派な枝振りの松と大きな池が目に映る。湖面が時に跳ねるのを見ると、鯉でも飼っているのだろう。
「どうぞ」
女中が茶を持ってくる。手に取ると一口啜る。美味い。濃くて良い香りが立ち込めている。熱さも丁度よかった。
流石に一万石の旗本ともなると茶も良いものを出すし、女中の躾も行き届いている。
「おおすまん。またせたの」
程なくして年配の男が居間に入り上座に座る。
年のころは六十位か。人の良さそうな笑みを浮かべ、温和な雰囲気を出している。しかしその佇まいは非凡な何かを醸し出していた。
「わしが大岡忠相じゃ。貴公が春夜殿か」
「はい。夢人で結構」
夢人は居住まいを直すと一礼する。浪人とはいえ侍としての礼儀は一通りは覚えているし、無礼を働くつもりも無い。
「貴公の事は聞いておる。凄まじい剣の腕前とな。陣八が惚れこんでおった」
「陣八殿……でございますか」
さて、聞き覚えの無い名前だ。夢人は暫し首を傾げる。
「私のことですよ、旦那」
「おお、陣八。来たか」
夢人が振り返る。そこには着流しを着た大柄な女、牛が控えていた。
「牛ではないか」
「牛ってのは通り名でしてね」
牛は少し照れくさそうに笑う。
「本当は牛頭陣八っていうんです」
「ごずじんぱち。男のような名だな」
「歴とした女ですけどね。ですから牛と名乗ってるんです」
牛はカラカラと笑う。
「そう、その牛がな」
越前守も笑いながら話を続ける。
「貴公を召抱えてはどうかといってきてな。どうじゃ百石で仕官する気は無いかな」
江戸町同心の禄高が大体四十石ほどである。浪人の身分から百石取りは破格の待遇といってよかった。
しかし夢人はゆっくりと首を横に振る。
「私ごときに過分なお計らいなれど、仕官する気はありませんので」
「そうか、惜しいのぅ」
越前守は心底残念そうにつぶやく。
「ではわしに雇われては見ぬか」
「そちらの方は考えさせていただきましょう」
「うむ、そうか」
鷹揚に頷く越前守。
「差し当って一つ頼まれてくれぬか」
「なんでしょう」
「陣八から聞いておるやも知れぬが、黄道館なる一団の内偵を行っておる」
「聞き及んでおります」
「ならば話が早い。その中で、どうやら彼奴らは『太平要術書』なる書物を使い、いろいろと施術を行っておるらしいのじゃ」
「太平要術書」
夢人の懐が急に重くなる。もしや……
「三国志演義にも出て来る書物じゃ。真偽の程は……いや、おそらくは偽物であろうが、この場合そのような事はどうでも良いのじゃ。実際に人心を惑わしているということに問題がある」
「はい」
「そこで頼みじゃが。まず一つ目は何とかその書物を手に入れて貰いたい。その内容を確かめてみたいのじゃ」
「ふむ」
「今ひとつは場合によっては黄道館を潰してもらいたい。そういうことじゃ。無論陣八が協力する。どうだ、やってくれぬか」
「お話はわかりました。しかし一つ解せませぬな」
「ん。なにかな」
「大岡様は寺社奉行。そのご威光をもって当れば何の造作も無いものかと」
「うむ、頭の痛いのはそこじゃよ」
越前守は頭に手をやりゆすってみせる。本当に困っているとでも言いたげだ。
「寺社奉行がわしの他にもいるのは存じておるな」
「はい」
「わしは最近寺社奉行職を拝命したばかり……いわばわしは新参者じゃ」
「はい」
「さらに他は大名、わしは旗本。奏者番も兼務しておらず、まぁ肩身の狭い思いをしておるわけじゃ」
「なるほど、お立場はわかりました」
夢人は頷く。越前守も頷く。
「して、何故に手をこまねくことに」
「うむ……」
越前守の顔にさらに苦渋の色が浮かび上がる。
「実はな……黄道館の後ろに他の寺社奉行……打ち明けてしまえば松平佐渡守殿が見え隠れしてな、どうにも表立って手が出せぬのじゃ」
「なるほど」
これで腑に落ちた。
松平佐渡守といえば五万石の歴とした大名。これでは旗本である越前守では迂闊に手が出せないのも道理である。
「そこで陣八を使って秘密裏に事を運んでおったのじゃが……夢人も手を貸してくれると助かる。どうにも使える手駒が少ないのじゃ」
「手駒ですか」
「うむ、手駒じゃ。取り繕いはせぬ」
つまり裏働き、汚れ役を買って出る人物が欲しいのだ。それを悪びれも無く言い切る越前守。人の良い顔をしてなかなかに喰えぬ人物である。
「お話はわかりました」
「うむ、で、どうじゃ」
「その前に……たとえばその本は幾らで買い取っていただけますか」
「ん。なるほど……そうじゃな……」
越前守は暫し思案する。
「五十……いや百両でどうじゃ。少ないかな」
「百両……いいでしょう。その値でお売りいたします」
そういうと夢人は懐から書物を取り出す。黄道館の娘から受け取った本。偶々懐に入れていたのが功を奏したか。
「なに」
越前守は目をまるく剥く。それはそうだ、真偽はどうあれ目的の書物らしきものが突如目の前に現れたのである。
牛は本を夢人から受け取ると越前守に差し出す。越前守は静かにそれを受け取った。
「確かに太平要術とあるが。これをどこで」
夢人は事の次第を話し出す。越前守は身を乗り出してそれに聞き入る。
「つまりはその娘からこの本を受け取ったというのじゃな」
「はい」
「うーむ。俄かには信じられんが」
「それは無理も無いこと。しかしそれが彼奴らの聖典か否かを調べる手立てはあります」
「ほぅ。いかにする」
越前守は更に身を乗り出す。
「牛、頼みがある」
「……え、あたしかい」
急に話を振られた牛は少し驚いたように身を直す。
「噂を流して欲しい」
「まぁ……そういった事は十八番だけど。なんて流すんです」
「『春夜夢人と名乗る男が太平要術書という大変貴重な書物を手に入れた』とな。私の人相風体と共に流してくれ」
「ほほぅ。なるほど」
越前守はにんまりと笑う。夢人も頷く。
「この本が本物であれば、黄道館の者たちが取り返しに接触してくるでしょう」
「そうじゃな。しかし穏便にすむとは思えぬぞ」
その言葉に夢人が微笑む。心の底から楽しげな涼やかな笑み。
「それこそ私の望むところ。黄道館が仕掛けてくれば私はただ斬り払うのみ。さすれば大岡様の二つ目の御依頼も自ずと果たせましょう」
「はは、物騒なことを涼しげに言いよるな。面白い。夢人よ、おぬしかなりの悪じゃな」
越前守はさも楽しそうに笑う。
「浪人は悪くなければ生きていけません。そういう世に御公儀がしております」
「はっは、これは手痛いな。しかしその通りじゃ。そして御公儀に仕える我ら幕臣も悪じゃ。世はわしを名奉行などと持ち上げるが、買い被りも甚だしい。いや、名奉行なれこそ悪だともいえる。馬鹿正直だけでは政は勤まらぬ」
「はい」
「さて……この本は約束通り百両で買い上げよう。なに、真偽などどうでも良い。夢人の心意気に百両出そう」
「は、有り難きお言葉」
越前守が声をかけると先ほどの用人が三方に切餅を四つ乗せてくる。切餅一つは二十五両。四つで百両になる。目の前に置かれた三方から切餅を掴むと懐に入れる。百両ともなるとずしりと重い。
「それから大岡様、一つお願いが」
「なんじゃ」
「お売りしたその本ですが、表紙のみ御貸しいただけませんか」
「表紙か、なるほど。好きに致せ」
そういうと越前守は本を返してよこした。
「では失礼して」
夢人は脇差から小柄を取り出すと、表裏両面の表紙を器用に取り外す。中身はそのまま越前守に返すと表紙を懐へしまう。そしてすっと立ち上がる。
「それでは私はこれにて」
「うむ、ちょくちょく顔を見せに参れ。家臣にも含めておくゆえ、庭から直接こちらに回るが良かろう」
「承知しました」
夢人は一礼するとそのまま屋敷を辞した。
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