第1話-2

「しーちゃん………?」

「くーちゃん………」

 驚いたように名前を呼ぶ彼女に、私は呆然と声をかけた。今日、今の今まで躊躇っていた筈の声を、いとも簡単に。

 くーちゃんこと坂上海月さかがみくらげは眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、それと同じくらい丸く口を開けていた。

「え?あ、あれ?今、ここにいたの………?」

「あ、あー、えっと………」

 私としても、同じ質問をしたいところである。後ろを歩いていたはずなのに、どうして貴女が後ろから現れるのと。

 しかし、私は尋ねることはなかった。多分、答えはお互いに持っていない。持っているとしたら、私の隣でガードレールに腰掛けている【悪魔】くらいだろう。

 私は、視線を横に向けた。その動きに促されるように、くーちゃんも私の隣に目を向けた。

「………?」

「あ、えっとね、くーちゃん」不思議そうに首を傾げるくーちゃんを見て、私は慌てて口を開いた。「この人は、その………」

 言い掛けて、私は言葉を無くす。この少年を紹介する言葉が見当たらない――最初から持ち合わせていなかったのだ。

 私は何も、持っていない。

 ため息をつきながら肩を落とす私に、くーちゃんはしかし、もっと不思議なことを尋ねてきた。

「………この人って?」

「え?あ、だから、その………」

 答えに詰まる私に対して追い打つように、まあ実際くーちゃんがそんなことをするわけないから気のせいだろうけれど、とにかく畳み掛けるように彼女は私に爆弾を投げ付けてきた。

「………?」



「………そりゃそうだろ、風上時雨。俺は【悪魔】だぜ、無関係なやつにホイホイ姿は見せない」

 くーちゃんの言葉が私の耳に入り、その意味が浸透するまでの間に、【悪魔】はそんなふざけたことを言い出した。

「まあ、半分はデモンストレーションだがな。俺が【悪魔】だと信じられないようだから、ちょっと見せてやっただけだ。………どれ」

 【悪魔】が指を鳴らす。それが何かの切っ掛けになったのか、くーちゃんは飛び上がらんばかりに驚いた。

「………え?!あ、あれ?人が………?」

「どうだ、見えるようにしてやったのだ。これで俺が【悪魔】だと信じただろ?」

「………【悪魔】………?」

「そうだ、坂上海月。それが俺だ」

「え?どうして、私の名前………」

 私の時と同じように、【悪魔】はくーちゃんの名前を呼んだ。あだ名でしか呼びあっていない私たちの名前を、まるで以前から知っていたかのように気安く。

 私は言葉もなく息を呑んだ。

 確かに何か、不思議なことが起きているようである。だが、それが【悪魔】の仕業だとは信じられなかった。

 常識が現実の理解を邪魔している。他に説明のつく答えはないというのに、非科学的だという理由だけで、答えはそれだと断言できない。

「まあ、信じる信じないはお前たち次第さ。好きにすればいい。俺は単に、お前たちの【願い】を叶えてその代償を貰うだけだ」

「代償って………」

「魂だよ」【悪魔】は肩をすくめた。「何だよ、最近のガキならそういうの好きだろ。願いを叶えてやるから魂を寄越せ、ってのはな」

 確かに漫画やアニメ、映画のなかではよくある話だろう。突然現れた悪魔に願いを叶えてもらい、代償として自分の魂を支払うなんていうのは使い古された話だ。

 だが、それはあくまでも空想フィクションの話だ。現実にいきなり悪魔が現れて契約を迫るなんて話は、現実には起こり得ない。

 【悪魔】はケラケラと笑う。

、というのは確かにあり得ないぜ?いつだって、どこだって、悪魔おれたちを呼ぶのは人間おまえたちだろ。………俺たちは親切にも、お前らに手を差しのべてやってるだけだぜ?」

 なるほど言われてみればそうかもしれない。悪魔を召喚するのは願いを持った人間だ。悪魔は求められ、答えるだけなのかもしれない。

 ならば人間は、悪魔に感謝するべきだろう――それが真実、ただの親切心から行われているのなら。

 どんなフィクションの悪魔だって、そんなやつはいない。悪魔は人間の絶望を好み、常に裏切りの機会を探っている。彼らは優しく背中を押してくれるだろう。その先に破滅しか待っていなくても。

 それを知っていて背中を押されるのは、ただのバカか余程のバカだ。そして私は、そんなバカではない。

「悪いけれど、私は」

「私は………」

 私の言葉を遮るように、くーちゃんが口を開く。私は、弾かれたようにくーちゃんへと向き直った。

 彼女はうつむいていた。私からも、そして【悪魔】からも逃げるように。

 何故、逃げるのか。私は、嫌な予感が這い上がってくるのを感じた。爪先からスカート、背骨をなぞって首筋に。

 その予感の正体を知るよりも早く、くーちゃんが顔を上げた。そして、絞り出すように唱えた。

「叶えて、欲しいです………!」

 漫画の中の、愚かな魔術師のように。



「くーちゃん、ダメだよ!」

 私は慌てて友達を制止した。

 悪魔との契約なんて真似をして、無事で済むはずがない。悪魔はただただ、人の破滅を夢見ているのだから。

「危なすぎるよ、魂取られるんだよ?」

 たとえ願いが叶っても、そのあと死ぬのなら意味はないではないか。くーちゃんが何を願うのか知らないが、命と引き換えにするような願いなんてあるものか。

「………本当に?」

「当たり前でしょ!」【悪魔】の問い掛けに、私は思わず叫び声をあげた。「願いっていうのは、未来に向けてするものでしょ、その未来が死なら、願いだって意味はないじゃない!」

 私の心は、怒りに燃えていた。大切な友人が詐欺師に騙され掛けていて、命より大事なものどころかそれそのものを奪われようとしているのだから。

 だが【悪魔】は、何故か首を振った。

「そうじゃない。俺が聞きたかったのはな、風上時雨。?」

「………っ!!」

 冷水をぶっかけられたように、私の心は一気に沈静化していった。私は悔しさに唇を噛む。

 そう、私は確かに、くーちゃんの願いを知らない。だが、。むしろ、かなりの確率で当たるであろう予想をたてることができた。

 何故なら。

「お前は知っているはずだな、風上時雨。………

「それはっ!!………それ、は………」

 くーちゃんの視線を、私は頬に感じた。私は、逃げるように下を向いた。

「………坂上海月。お前の願いは、恐らくそれだろう??」

 うつ向いたまま、私は目を閉じる。できることなら耳も閉じたかったが、できなかった。

 見たくなかった。【悪魔】に頷く彼女の目を。

 聞きたくなかった。【悪魔】に願う彼女の声を。

 そこまで追い詰められてしまった大事な友達が、薄汚れた復讐鬼になるのを。

 私は、心のなかで叫んだ。どうか、私の友達を助けてくださいと。私が掴めなかった手を掴み、引っ張り上げてくださいと。

「………承知した」

 それに答えるように、【悪魔】が一つ頷いた。厳かに、それでいて楽しそうに。

 新しい玩具を手に入れた、子供のように。

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