第1話-11

「なぁに、簡単な話だよ、風上時雨。お前は既に一つ、

 夢うつつ、暑さに茹だる私の耳に、【悪魔】の声が滑り込む。

 辺りには、死体も血の跡さえない。もしかして夢だったのかとさえ思えるが、しかしそうではないことを、私は知っている。

 世界はそんなに優しくはないと、私は既に知っているのだ。

「気を失った間はほんの数分だ、風上時雨。まだこの惨状は、誰にも伝わっていない」

 そう言う【悪魔】の手には、何も握られていない。それがなのかはわからないが。

「さて、種明かしだ。何せ俺は親切だからな、何が起きたか教えておいてやる」

 そんなわけはないと、私は頭のどこか片隅で思う。彼は【悪魔】だ、その言動の全てには、悪意がつきまとう。

「まあ単純だがな。

「………え?」

 その言葉は、壊れかけた私にも響くような、重要な事実だった。

 揺れていた意識の焦点が、現実に合い始める。

 自らの言葉の効果を見てとり、【悪魔】はニヤリと笑った。

 そんな、と私の口から弱々しい言葉が漏れる。もし、そうだとすれば、くーちゃんは………。

「そうだよ、風上時雨。



「最初に出会った時点で、契約はしたと言ったな。詰まり、出会わなければ契約にはならん」

 最初、【悪魔】はくーちゃんに姿を見せなかった。見せたのは、私に自らの証明をするためだった。くーちゃんが求めたわけではない――くーちゃんは【悪魔】を求めてはいなかった。

「で、でも………」喜ばしいことではある。あれほど辛い目に会っていたはずのくーちゃんが、復讐を願っていなかったことになるのだから。

 喜ばしい、けれど。「結局、くーちゃんの願いは叶ってるじゃない!」

 そうだ。

 

 

「そうとも。やつの願いは叶ったさ、俺が叶えたからな」

「だったら………」

「だから、言ったろ?既に願いを一つ叶えていると。………坂上海月の願いでないのなら、

「わたし、の………?」

「そうだ」

 【悪魔】はニヤリと笑う。私の内心を見透かすような視線に、ハッとなった。

 【悪魔】は私の心を覗くことが出来る。

 私は、思わなかったか?願わなかったか?

「………くーちゃんを、助けて、って………」

「思い出したか?お前は、俺が【悪魔】と認識した上でそう願ったのだ。だから、叶えた。助けたのさ」

「そんな………」

「全てはお前の願いのままだ、風上時雨。『くーちゃんを助けて』で一つ、そして今、『くーちゃんに殺させたくない』でもう一つだ」

 指を二本立ててヒラヒラと揺らす【悪魔】。

「そんなの、殺させたくないなら、もっと、穏便な手段があったはずでしょ?!」

「いいや」

 そんなものはないと、【悪魔】は平然と首を振る。そして、笑みを深くして、私の顔を覗き込んだ。

「お前の願いでは、無理だ。何故なら………お前は想像してしまっていた。とな」

「………!!」

 それは、確かにそうだった。

 怒りと憎しみと、それをも塗り潰すような絶望に染まったくーちゃんを前に、私の脳裏には穏便に済ます方法は浮かんでいなかった。

 何故か。

 

 止める手だてはないと、生半可な手段ではどうしようもないと、そう【悪魔】は私に思わせていたのだ。

「………全部、最初から………」

。当たり前だろう?何せ俺は………」

 【悪魔】だから。

 あぁ、解っていた。理解していた筈じゃないか。悪魔はその根本が悪意なのだから、育った木からは悪意しか実らないに決まっている。

 笑いながら、【悪魔】の手が伸びてくる。その手が私の皮を裂き、肉に沈み、心臓を抉る。そうして魂を奪うのを、私は、なす術もなく見詰めていた。



 それから少しして、教室に辿り着いた教師がドアを開けると、そこでは生徒たちが、

 彼らは一様に酷いショック状態であったが、命に別状はなかった。

 死んだのは、一人だけ。

 

 散らばる封筒と紙切れからクラスにいじめがあったという疑惑が生じ、彼らの小学校時代に起きた、忘れられていた事故さえ掘り起こされた。

 マスコミは勿論警察までもが動き始め、その過程で虐待の可能性を疑われた少女の母親は、ひっそりと自宅を引き払った。

 教師も学校も責任を問われ、その騒ぎが生徒たちに飛び火するのも、時間の問題と思われている。

 彼らは皆、罪を問われることになるだろう。お前たちは【悪】なのだと、世界に示されることになるだろう。

 

「………悪くない終わり方だな、風上時雨」

「………そう、なのかな?」

 【悪魔】の言葉に、私は首を傾げる。

 誰一人死ななかった………詰まり、くーちゃんが誰も殺していないということだ。

 わたしにとっては勿論望ましいが、くーちゃんにはどうだったかは解らないし、【悪魔】に至っては不本意なのではないだろうか。

 【悪魔】は首を振る。

「そうでもない。人間の死は、悪魔にとっては単なる資源の喪失に過ぎないからな。………生きていれば、人間は直ぐに絶望したり、欲望を持つ。それを叶えてやる機会を、死は永遠に奪ってしまうだけだ」

 だとしたら、なるほど【悪魔】には理想の展開だろう。彼ら加害者は生き延び、今後社会の目に晒される。それは、新たな【悪】を育てる格好の温床となるだろうから。

「………じゃあ………」

「ん?」

「………何でもない」

 私は口をつぐむ。

 じゃあ、くーちゃんはどう思ったのかとは聞かないことにした。彼らの死を願った末【悪魔】に裏切られたのか、それとも最初から、死なせず思い知らせることを願ったのか………どちらでも、結果は同じだ。

 私は首を振ると、【悪魔】に向かい合う。

「………これから、私はどうなるの?」

「決まっているだろ?お前はもう魂を奪われているんだ。………俺が必要ないと思うまで、俺のためだけに存在するただの駒になるのさ」

「そう………」

 構わなかった。

 私は視線を胸元に向ける。染み一つないブラウスの下には大きな孔が開き、そこにはもう、心臓は無くなっている。

 私は、風上時雨は、もう魂を無くしている。未来にはもう、良いも悪いもない。

 それでいい、それこそが相応しい。

 私が願わなければ、くーちゃんは【悪魔】の手にはかからなかったのだ。大事な友達を破滅させ、死なせた私はけして救われてはならないのだ。

 くーちゃんは、死を救いの一つと考えていた。ならば、私には死すらも生温いのだ。

「ねぇ、【悪魔】。………一つだけ、頼みたいのだけど………」

「悪魔様な?それが何の意味あるのか知らねぇが、まあ構わないぜ」

 何せ俺は親切だからなと笑うと、【悪魔】は真新しい鋏を手渡してくれた。

 私はそれを受けとると、自分の髪をぐいっと掴んだ。



「………風上時雨という名前の生徒はそれ以来、姿を消した。というか、。存在ごと【悪魔】に消されたそいつは、今もさ迷い、【悪魔】の為の生け贄を探してるらしいぜ」

 おどろおどろしく話を締め、俺は津向の様子を窺う。

 津向の表情は、いつものように変わらない。話を聞いてる間ずっと、どんな場面の時にも、淡々と変わらぬペースのまま飯を食っていた。

 ちょっとグロかったと思ったのだが、そうでもなかったらしい。かなり綺麗に食べ進めていて、完食間近といった風情だ。

 まあ何でもいい。俺としても、津向のやつに聞くことはあと一つだけだ。そしてそれこそが肝要なのだ。

 何事もそうだ。最後こそ重要なのだ。

「さて、どうだ?津向。お前はどう思ったのか聞かせてくれよ」

 俺が津向に話をするのは、何よりこの質問をするためだ。俺たちの昼のお話会の作法はたった一つ。俺が尋ねて、やつが答える。

 さあ、終幕だ。

「質問だ、津向。今回の話、?」

 俺の問いかけに、津向は瞬巡することもなく答えた。

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