ファミリー・コンプレックス

XYI

第1話

 父は、それまで僕にとって優しく大きい人だった。母が厳しかったというのもあるのかもしれない。僕は父が大好きだった。

 そんな父がうちを出ていったのは、僕が小学五年生で、弟がまだ二年生の頃。秋の始まり、夕暮れを覚えている。

 それは幼い僕らにとってあまりに突然で、けど、いつかは帰ってくるのだと何の疑いもなく思っていた。しかし、その拙い思いもやがては薄れた。


 何となく父の思惑を悟りはじめたのは、母が僕らを抱き、涙したときで。母はもう限界だったのかもしれない。強く、無敵だった母のその姿はショックで。ただ純粋にショックで。それ以来、僕も弟も父の話題に触れることはなくなった。触れるタイミングを掴めずにいたのかもしれない。

 僕らは捨てられた。

 そんなことをだんだんと意識するようになった。


 それから暫くしたある日、母は弟を呼んだ。

「今から出かけましょう」と。

 戸惑う弟を余所に、母は手を引いてゆく。

 いつもとは違う、母から滲み出るあの雰囲気を今でも覚えている。禍々しくも冷淡で、どこか遠くを見ているような。


 扉の閉まる音が僕を一人にした。

 ベランダの窓から差し込む光は、また夕焼けだった。

 重苦しい沈黙が物音を立てる度に強調される。僕は玄関に繋がったダイニングキッチンと自分の部屋とを遮る唯一の扉を空けていた。


 どのくらい待ったのだろう。

 二人の帰りをただ待つだけの時間は、やはり孤独で、どこかよそよそしくて。帰ってくるもこないも、そのどちらもが恐ろしく思えた。



 玄関から鍵の外れる音。

 僕はベッドから恐る恐る起き上がり、そこへと向かう。

「おかえりなさい」と声を掛けるも、返事をしたのは母だけだった。弟は母の後ろに寄り添い立っている。

 弟の俯いたままの瞳を見て、僕は母を恨んだ。いや、そう思うようになったのは最近になってからかもしれない。

 後で知ったことだが、二人の向かった先は父が女性と暮らすアパートだった。父は〝父親〟ではなく、ただの〝男〟になっていた。母は弟を使って父を取り戻そうとしたのかもしれない。弟はそこでどんな光景を見てきたのだろう。次の朝、弟はおねしょをしていた。何もなかったかのように日々を過ごしていたが、きっと弟は今でもあの日のことを忘れられないでいるだろう。今でも思う。なぜ僕よりも、まだ幼い弟を連れて行ったのか。僕は未だにそのことだけは母を許せない。

 あの日の夕焼けが、今でも僕の胸を黒く焦がしている。

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