第1話-9
ぴちゃり、という音は小さくか細く、吹けば飛ぶような微かな音だった。
それでも。
びしょ濡れの足を床についたようなその音は、教室中の全ての騒ぎを突き抜けるように響いた。
「っ!?」
ドアに殺到していたクラスメートたちは一斉に動きを止めた。
さっきまであれほど叫んでいた、開かないドアに対する怒号は消えていた。
部屋の空気の密度が増しているような錯覚に、誰もが息を呑む。荒くて浅い呼吸音だけが、彼らの間で繰り返された。
音は、背後からだ。教室の後ろ、自分たちとは反対の位置。
そこにあるのは、自分たちの荷物を入れる私物用のロッカーがクラスの人数分並んでいて。そして、その端には。
掃除用具入れの、ロッカー。
かつて自分たちが少女を閉じ込めて遊んだ、思い出深いロッカーがある。
………彼らは前を向いたまま、じっと背後に神経を集中する。
そして、考える。
さっきのは、なんの音だ。
その前に、ロッカーが開く、軋んだ金属音がしなかったか。
全身びしょ濡れの少女が、そこから出ては来なかったか。
全ては、振り向けば済む話だ。しかし。彼らはそれができない。
振り向かなければ、それを自分の気のせいにできる。
もし、振り向いてしまえば――そこにもしそれがいたら――もう気のせいにはできない。現実になってしまう。
しかし。
振り向かなければ、その目で見なければ。
妄想は、肥大化する。際限なく、滞りなく。
やがてそれは限界を越して、彼らの中から常軌をすっかり追い出してしまうだろう。そうして、彼らは狂気に堕ちてしまう。
振り向かず、自分たちの育てた狂気に食い殺されるか。
それとも振り向き、
どちらにしろ、待っているのは地獄だ。精神的な破滅か、それとも肉体の死か。
「………うぅ………」
そして人は、その中途半端に長くは耐えられない。
「うぅぅぅぅ………?!」
もし、次に何かあれば………あの音が再び聞こえたなら………彼らは、爆発する。
零れるか、溢れるか、ぎりぎりをさ迷う彼らの背後に。
ぴちゃり、と足音が響いた。
それが限界だった。彼らはもう堪えられず、一斉に振り返った。
………見た。
「う、うわあああああああっ!?」
「ひっ………?!」
もちろん、私も見た。
教室の奥、開いた掃除用具入れの前に立つ、一人の少女の姿を。
小学生くらいの背丈に見えた。
全身びしょ濡れで、俯いた顔に髪がべったりと貼り付いている。
あれは、まさか。
「………どうだ、風上時雨。思い出したか?お前たちが殺した者の顔を」
「………あれは、あんたが、蘇らせたの………?」
「あぁ」【悪魔】は得意げに頷いた。「死人とはいえこの世に未練も怨みもばっちりだ。呼び戻すのは簡単だぜ?」
にやにやと笑いながら見返してくる【悪魔】に、私は眉を寄せると、口を開く。
「本当に?」
「………二度目だな、くく、思ったよりも冷静だな?自らの罪を目の前にして」
【悪魔】は苦笑して、再び答える。「お察しの通りさ。あれは、偽物さ。俺がそう見せてるだけだ」
飄々と答える【悪魔】の言葉に、私は目を丸くした。
この復讐劇の出演者の中で、この場に居ない
まさか、あれは。
「………くーちゃん………?」
「………………」
少女の亡霊は、なにも言わない。ぴちゃり、ぴちゃりと、裸足のまま歩き始める。
「う、う、うわぁぁぁああ!!」
徐々に距離を詰める亡霊。目の前には開かないドア。最早、彼らの行く道は一つしかない。
叫び声をあげて、男子の一人が突っ込む。
あっと私は声をあげた。【悪魔】のチカラで姿かたちを変えたとしても、あの中身はくーちゃんだ。運動音痴で、喧嘩なんてとんでもない。
ただのいたいけな女の子だ。それに対して、男子は手近な椅子を掴み、振り上げている。
あれで殴られたら、くーちゃんは………。
ふと、私は閃いた。ある、最悪の可能性に。
「くーちゃんは………まさか、死ぬ気なんじゃ………?」
殴られれば、くーちゃんは死ぬ。そうすれば、彼らはただでは済まない。社会的に抹消されることになるだろう。
くーちゃんは、それを狙っているのか。自身の命をもって、イジメっ子たちに一矢報いようというのか。
それは、そんなのは………。
「くくく、はははははは」【悪魔】は突然、大きな笑い声をあげた。「お前は、本当に見る目がないな、風上時雨」
「………え?」
「あいつは、そんなお優しいやつじゃないよ」
「………え?」
戸惑いの声は、クラスメートの口からも同じようにこぼれ落ちた。
がちゃんという音を立てて、男子の手から椅子が落ちる。床に転がり、派手な音を立てる椅子の行方を、しかし誰もが注視しない。
彼らの目は、襲い掛かった男子の方に集中していた――風船みたいに頭が破裂した、男子の方に。
亡霊、くーちゃんは、ただ指を指しただけだ。迫る彼の頭へ、すっと人差し指を向けただけ。
「………………」
誰も、なにも言わなかった。目の前で一つの生命が終わりを告げたという事実に、認識が追い付いていないのだ。
亡霊は無言のまま歩を進める。ぴちゃり、ぴちゃりと濡れた足音が近付いて、男子を追い抜いた。
触れたのだろう、ぐらりと身体を傾げさせてその死体が揺れ、床に倒れた。
ぐちゃりという音と共に血に沈んだその身体を見て、漸く、クラスメートたちは悲鳴をあげた。
「わかったろ?風上時雨。やつは、坂上海月という女はな、目的のために誰かを殺すことをいとわないのさ」
阿鼻叫喚、叫び声が飛び交い赤い花が咲き乱れる教室で、【悪魔】が笑いながら私に告げた。
「………お前も、あいつを止めたいのなら、もう手段は一つしかないぜ?」
【悪魔】が笑う。その笑い声は、他の誰よりも甲高く響いた。
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