第1話-4
『本当に、大丈夫かな………』
電話の向こうから聞こえる声に、私は内心で肩を落とした。
くーちゃんが、ほんの少しでも期待しているという事実に、落胆を禁じ得なかった。
あのあと、私たちは直ぐに解放された。身を翻した【悪魔】は瞬きする間に姿を消す、なんていうことはなく、普通に私たちとは反対方向へと歩いて帰っていった。どこへ帰るのか気にはなったが、確かめる勇気も根気も私にはなかった。
そして、くーちゃんは。
『うまくいくのかなぁ、あんな方法で』
ため息とともに紡がれた言葉に、私は今度こそ嘆息した。
【悪魔】は、ただ帰ったわけではない。私たちに、一つの『置き土産』をしていったのだ。
契約通りに差し出した、一つの復讐手段を。
「………………………」
くーちゃんは、それに夢中だった。帰り道、教えられた手順をひたすら口の中でぶつぶつと暗唱し、その内容を精査していた。
………一緒に歩く私のことなど、忘れてしまったかのように。
そもそも後ろめたい気持ちもあった私は、何を言うことも出来なかっただろうけれど、友人のそうした態度は少し寂しく、圧倒的に哀しかった。友情が憎悪に押し潰されてしまったように感じて、とても哀しかったのだ。
まあ、家に着くのとほとんど同時くらいにスマホが鳴り、くーちゃんは私への謝罪を伝えてきたのだが。
それ以降三十分以上、彼女は【悪魔】の計画について話しているだけだった。
通話は無料とはいえ、結構辛かった。ただ話を聞くならともかく、私はそれに賛成も反対も出来ないのだから。
「………大丈夫じゃないかな、だって、【悪魔】の立てた計画でしょ?失敗なんてしないよ、それに、失敗したら慰謝料が貰えるかもよ?」
『あはは、しーちゃんったら!』
笑うくーちゃんとは違って、私は本気だった。
彼女の復讐は最早止められない。既に【悪魔】と契約を結んでしまった以上、今さら止めてもただくーちゃんが死ぬだけだ。
かといって放置しても、契約の成就でこれまた彼女は死ぬ。
残る希望はただ一つ。【悪魔】に何か手違いがあり、契約が不履行に終わることだ。
慰謝料としてくーちゃんの魂を諦めてもらうことだけなのだ。
「まあ、【悪魔】なんだから、なんとかなるんでしょうけどね」
とはいえ、それを口には出せなかった。
くーちゃんは復讐のために命を捧げている。それはつまり、そうしなければならないほどに彼女が追い詰められているということだ。
【悪魔】に魂を差し出して復讐してから死ぬ方が、このまま死ぬよりましだと思うくらいには、追い詰められているということだ。
私はそっと唇を噛んだ。私が手を放したせいで、くーちゃんは坂の遥か下に転がり落ちてしまっている。あと、私にできることは祈ることだけだ。
どうか、手遅れであってくれるなと、祈ることだけだ。
『………そういえば、しーちゃんと話すの、久し振りだよね』
「っ!!」
ひとしきり笑ったあとで、くーちゃんはぽつりと呟いた。
それは、私にとってはナイフと同じだ。脇腹から差し込まれる、抉り穿つ言刃。
『メッセージも返してくれなかったし、避けられてるみたいだったから、電話も出来なかったし。………家に行こうとも思ったけど、迷惑かなって』
胸が痛い。
一言一言が、鈍く私を貫いていく。いっそもっと鋭ければ、私は楽になれたろうに。
『学校では、私、誰とも話できなかったから。休み時間はずっと、教室で叩かれたり正座させられたりしてたし』
それは、優しさだった。私を傷付けないよう気を使って丸くしたくーちゃんの刃は、鈍く鈍く私に突き刺さる。
止めてとは、言えなかった。
くーちゃんの気持ちはよくわかった。
私は、くーちゃんの希望だったのだ。幼い頃からいつでも自分を助け、傍らに在って、支えてくれる友人として、彼女は私を信じていた。崇拝していた。
それが裏切られたとき、どれだけ彼女は絶望したのだろうか。
『でも、わかるよ、しょうがないもん。私と話なんかしたら、しーちゃんまで虐められちゃうもん』
絶望は、怒りは、恨みは、坂上海月の中に澱のように積み重なっていった。誰に伝えることも出来ずに沈められ、凝り固まっていったのだ。
それが今、吐き出されている。小さなスマホは
逃れようとするように、或いは誰かを引きずり込もうというように、穴から手を伸ばして叫んでいる。
もう、その手は私の喉に届く。届いたら、彼女はそれを放しはしない。
『………寂しかった』
声は、死ねと聞こえた。
『苦しかった、辛かった』
錯覚かもしれない。だが、言われても仕方のないことを、私は、してしまった。
『誰もいないって思った。しーちゃんまで裏切ったなら、もう誰もいないって』
そうだ、もういない。坂上海月の友人だった風上時雨は、自分の意思でその立場を捨てたのだ。
なら。
坂上海月もまた、風上時雨の友人では最早ない。
『………それでも』
あぁ、それでも。
『私、わた、しは………』
声には涙が混じっていた。嗚咽が言葉を遮り、言刃を錆びさせる。
『私は………また、しーちゃん、と………っ、友達に、戻りたかった………!』
それきり、坂上海月はコトバを無くし、ただただ泣き続ける。
私は、片手でスマホを耳に当てながら、自分の右手に目をやった。
開いたその手を見ながら、自分に尋ねる。――私は、彼女の手を掴む資格を持っているのだろうかと。
『………しーちゃん………』
「私も」
答えは出ない。けれど。
もう私は、くーちゃんを見捨てたくはない。
「戻りたい、戻りたい。………もう一度、私と友達になってくれる?私を………赦してくれる?」
『しーちゃんっ!!』
電話の向こうからは、暫くの間泣き声だけが響いていた。
そろそろお母さんが帰ってくるからと、やがてくーちゃんは言った。
『明日、早いから、今日はもう………』
「うん………」
正直に言えば、話し足りなかった。もっと色々な話をしたかった。くーちゃんが話せなかった全てを、聞いてあげたかった。
けれど、迷惑は掛けられない。くーちゃんの母親は、我が子が遅くまで電話することを喜ぶ親ではない――そして、苛立ちを穏便な手段で表せる人間でもない。
足りない、けれど。
「また明日ね」
今の私は、そう言える。
今のくーちゃんは、答えられる。
『………うん、また、明日………!』
約束が出来る。その根幹である信頼を、互いに取り戻すことが出来たから。
『あ、しーちゃん』
「ん、なぁに?」
『………ありがとう』
小さな言葉と共に、通話は切れた。
私はスマホを耳に当てたまま、しばらくその余韻に浸る。
ようやく、こうすることができた。
「………うふふ」
私は、小さく笑い声を漏らす。
その時。
「………あんた、何一人で笑ってるの?」
「ひゃあああ?!」
慌てて振り返る。
そして、ドアにもたれるようにして立っていた人に、私は恥ずかしさと怒りとが混じりあった声を投げる。
「お、お母さん!勝手に入らないでよ!!」
「ノックしたわよ、あんたが気が付かなかっただけでしょ」
肩をすくめるお母さんに、私の内心は怒りが勝った。
「だからって!ここ私の部屋だよ!?電話してたんだから、盗み聞きみたいなことしないでよ!!」
「したくてした訳じゃないわよ。ていうか、ほとんど聞こえなかったし」
悪びれもしないでぬけぬけと言うと、お母さんは表情を変えた。「それよりも。誰と電話してたのよ?ずいぶんと長かったけど………まさか、彼氏でも出来たの?」
「ばっ!!バカじゃないの?!」
「なんだ、まだなの?」真っ赤になった私に、お母さんは呆れたというようにため息をついた。「お母さんなんてモテてたからね、中学の頃なんて相手いなかったことないわよ?」
「うるさい、うるさい!!早く出てってよ!!」
「はいはい。あんたも早く来なさい、夕御飯よ」
そう言ってあっさり出ていったドアを見ながら、私の内心は怒りがすっかり恥ずかしさに埋められていた。
………それが落ち着くまでに、五分くらいかかった。
「………まったくもう」
ぶつぶつ言いながら、私は階段を下りる。
ようやく落ち着いた………同時に、さっきのくーちゃんとの会話も冷静に振り返れるようになった。
私はため息をついた。興奮は消え、あれほど苦しかった胸の痛みも消えている。
現金なものだ――喉元過ぎればなんとやら、所詮あの程度の痛みなんて、直ぐに消えてしまうのだ。
「………くーちゃんは、もっと苦しんだろうな………」
だからといって、私にはこれ以上苦しむ種は無かった。せめてこれからは、くーちゃんを苦しめないよう心を配るだけだ。
「明日はともかく、今度、一緒に学校に行こうかな………ん?」
一階の廊下に降りてすぐ、私は足を止めた。
廊下の先には、明かりの漏れるリビングのドア。
それに、違和感があった。
もちろん明かりは点いていて然るべきだ。もう夜だし、真っ暗だったら逆に怖い。
そうではなく、視覚ではなく聴覚に、その異常は訴えてきた。
話し声が、聞こえる。
一人はお母さん。だが、もう一人がわからない。どうやら男の人らしいが、お父さんより遥かに若々しい声だ。
私は、リビングのドアの前で思わず足を止めていた。
お母さんの声は明るくはしゃいでいる。正直なお母さんは、親しんだ相手でなければこれほど明るくは話さない。
だが、その相手は誰だ。
こんな若い男の声を、今まで私は聞いたことがなかった。それも夕飯の食卓で、お母さんが親しげに話す相手なんて、想像さえ出来なかった。
まさか、と頭から血の気が引く。さっきの話じゃあないが、彼氏とか言い出すんじゃないだろうな。
しかしすぐ、冷静な声が心に響いた。
こんな堂々とした浮気があるか。それに、相手の声はどう聞いても自分と同じような中学生か、せいぜい高校生だ。
………高校生の、男子。
「っ!?」
今日出会った人物の顔が、あの邪悪な笑顔が頭に浮かんだ。まさか、だが、この声は。
気付いたら、私はドアを開け放ち、リビングに勢いよく踏み込んでいた。
驚いて目を丸くするお母さんを見て、そして、その向かいに座る人物を見て、私は息を呑んだ。
「………やあ、遅かったな、風上時雨?」
「………【悪魔】っ!!」
唐揚げをフォークで指しながら、【悪魔】はニヤリと笑った。
邪悪な笑顔だった。
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