第二話 居場所
屋敷で働く使用人としての仕事に不満な条件は一つもなかった。労働賃金は工場と比べ物にならないほどで、仕事内容も殆ど家事一般であり、驚くほど楽である。
春太郎の家族は両親が既に亡くなっているため、彼と弟が二人だけであった。
次男の秋人はどうやら私が好きではないようだ。私より歳が一つ上の十九歳だと聞いていたので勝手に親近感を抱いていたが、秋人さんは私を見るなりとても機嫌の悪そうな顔をしたのだった。
それに比べて三男の雪彦さんは人懐っこく、すぐに仲良くなった。
「秋兄は女の人が苦手だから。」
五つ年下に慰められるとは思いもしなかった。しかし仲良くなれるといいなと一瞬でもそんなことを思った自分がとても不思議だった。今までは心の余裕がなかったせいか、他人に興味を抱くことがなかったからだ。
屋敷で働きだして、一週間が経った夜、ずっと昔の夢を見た。
「見つけた!」
「椿お姉ちゃんとかくれんぼをするとすぐに見つかっちゃかう。」
私は悔しさで胸がいっぱいだった。
「じゃあ次は百合子が私を見つける番ね。」
私は姉を中々見つけられなかった。日が暮れて近所の子供たちが家に帰る頃になっても姉は見つけることができなかった。
チュンチュンと鳥がさえずる声で目が覚めた。ふと掛け時計に目をやると、とっくに仕事開始時刻を過ぎていた。いつもは夢も見ず死んだように眠っており、身体は機械のように起きていたのに、四十分以上も寝過ごすなんて今までになかったことだ。早く仕度をしなければ、クビにされてしまうかもしれない。そう考えると、怖くてたまらなかった。
食堂へ行くと、既に兄弟は食卓を囲んでいた。
「すみません。寝過ごしてしまって…。」
深々と頭を下げ、謝ることしかできなかった。すると私が予想していた言葉が上から突き刺さった。
「仕事もろくに出来ないのならやめてしまえ。」
声の主は秋人だった。言われて当たり前だと思うと同時に、また嫌われてしまったと落胆している自分が居た。
「いや、まだ働き始めてから日も浅いことだし、疲れているのでしょう。仕方がないよ。」
優しく諭したのは春太郎だった。どうしてこの人はこんなにも優しくしてくれるのだろう。有難いが不思議で仕方が無かった。
「学校行ってくる。」
秋人はすっかり勢いをなくし、部屋から出て行った。
「本当にすみませんでした。二度とこのようなことがないよう気をつけます。」
気まずい沈黙をどうにかしてくて、もう一度頭を下げた。
「大丈夫ですよ。秋人の言ったことなど気にしないで下さい。あ、後片付けお願いします。」
そう言い、静かに部屋を出て行った。
「秋兄はただ 貴方を辞めさせたいだけだから。」
無邪気な雪彦の言葉に不信感を抱いたのはこの時が初めてだった。
「何でもない。学校行ってきます。」
ギンギンと照らしていた日も暮れ、虫の声が寂しそうに響きだした。春太郎は小説家らしく、一日中作業をしているので部屋から出てこない。秋人も雪彦もまだ学校から帰ってくる時間ではなかったし、頼まれた仕事も殆ど終わらせていたので、暇を持て余していた。工場で働いている時は一日中動き回っていたので、何かやらないと気が済まない。夕食まで随分と時間があるので、少し屋敷の周りを探索してみることにした。
実を言うと、この屋敷に来てから、まだ知らない場所が沢山ある。春太郎からは特に立ち入りを禁じられている場所はないが、屋敷の中を探索するのは少し気が引けた。
屋敷の裏に回ってみると、縦横二メートル、高さ一メートルくらいの石の囲いの中から髪の毛のようなものが垂れ下がっているのを見つけた。近づいてみると小さな花をつけた植物のようだが、枯れ果てていて何の花かわからなかった。もしかしてこの植物に水をやるのは私の仕事だったのだろうか。またしても解雇の二文字が頭をよぎった。どうすればよいかと花壇の中をじっと見つめていると不意に背後から声をかけられた。
「何してるの?」
振り返ると真剣な表情をした雪彦さんが立っていた。
「すみません。花の世話まで気が付きませんでした。」
「大丈夫だよ。その花、前の使用人が勝手に花壇作って世話してたんだ。」
「私の前にも誰かいらしたんですか?」
「うん。でも、居なくなっちゃった。」
「辞めてしまったということですか?」
そう尋ねると雪彦は少し寂しげな表情を浮かべ、花壇に近寄った。
「これ何の花だと思う?」
茶色い残骸は何の花か、とても判別し難かった。
「何の花なんでしょうか?」
「モッコウバラだよ。せっかく咲いたのに可哀想だ。」
哀れむような調子とは裏腹に目は笑っていた。
「もしかしてこの花、植えかえましたか?」土がボコボコしていて、掘り返したような跡が目に付いた。
「僕が管理してたわけじゃないから知らないよ。それより百合子さんはあの使用人に似ている。」
「モッコウバラを植えた方ですか?一体どの辺が?」
「失敗したらすぐ頭下げるところとか。やたら解雇に怯えるところとか。」
心を覗かれたようでどきりとした。
「そんな心配しなくてもいいよ。
クビにしようとする人は一人しか居ないから。」
夏の風が木々を揺らし言葉がよく聞き取れなかった。
「ねぇ、お腹すいたから、少し早いけど夕食にしない?」
尋ねたい事は山程あったが、どうしても聞いてはいけないような気がした。
「分かりました。すぐ準備しますね。」
吹き去って行く風が少し冷たく感じた。
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