第三話 視線の先に


 夢の中で私は姉をひたすら探していた。一度家に戻ってみたが姉は帰っていなかった。近くの河原にも林にも見当たらない。途方に暮れているとどこからともなく声がした。

「椿さんとおっしゃるのですね。とても良い名前だ。」

聞き覚えのある声だった。

「私は嫌いです。椿の花は首から落ちるので縁起が悪いといいます。」

「いいえ、椿は生命力が強く、昔から春の訪れを告げる木だと言われています。素敵じゃないですか。」

周りを見回したが声の主の姿は見つからない。しかし私はこの二人を知っている。

「春がお好きなのですか?」

「ええ。母も春が好きで私に春という名をくれました。」

「私の名前とお揃いですね。何だか自分の名前が好きになれそうです。」

そんな微笑ましい話し声はやがて空気に溶け、視界は眩しい光でいっぱいになった。

気がつくと窓から差し込む光が部屋の中を満たしていた。あの夢に出てきたのは誰だったのだろう。声の主を私は知っている。そう確信があった。しかし夢から覚めてみると切なさしか胸に残っていなかった。

カッシャーン。皿が割れた音で我に返った。

「何やってるんだよ。朝は花瓶を倒したり、壺を割ったり、今度は皿が。」

夕食後、食堂に残ってるのは私と秋人の二人だけだった。

「…すみません。すぐ片付けます。」

「あーもう、危ないからどいてろ。」

破片に手を伸ばそうとしていると、秋人さんが私を押し退けるようにして皿の破片を拾っていた。いつもと違う秋人に戸惑ったが嬉しかった。

「やっぱりさ、あんたこの仕事向いてないんじゃないの?早く辞めた方がいいよ。あんたが居なくなっても何も困らないから。」

そういうことか。秋人の行動は優しさではなかった。

「すみません。次からは気をつけますから。」

秋人は溜息を吐いて椅子に腰掛けた。

「そうやってすぐ謝るところも気に入らない。兄さんは何であんたみたいなおっちょこちょいを…一体どこで出会ったんだ。」

どうやら私が雇われた経緯を知らないようだ。

「春太郎さんとはあまり話をされないのですか?私が屋敷で倒れているところを春太郎さんが見つけて下さったのです。父の借金もあり、前の仕事場より高い賃金で雇って下さったのです。」

「へぇ、あの女と同じだ。」

秋人さんは台に肘をつき、頭を抱えながら私を見据えた。

「似てると思ってたけど、雇われる経緯まで同じなんてな。兄さんは何を考えついるんだか。」

「もしかすると前の使用人の方でしょうか?」

すると秋人は驚いたように目を見張った。

「何で知っているんだ。」

「雪彦さんにも同じことを言われました。」

「そいつのこと、どこまで聞いた?」

秋人の瞳は真剣そのものだった。

「居なくなったとしか伺っていません。辞めてしまったんですよね?」

秋人さんは私から目を逸らすと、落ち着きを取り戻したように言った。

「…そう、辞めたんだ。あんたみたいに失敗ばかりしていたからな。」

またいつもの皮肉だ。そう思ったが、秋人さんの手は震えていた。

「失敗ばかりだというが、半分はお前のせいだろ?」

カダッ。秋人は動揺したように椅子から立ち上がった。扉の前に立っている春太郎の存在にたった今気がついた。一体いつから話を聞いていたのだろうか。

「万年筆を失くしてしまってね。百合子さんどこかで見かけませんでしたか?」

「見ませんでしたが、探してみます。」

「ありがとう。ほら、こんなにも気配りのできる使用人さんじゃないか。花瓶を倒すためにわざとテーブルクロスを引っ張ったり、壺の位置を落ちやすいところに置きかえたり。皿は彼女の不注意のようだけれど、どうしてそこまで辞めさせたいのか僕にはわからないよ。」

春太郎さんの言葉に唖然とした。

「それも今日だけじゃない。今までの彼女の失敗は殆ど秋人が仕組んだものだ。」

秋人さんの顔は真っ青だった。

「兄さん悪かった。体調が悪いから説教はまた今度にしてくれ。」

そう言い残すと足早に食堂から出て行った。今までの失敗が秋人の仕業であると考えると少し胸が痛んだ。初めて顔を合わせた時から好かれていないのは分かっていた。女嫌いと聞いたが、前の使用人に対してはどのようだったのか。考え出すと止まらなかった。『あんたが居なくても何も困らないから。』ふと秋人さんに言われた言葉を思い出すと目頭がじわりと熱くなった。

「私、辞めさせていただきますね。」

「借金はどうするのですか?」

「これから考えます。」

嘘をついた。誰からも必要とされていない。父にも母にも先立たれ、姉も私の前から消えてしまった。苦しいとき何度も死にたいと思った。しかし姉が帰ってくるかもしれないという僅かな希望を信じて今まで一人で何とか生きてこれた。だがここに来てやはり私も一人だと気付かされた。私が消えても誰も探してはくれないし誰も困る人はいないのだと。それなら一層死んでしまった方が楽だと思っていた。

「辞められてしまっては困ります。」

「代わりなら沢山居るでしょう?」

「いえ、あなたでなくてはだめなんです。」

今一番欲しい言葉であるはずなのに、少し恐ろしく感じた。

「すみません。考えさせて下さい。」

後ろめたい気持ちを抑え、春太郎さんの瞳をしっかりと見つめたが、その目は違う誰かを見ているようだった。



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