第1話-10

 坂上海月という人格が、いつからなったのかは定かではない。

 そもそも私のせいで、坂上海月はクラス中から苛められてしまい、ろくに話もできなかったのだ。

 記憶の中の最後の言葉は、「謝ろう」だった。

「ね、あやまろうよ、みんな!」

 小学校の卒業式当日、彼女は私たちにそう呼び掛けた。

 何についてかと、問い返す者はいなかった。そんなことは、わかりきっていた。私たちが全員で謝らなければならないことなんて、一つしかない。

「のりちゃんに、ごめんなさいって言いにいこうよ!」

 その言葉を、坂上海月はどんな気持ちで言ったのだろうか。良く考えた末の言葉だったのだろうか。

 だとしたら――

 客観的にみれば、誰よりも正しく、尊い考えだったのかもしれない。或いは、自分たちの行いを反省するという、当たり前の考えだったのかもしれない。

 少なくとも、坂上海月はそのつもりだったのだろう。

 自分たちは悪いことをした。

 だから、謝る。

 まったく隙のない論法だ。私だって、それが正しいと思わないわけではない。

 けれど。正しいことが正しく評価される世界だけではない。

 簡単に言って、私たちは。それが、私たちの総意であったのだ。

 白けただけなら、それで済んだだろう。空気の読めないやつ――それだけで、彼女の扱いはそこまでひどくはならなかったはずだ。

 そうならなかったのは、坂上海月が言った最後の言葉のせいだ。

「皆がいかないなら、!」

 その言葉に、私たちは白けた上で、危機感を覚えたのだ。

 という危機感を。

 謝らせる訳にはいかない――

 そうして、坂上海月は排斥の対象となったのだ。

「………………」

 今、彼女はどんな顔をしているのだろうか。

 亡霊の仮面下山紀子と同じように、虚ろな顔か。それとも、自分を虐げた罪人たちを処刑するという、快楽に歪んでしまっているのか。

 しょせん罪人である私には、彼女の顔は見えない。それが悲しみか痛みに沈んでいてほしいと願うのは、自分勝手に過ぎるだろうか。



「………………」

 亡霊は踊る、歩くような早さアンダンテで。

「………………ふ」

 周りのクラスメート楽器に悲鳴を歌わせ、赤い花を咲かせながら。

「………………ふふふ」

 逃げ惑う罪人が、不器用な円舞曲ワルツを踊る。1、2、3でさようなら。

「ふふふ、あはは、あは、ははは!!」

 狂ったように笑いながら、坂上海月は手にした指揮棒タクトを振り続ける。

 辺りの全ては罪人だ。

 収穫を待つ熟れた果実だ。

 放っておけば腐って落ちる、いや、或いはもう既に手遅れか。

 なら、刈り取るのが慈悲というものだ。

「………愉しそうだな、坂上海月」

「………【悪魔】」

「おやおや。少し見ない間に、随分と様子が変わったな」

 内心の苛立ちそのままに歯を剥き出す坂上海月に、【悪魔】は涼しげに笑った。

 あまり見たくはない顔だった。【悪魔】の姿を見ると、契約の終わりを嫌でも意識してしまう。

 この楽しい時間が、自らの死で幕を閉じる。結末そのものは納得していても、出来れば長く続けたいと坂上海月は考えている。

 一人でも多く殺す。

 既に、坂上海月にとって【罪人】という単語は幅広く拡張されている。直接彼女に手を出した者は勿論、見て見ぬふりをした者や、気付きもしなかった者まで。そればかりか、無関係に安穏と暮らしていた全てに対して、彼女は憎悪を燃やしていたのだ。

 その絶望は、まるで漆黒の太陽のように、あまねく世界を燃やすまでに育っていた。

「ふむ、そうして憎しみに全てを委ねるのは構わないがな。俺としては、お前の暴走にさして興味はない」

「だったら放っておいて」【悪魔】に対して、坂上海月は遠慮のない言葉を投げる。

 底無しの敵意は、明らかに格上の相手にも等しく刃を向けている。「契約の終わりまでに、私は、皆を殺すんだから」

 【悪魔】は気にした様子もなく肩をすくめる。

「それは構わんよ。俺は【悪魔】だ。お前の【お友達】じゃあない」

「………っ!」

 友達。

 その言葉は、憎悪に呑まれつつある坂上海月をして、けして無視できない響きを含んだものだった。

 坂上海月は、一人の顔を思い浮かべる。

 彼女にとっては、ただ一人、そう呼ばれるに相応しい存在。

 劣情のまま自分を虐げたクラスメートとも、感情のまま自分を殴った母とも違う、自分を心配し、気遣い、助けようとしてくれた存在。

 あのとき【悪魔】と出会わなければ、あの子はきっと、私に声をかけてくれただろう、その為に彼女があそこにいたのだと、坂上海月は確信している。

 教室の隅を意識する。彼女の唯一の友達は、そこで隠れているはずだ。

 それを裏切りとは思わない。何故なら、これは坂上海月の復讐だ。手伝ってほしいとは思わないし、巻き添えにもしたくない。

「ふふ、友達、ね」

「………何よ」意味ありげに笑う【悪魔】に、坂上海月は殺意を込めた視線を送る。

 たとえ敵わずとも、友人への侮辱を放置する訳にはいかない。「私の友達に、何か言いたいことでもあるの?」

「はは、それは自分で確認しろ、坂上海月」脅威ではないとばかりに、【悪魔】は平然と笑う。「お前の友達とやらは、?」

「言いたいこと………?」

 不審に眉を寄せながら、坂上海月は視線を教壇に向けた。そこで踞る友人、風上時雨へと。

 そこで、彼女は。

「………え?」

 

 

「………どうして………」

「さて、覚えているか、坂上海月??」

 ニヤニヤと笑いながら、【悪魔】が毒を垂らす。憎悪と憎しみに燃える坂上海月の心に、絶望という油を注いでいく………。



「………ひっ!?」

 短い悲鳴が私の喉から漏れて、静かな教室に響く。

 教室にはもう、誰もいない。転がっているのは、ついさっきまでクラスメート肉塊だけだ。

 彼女の復讐は、終わったのだ。

 いや、と私は自嘲気味に首を振る。

 

 友達だからなんて甘い事を考えてはいない――何故なら。

「………………」

 

「………くーちゃん………?」

「どうして?」

「え?」

 声は、私の記憶にある下山紀子の声そのものだ。可愛らしく小首を傾げる仕草も、崩れてはいるが彼女の面影がある。

 それもまた、【悪魔】の力か。

「どうして?」くーちゃんは、下山紀子の声で繰り返す。「どうして、そんなことを聞くの、しーちゃん。?」

「見ればって………」

「わからないの?」

 くすり、と笑いながら、くーちゃんが私に近付いてくる。一歩、また一歩。

 笑う顔は、亡霊のままだ。

「そっかぁ、わからないんだ」くすくすと、笑い声が聞こえてくる。

 控えめに、やがて大きく、狂ったようにくーちゃんは笑い始める。

「わからない、わからない、わからないのね?わからないんだ!!」

「く、くーちゃん………?」

!!」

 くーちゃんが怒鳴る。その声は、姿は、いつの間にか彼女本来のものに戻っている。

 彼女の顔に浮かんでいたのは、激しい怒り。何もかもを焼き付くす、憤怒の業火だ。

!!」

「っ!!」

 短いその言葉は、抉るように私の胸を貫いた。

 くーちゃん、坂上海月は、もう私の目と鼻の先に立っている。

「私が【悪魔】にもらったのはね、風上時雨。!!」

「あ………」

 憎悪に燃えた坂上海月の瞳に射抜かれて身動きも取れない私の喉に、彼女の細腕がゆっくりと伸びてくる。

 その指が、私の喉に絡み付き。

「ぐっ………!!」

 力強く、締め上げる。



「………が、ぁ………」

 息が詰まり、喉が軋む。視界の縁が黒く染まり始め、細かい星が散らばる。

 思わず私は、彼女の両手を掴む。しかし、その細身のどこにそんな力があったのか、坂上海月の腕はびくともしない。

 どころか、一層力を込めて、私の喉が絞められていく。

「………信じてたのに」

「ぁ、ぐ、ぅああ………」

「あなたは、あなただけは違うって………」

 消えかける視界の中、坂上海月の顔が近付いてくる。

 その瞳から一筋の涙が溢れるのを見て、私は抵抗の手を弛めた。

 彼女の顔からは、怒りも憎しみも消え失せていた。

 残っていたのは、絶望。

 世界を、そして我が身さえも焦がす憎しみと怒りの中で、坂上海月が大事に大事に抱えていた、恐らくただ唯一の希望。それが、風上時雨ともだちの存在だったのだろう。

 それが裏切られた。

 罪人にしか見えない筈の仮面を、風上時雨は見てしまっていた。

「………おかしいとは、思ってたの」

 一筋だった滴は、やがて雨のように教室の床に落ちていく。

「いきなり、私をいじめてきたあいつら。あいつらが言ってたのよ。………

 誰も知らない筈なのにね、と坂上海月は自嘲した。

 ………それを言ったのは、私だ。

 坂上海月の言葉で白けた教室の空気。それを変えたくて、私は、ふざけるように言ったのだ。

『あの子さ、お母さんに虐待されてるのよ』

 庇護するべき相手から、虐待を受けている。

 それはクラスメートたちにとっては、弱者の証明に他ならなかった。

 坂上海月は、誰からも守護されない。実の母親さえも、彼女を虐げている。

 

 守られない者。それは詰まり、報復の恐れが無い者だ。

 結果、坂上海月は標的にされた。

「あなたしか、いない。私のお母さんのことを知ってたのは………!」

 坂上海月の指に更なる力が加わる。窒息するか、或いは喉骨の折れるのが先か。

 仕方ないと、私は手を下げた。

 私は、いや、私こそが、罪人の中の罪人だ。彼女には、復讐の権利がある。

「よくも、友達面して、私を騙して!!」

 坂上海月の顔は、滝のような涙に沈んでいる。それを見ながら、私はぼんやりと考える。

 私に裏切られたことで、こんなにも、くーちゃんは泣いてくれている。傷ついてくれている。それだけ、私を大事に思ってくれていたということだ。

 それで、充分だ。

 ただ、せめて。遠退く意識の中で思う。

 死にたくない。友達に、私を殺させたくない。もっと、生きていたかった。生きて――友達と一緒に過ごしたかった。

「………ごめん、なさい………」

 どうにかそれだけ、私は絞り出す。届いたかどうか、半ば以上が黒く染まった視界ではわからなかった。

 私の喉に掛かる指から力が抜けることはなく、私は、死

「………なない」

「………っがはっ!?」

 急に喉から手が離れ、私は床に投げ出された。

 視界に火花が散らばる。喉が焼けるように痛い。私を生かすための酸素が、私の喉を焼いていく。

 一体、何が。

「………く、くー、ちゃん………?」

 呼び掛けの返事はなく。

 見上げた私に、赤いどろりとした液体がぶちまけられた。

 呆然と見上げる私に、くーちゃんが倒れ込んでくる。その首から上は綺麗に無くなり、赤い噴水を上げていた。

「………え?」

 くーちゃんの身体を抱き止めながら。

 吹き出る血で全身を染めながら。

 座り込む私に、声が掛けられる。落ち着いた、愉しそうな声。

「二つ目だ、風上時雨。?」

 いつの間にか現れていた【悪魔】の声が、私の真っ白な頭に響く。

 笑うその手に握られた、くーちゃんの顔を見て。

 私の意識は、闇に呑み込まれた。

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