第2話

 仄かにコーヒーの香りがした。

 あぁ……さて、どうしようか。これは寝起きの悪い僕のために恋人が淹れてくれたものに違いない。昨日二人で買い物に出かけたときに、駅前の東急ストアでちょっと値の張るコーヒー豆を「たまには良いよね」とか言いながら彼女は買っていた。

 じきに声を掛けにくるだろう。そして僕は起き上がらなければいけなくなる。でも眠い。今は四月だ。このふかふかの布団からはまだ出たくない。むしろ寝ていたい。二度寝ほど心地良いものはないと確信している。しかしそんなことをしたら、折角の温かいコーヒーが台無しになるだろう。そして何よりも彼女が不機嫌になる。朝っぱらから。そうなると困ることになる。根に持つからな、あいつは。ぷりぷりする。もう、それはもう朝からとなると一日中。そんなところもかわいいといえば、かわいいのかな、かわいいんだろうな。いや、どうなんだろう……

 そんなことをおぼろげに思いつつも僕は二度寝を選択した。やっぱり眠い。よし、僕は絶対に起きないぞ、寝てやる。怒られようが知ったことか、どうにでもなれ。

 やがてポンポンと布団に包まる僕を叩き、彼女が声を掛けた。

「ねぇ。起きて」

 僕は絶対に起きない!と腹に決めていたにも関わらず、その甘い声に案外すんなりと反応していた。男は馬鹿だ。

「んん、あぁ……うん」

 けど、やはり身体が動かない。

「起きて。朝ごはん作ったよ」と彼女がポンポンポンポン叩き始めた。

 朝ごはん?僕は細目で、部屋の中央に置いてあるテーブルの上に目をやる。すると、そこにはトーストとサラダとコーヒー。すばらしい組み合わせだ。普段、朝食はお互い共にあまり取らないのだが、これはおそらく彼女なりにコーヒーを演出した結果なのだろうと考えた。

「おぉ、すごいね」

 モゴモゴと言いながら僕は上半身を一度起き上がらせ、ベッドから這うように降りる。テーブルの前に座り、大きな欠伸をすると彼女は笑った。

 目を擦りながらコーヒーに手を伸ばす。青と白のチェック柄で彩られたマグカップはまだ温かかった。香りが鼻に染み、それを口に運ぶと、苦味と熱さが舌先に触れた。

「熱っ」思わず声を漏らす。

「大丈夫?」

 彼女が心配そうに見つめていたので、

「うん、おいしい。やっぱり豆が違うね。豆が」と僕は戯けてみせる。

すると彼女も「違うよ。私の淹れ方がうまいんだよ」と得意げに言い返した。

 窓からは朝日が差している。眩しいけど、清々しくて気持ちの良い朝に感じた。カリリ、とトーストも香ばしい。

「もうあんまり時間がないから、早く着替えてね」

 見ると時計はとっくに八時を過ぎている。今日の大学での授業は一時限からだ。なぜこんな時間割を選択してしまったのか、結構後悔している。履修登録時は「大丈夫」と変な自信があったんだけど……

 彼女はご自慢のロングヘアも綺麗に束ねて、既に準備万端な様子。僕が慌てて着替えを済ませ、歯を磨き、髪型のチェックなどをしていると「置いてくよ!」と彼女はすでに玄関で靴を履いていた。

 そりゃないよ、と思ったが彼女の気持ちもわからないでもない。僕は急いで鞄をもち、玄関へと急ぐ。

 こんな毎日が続いていくんだろうな、と思った。


 けれども、それから話は急展開してその数日後。

「気持ちが重いの」

 僕はなんともあっさり彼女にフラれてしまう。人生何が起こるかわからない。かなりの痛手を負った僕は、夏休みでもないのに大学の授業をほっぽり出して半年振りに実家に帰ることにした。


 長い間電車に揺られていた僕は、きっと当て付けがましいほどの悲壮感を漂わせていたに違いない。母が家に居なかったらどうしようか。なんてことも考えずに、僕は三○二号室のチャイムを押す。ぴんぽんと私的に懐かしい音が鳴り響くと、足音とともに鍵の開く音。がちがちと鳴るそれは僕に息を飲ませた。平日の夕暮れ時。何も告げずいきなりやって来た息子に、母は絵に描いたような表情で出迎えた。

「どうしたの?」

 僕が何も答えずにいると「お金?」と聞いてきた。

 僕はがっくりと肩を落とす。

「しばらく泊まっていい?」と尋ねると、母は当たり前だと言わんばかりに快く承諾してくれた。

「連絡の一つでもしてくれりゃあ良いのに。お母さんこれから届け物しにまた会社に戻らなきゃいけないのよ」

 そう言う母はスーツを着込んでいる。どうやら僕は絶妙なタイミングで実家に辿り着いたらしい。母と軽い会話を二三交わした後「じゃあ、一時間くらいしたら戻ってくるから。帰ったら一緒に晩御飯食べに行こう」とだけ言い残し、母はそそくさと半年振りに帰った息子に家を明け渡してしまった。

 いつの間にかまた一人取り残されてしまった僕は、何をするでもなく、ただぽかんとしていた。

 駄目だ、じっとしていると余計なことを考えてしまいそうだ。そう思い立ち、スマートファンと鞄を置いてぶらぶらと部屋の散策をはじめた。とは言っても、うちの実家はそんなに広くはない。玄関に繋がったダイニングキッチン、トイレ、風呂場に、五畳程度の部屋が二つしかない。それでも今では三つ下の弟も実家を出て一人暮らしをしているので、なんとも凄然としている。

 かつて兄弟二人で使っていた部屋に入る。しかしそこにはもう当時の面影はない。今年の春までは弟が使っていたのだが、その痕跡ももう見当たらない。他の荷物や家具はすべて持って行ってしまったのだろう。

 兄弟のどちらかが帰ってきたときのためにか、布団と一人ほど寝られるだけのスペースはあったけれど、他は段ボール箱や、鏡、掃除機に、袋詰めのお菓子やら何やらが置いてある。久しぶりの我が家は何だか違う顔をしていた。


 そして、母の部屋。その扉の前に立つ。父が家を出てからは三人、この部屋で寝ることもあった。だが勝手に開けて見ていいものか。一瞬戸惑いはしたものの、郷愁に駆られ、その扉を思い切って開けてしまう。

 扉を開けたのと同時に目に留まったもの。それは見慣れぬ木製のベッドだった。以前にはなかったものだ。僕は一瞬驚き、そして次に落胆した。部屋に入り、隅に置かれたそれに腰掛ける。四本足で、木目のしっかりとした丈夫そうなそいつは、きっと母が新しく買ったものなのだろう。しかし、どこか使い込まれたような雰囲気も持っている。よく見ると木目とは違った疵がいくつもあった。中古だろうか。

 壁には母の衣服が掛けてあった。着る服も何だか少し派手になったような。先ほどの母の顔を思い出す。

「老けたなぁ」

 誰も居ない部屋に、僕の声は溜息とともに沁みこんだ。

 今度は床に転げて天井を眺める。景色の変わっていないはずの天井も、何だか初めて御目にかかるような気分に陥ってしまう。窓から射す夕焼けが目に染みる。その光から逃げるようにベッドに目を向けると、そいつの足下がぽっかり空いているではないか。人一人分すんなり入ってしまいそうな隙間だ。僕は何となく夕焼けの明かりから逃げるように、そいつの下に潜ってみた。陰りに居ると、少し沈んだ気分も落ち着く気がした。

 こうして隠れていると、幼い頃にやった遊びを思い出す。それを僕は「かくれんぼごっこ」と名づけている。


 父が居なくなってから母は仕事で家を空けることが多くなり、僕も弟と休日はよく母の実家に預けられていた。都心から少し離れていて、片田舎とも呼べるような場所に母の実家はある。そのため土地も広く、家も平屋で木や畳の香りがした。

 そんな中で暇を持て余したときに、よく狭い場所を見つけては誰にも告げず、密かにじっと息を潜め隠れていた。それが「かくれんぼごっこ」。例えばそれは、炬燵の中、カーテンの裏、押入れや、物置と化した部屋の片隅、時には草叢だったりする。

 広い家にある狭い空間に心躍らせては、そこで一人、身を隠す。時間は刻々と過ぎていき、やがて不在に気付いた弟や祖母が自分を探し始める。そうなるとかくれんぼの始まりだ。名前を呼ばれた瞬間、「よし、やった」という気持ちになる。このときが一番面白い。たまに可笑しくて吹き出してしまうこともあった。そんなときは直ぐに見つかってしまい「何してんの」とムッとされてしまう。そうなると僕の負け。

 相手が見つけられないときは、大体一度捜した場所には戻ってくることも少ないので、「あぁ、これは戻ってこないな」と思い、タイミングを見計らって出て行くことにしていた。「どこにいたの?」などと聞かれても、隠れていた場所は教えない。一人だけの秘密にして心の中で笑みを浮かべ、自分に勝利を与える。そんな一人遊びが好きだった。

 隠れている中、始まりの合図を待っている間も、僕にとっては大変有意義な時間だった。他人からすれば、根暗で、且つ、非生産的この上ないように思えるかもしれない。しかし、幼い僕はそうすることで自分の世界を広げていた。空想に耽ることもあったが、ただ暗闇を見つめるだけことも多かった。そうするうちに、黒く透明な塊が眼前一面に存在するかのように思えた。その塊は微妙に色と形を変えて、うねうねと僕に覆い被さる。僕は孤独と遊んでいる気がしていた。

 暗闇の中、夢とうつつとの境で何も考えずにふわふわとしている時間が好きだった。今でもそうかもしれない。寝起きの悪さはここからくるのだろうか。僕は、母のベッドの下に隠れながらそんなことを考えていた。部屋の窓から夕焼けが差し込み辺りを照らす。夕焼けを見ると孤独な気分になる。淋しい気分に。でも今は自ら選択した孤独の中に居る。だから淋しくはない。そう思えた。


「あの頃みたくはいかないな」と、自分に向かってぽつりと呟いてみる。そこにあったのは、妙な懐かしさだけだった。客観的に自分を見つめていることに溜息が出た。成長したのかな。なんて考える。


 そろそろ出るか。見納めにと、ベッドの裏をまじまじ見ていると、落書きらしきものがふと目に留まった。なんだこれ。よく目を凝らす。小さな字で書かれ、滲んではいたが、何とか読み取れた。


 090-5……


 電話番号だ。

 しばらくそれを見つめていたが、はっと思い立ち、急いでスマートフォンを取りに出る。そして、直ぐまたベッドの下に潜り確認した。

 母さんのとも、弟のとも違う……


 ワクワクしている自分がいた。それは、幼い頃のそれに似たような。思わぬ処から、宝物を見つけてしまったような。そういえば、押入れに隠れていたときに蛇の抜け殻を見つけたな。そんな余計なことも思い出した。

 僕は、今の気持ちを大事に取っておく為に、その番号をスマートフォンの電話帳に残しておいた。今、掛けてしまうのは勿体ない。そう思えて仕方なかったからだ。登録名は『ベッド裏』にしよう。

 僕はもう失恋のことなんて忘れていた。いや、本当のことを言うと失恋のことはやっぱりまだ忘れられないでいる。けど僕にとってそれは、そんなことも忘れてしまいそうになるほどの出来事だった。


 母の帰りを待ち侘びた。あの頃、一人孤独に震えていたときとは違い、首を長くして待つ。自分のするべきことがはっきりしていると、なんとも心強いものだと思った。

 扉の開く音。僕はベッドから起き上がり、玄関へと向かう。


 母が「ただいま」と言い、

 僕は「おかえり」と言った。

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