第1話-5
「なんで、あんたが………!?」
「あら、遅かったわね。ほら、早く座んなさい」
リビングの入り口で立ち尽くす私に、お母さんは不審そうに声をかけてきた。
その顔に浮かぶ疑問は、私に対してのもののみで、向かい合って座る見知らぬ人間に対する違和感は何一つ持ってはいなさそうだ。
彼が何者か、考えもしていないようだ。
もちろん、考えたところでお母さんはけして正解には辿り着くことはないだろうけど………。
少年の名は【悪魔】。私とくーちゃんの前に現れた、悪意の化身だ。
「ずいぶんな言い方だな」【悪魔】は当然のように私の心の声に反応した。「しかしそう思うなら、大人しくするべきじゃないか?悪意の塊がお前の家族の傍にいるんだからな」
「………………」
私は黙って席についた。せめてもの反抗に【悪魔】の顔を睨み付ける。
【悪魔】は肩をすくめた。
「なんだ?そう睨むな。それより、どうだ?願いは叶いそうだろう」
「ちょっ………!!」
私は慌てて【悪魔】の口を塞ぎにかかった。両手を伸ばすと、【悪魔】は嫌そうにそれを振り払う。
「なんだ一体。生憎だが、俺はお前みたいなガキに抱き付かれても嬉しくない」
「そういうことじゃないでしょ!?くーちゃんの話は、お母さんには………」
ドンという音と共に、騒ぐ私の前に茶碗が置かれた。山盛りの白米が湯気を立てている。
驚いて、私はお母さんの方を見た。
茶碗を置いたお母さんは自分の席に戻ると、不思議そうに私の視線を受け止めた。
「なによ、多かった?いつもこのくらいでしょ」
「あ、え、あれ?えっと………」
「何をどぎまぎして………あ」訳がわからないと言いたげなお母さんは、不意に何かに気が付いたようにニヤリと笑った。「な、る、ほ、どー。さてはあんた………」
「な、なに………?」
「久し振りにあった下山さんに緊張してんでしょう?」
空白が、私の意識に生まれた。
それまで考えていた全てが、その言葉で吹き飛んでしまったのだ。
いきなり現れた【悪魔】のことも、それをお母さんに内緒にしておく方法も、何もかもがことごとく消え失せる。
楽しげに、お母さんは一人でうんうんと何度も頷いている。
「そっかー、昔からあんたは、下山のお兄ちゃんに懐いてたからねぇ。ま、こんなイケメンになったならそれも仕方がないかなぁ、うふふ」
「お、お母さん………?何を、言って………?」
「お前はまだ俺の力を舐めているな、風上時雨。言っただろう?俺は他人に姿を見せることも見せないことも自由自在だ。誰の姿を見せようとも、自由自在なんだよ」
笑いながら、【悪魔】は唐揚げを口に運ぶ。お母さんはそれに疑問を持たないどころか、嬉しそうに眺めている。
なんだこれは。
いったい、何が起きている?
食事はつつがなく進んでいく。私一人を置き去りに。
「あぁ、食った食った。久し振りに飯を食ったなこれ」
「………結局、なにしに来たのよ………」
腹をぽんぽん叩きながら、【悪魔】は満足そうに呟いた。………お代わりまでしやがってこのやろう。
ため息をつく私は、どうにかよそわれた分を食べきっただけだ。普段ならもっと食べられるのだが、突然現れた【悪魔】が何を言い出すかと戦々恐々として、それどころではなかったのだ。
「そう心配する必要はないがな。お前の母親は、俺たちに不自然さを感じられない。というか、不自然でないように、見たもの聞いたものを自分で編集してしまうんだ」
「………夢でも見てるみたいに?」
「ま、そうだな。自分の記憶や経験を遡って、破綻しない
私は横目でお母さんの様子を窺う。テレビを見ている………振りをして、チラチラ私の方を見ている。口元には笑みが浮かんでいて、何か大きな勘違いをしているようだ。
私はため息をついて、【悪魔】に向き直った。お母さんへの詳しい説明は、また今度しよう――出来たとしたら、だけれど。
「下山のお兄ちゃんっていうのは、何よ」
「気にするな、悪ふざけだ。悪意だけで意味はない」
「最悪………」
私は渋面を浮かべる。嫌がらせにわざわざその名前を使うなんて、本当に最悪なやつだ。
「何だ、ようやく理解できたのか」私の拙い悪態などそよ風だと言いたげに、【悪魔】は肩を震わせる。「何しろ悪魔と名の付くものは、すべからく最悪と相場が決まっている。善意や慈悲など期待しても無駄だぞ?」
私はじっと【悪魔】の笑顔を睨み付け、やがて口を開いた。
「あんた、なにしに来たの?」
二度目の問いかけだ。【悪魔】は笑いながら、素直に答えた。
「何、考えをまとめておけと言いたかったのだ。何も考えていないと、いざそのときが来ると困ることになる」
「考えを?どういうこと?」
「願いを何にするか考えておけ、ということだ」
私の思考は
今晩だけで一体何度機能停止すれば気が済むのか、脳に客観的な声が響くが、仕方がない。予想外の不意打ちに直ぐに対応出来るほど、私の脳は回転が早くない。
別に私は勉強が出来ないわけでもないが、いや出来るっていうほどでもないけれど、それとこれとは話が別だ。
悪魔との契約なんて
願いって、どういうことだ。私は、悪魔に願うことなんて無いし、そのつもりもないのに。
【悪魔】は、声を立てて笑った。
「風上時雨、お前は勘違いをしている。いいか、悪魔との契約は願ったときに成立するんじゃあない。悪魔を喚んだ時点で成立するんだよ」
お母さんが【悪魔】の前に湯飲みを置く。湯気を立てるそれを慎重に持ち上げながら、【悪魔】は肩をすくめた。
「今回の場合、俺と出会い俺に名を知られた時点で、俺との契約は成立した。あとは、二つ願いを叶えてお仕舞いさ、俺もお前もな」
「そんな、そんなの、押し売りみたいなものじゃない!!」
「くく、そうだな。そのくらいわかっていると思っていたぞ?何せ悪魔だ。関わるだけで、そいつも最早最悪なんだよ」
私は、目の前が真っ暗になった気がしてきた。頭から血の気が引き、視界が白黒に明滅する。正に、お先真っ暗だ。
契約は為されている、と【悪魔】は言った。あとは願いを叶えるだけだとも。
二つ。あとたった二つの夢を叶えるだけで、私の人生は終わる。或いは、些細な願いを曲解されればそれより早く。
例えば、朝目覚ましが鳴る。あと五分寝ていたいと思ってしまったら、それを【悪魔】に知られたら、それが一つの願いとなる可能性は極めて高い。
突然示された、人生の終わり。その重みに私の意識は沈み、お母さんの声が、テレビの音が遠くなる。代わりにハハハと、【悪魔】の愉快そうな笑い声が響いていた。
いつの間にか、【悪魔】はその姿を消していた。歩いて立ち去ったのか魔法で瞬間移動でもしたのか、それとも私の目に見えていないだけでまだそこにいるのかはわからないが。
いずれにしろ、本当に気が付いたらいなかった。
茫然自失、という言葉を私は初めて実感していた。周りの全てが全く感じ取れないほど、私の意識は深い闇に落とされていた。
『契約は為されている、あとは二つ願いを叶えてお仕舞いさ、俺も、お前もな』
【悪魔】の言葉が含み笑いと共に再生され、私の両肩にずっしりとのし掛かった。
お仕舞い………これほど明確に、自分の終わりを意識したことはない。相手は【悪魔】だ、お仕舞いといったらおしまいである。
慈悲の欠片もなく、躊躇いの真似もなく。親が子供にするように、パンと手を打ちはいおしまい。
おしまい。
たったの四文字で、私は死ぬ。
………嫌だ。まだ私は、十四年さえ生きていない。部活はようやく部長になって、これから皆で新入生を教えていこうと笑っていたばかり。将来何に成りたいかなんて考えもしてないし、恋愛だってアイドルへの憧れ以上にはまだ経験ない。
まだまだ、未来なんて遠い言葉で、希望に胸を膨らませる暇さえ無かった。
それなのに。
私の未来は唐突に、本当にいきなり閉ざされてしまったのだ。
「………………………」
死にたくない、とは言えない――願うわけにはいかないのだ。
それが、私を殺すのだから。
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