第27話 更なる高みへ

 エルカが帰還してから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。途絶えていたトードーのガーマ王子との縁談も再び浮上し、その日が近付いてくる。ガーマは凱旋パレードがあった翌々日にフロッグに訪問し、エルカとの感動の再会を果たした。もちろん、感動していたのはガーマだけだったという事は言うまでもない。

 エルカは毎日のように、ヤドックと共に地下室に籠もっていた。それも何時間もだ。二人の姿が見えなくなる時間帯が多いことに、城の者達は不思議に思ってはいたが、食事の際には時間通りに現れるので、特に追求するような事はしなかった。

 エルカとヤドックの組み手は、もはや組み手とは言えないほど凄まじいもので、その衝撃の強さは地上にまで及んでいる。国民達は、最近地震が増えたな程度にしか思っていない。この国の姫と大臣が地下で殴り合いをしているなどとは、想像できるはずもないのだ。


「だりゃああー!!」


「むんっ!」


 その地震は、この日も朝から起こっていた。エルカの全力のストレートを、ヤドックは真正面から受け止める。エルカの戦いぶりは鬼気迫るもので、端から見ればヤドックを殺そうとしているようにも見えるだろう。邪魔なヤドックを殺し、再び魔界に戻るために。しかしエルカに殺意は無い事は、実際に拳を合わせているヤドックが一番よく分かっている。殺意とは別の、何か強い意志があることは感じているが。


「姫様、この辺で終わりにしておきましょう。今日は二時からご公務があったはずです。そんな大汗をかいたお体で、人前に出るわけにもいきますまい」


「ハア…………ハア…………ちっ」


 舌打ちしながらも、渋々従うエルカ。ヤドックの言う通り、全身汗だくだ。タオルで汗を拭い、水を貪るようにガブ飲みする。一方ヤドックは汗一つかかず、息一つ切らさず、涼しい顔をしていた。これが今の二人の力の差だ。だが今のエルカにとって重要なのは、ヤドックを超えることではない。


「ねえ、ヤドック」


「はい、何でしょう」


「私、明日魔界に帰るわ」


「……」


 特に悪びれもなく、さも当然のように言った。ヤドックは、エルカの脱走は常に警戒していたが、まさかこんな堂々と切り出してくるとは予想外だった。しかしヤドックはあくまで冷静に受け答える。


「それで私が、行ってらっしゃいませ姫様などと、素直に見送るとはお思いではないでしょう?」


「思ってるから言ったのよ」


「……まあ、聞きましょうか」


 懐柔されるつもりなどないが、説得させるための何かしらの材料をエルカは持っている。とりあえず話だけでも、ヤドックは聞いてみることにした。


「前にも少し言ったと思うけど、もうすぐ魔界で武闘大会が開かれるわ。もうすぐっていうか、明後日なんだけど」


「ふむ。おっしゃってましたな」


「もう既にエントリーは済ませてるわ。そのために、何をしたと思う? 魂の分身を預けたの。私だけでなく、チームメイトの他の四人もね。このまま私が戻らなければ、不戦敗になるわね」


「すると、どうなるのです?」


「死、もしくは優勝者への絶対の服従。このまま知らんぷりして人間界に引き籠もっても、優勝者が私の魂の分身を破壊したら、私も当然死ぬわ。いつ死ぬか分からない恐怖を、私は一生抱え込むことになるわね」


「……」


「そして、私の大切な仲間達も同様。その中にはタオも含まれているわ。仲間達を死なせないためにも、私はこんな所にいる場合じゃないのよ」


「……むぅ」


 ヤドックは噓を見破るのが得意だ。ましてや、長年見てきたエルカに関しては、目線や仕草、態度、喋り方などを観察すれば、噓はすぐに分かる。

 このまま不戦敗になったところで、優勝者に敗者の魂に手を出す権利はないので、人間界にいるエルカにまで何らかの被害が及ぶことはまず考えられない。チームメイトにも、別にそこまで言うほどは仲間意識は持っていない。

 しかし、重要な点は全て真実だ。こうなると、どこまでが本当でどこまでが噓なのかが、ヤドックには確証が持てない。どうせ人間界にいたくないから、魔界に戻りたいだけ…………そんなことはヤドックも分かっているが、頭ごなしに全てを噓と決めつけて、万が一の事があったらそれこそ最悪だ。エルカの平穏は、その武術大会で優勝する以外に方法は無い……そう考えるしかない。


「……仕方ありませんな。ですが、私も同行させてもらいますぞ。その大会が終わり次第、フロッグに戻ってきていただきます。そして、もう二度と魔界に行くことはなりません。約束していただけますかな?」


「流石ヤドック、物分かりがいいわね。ええ、もちろんよ。約束する」


 わけねーだろ。そう心の中で付け足しておいた。


(トーナメントでの戦いの中でヤドックより強くなって、今度こそ魔界から追い出してやるわ。それが無理だったら、隙を見て逃げ出して、ヤドックの目の届かない場所に行方をくらましてやる。とにかく、魔界にさえ戻れればこっちのもんよ)


 ヤドックという最大の問題をクリアしたエルカは、明後日から始まるサウザンドトーナメントに胸を躍らせた。この一ヶ月…………憂さ晴らしのためだけに、ヤドックと組み手をしていたわけではない。スパーダを倒すため……そして優勝するためだ。

 一度は不覚にもフロッグに連れ戻されたが、この一ヶ月は決して無駄ではなかった。自分自身の成長に、エルカは確かな手応えを感じていた。



 *



「エルカ、忘れ物はない? 大丈夫?」


「ええ、大丈夫よお母様。それにヤドックも一緒ですし、心配ありませんわ」


 心配そうなアルマに、エルカは魔界では決して見せない笑顔を返す。魔王の手から戻ってきたばかりの娘だ。どこへ行くにも、心配するのは無理もない。


「それにしても、びっくりしたぞエルカよ。突然世界旅行したいなどと言い出すもんだから」


 エルカはノットに顔を向ける。


「トードーに嫁いだら、もうなかなかこんな機会はなくなってしまうでしょうから。今までもう一人の父のように私を育ててくれた、ヤドックとも最後の思い出を作りたいの。ワガママ言ってごめんなさい、お父様」


「何を言うか。お前にはいくらでもワガママを言う権利がある。せっかくだから、余計なことは気にせず、思いっきり楽しんできなさい」


 ノットは、目に入れても痛くない娘の頬に口付けをした。アルマも、少しの間の別れを惜しむように、エルカを軽く抱き寄せた。エルカがこれを生涯の別れにするつもりだとは、ノットもアルマも夢にも思わない。


「エルカを頼んだぞ。ヤドックよ」


「かしこまりました。では、行って参ります」


 待機していた馬車に乗り込むと、城門が開いた。馬車はそのまま港町へと走り出す。町中を走り抜ける馬車にエルカが乗っていることは、民達は知らない。無用な心配をかけないための、ノットの配慮だ。エルカの旅行は、城の内部でも一部の者しか知らない。

 数時間後、馬車は港町に到着し、エルカとヤドックは人気の無い場所に降りた。すぐ近くに、ヤドックが魔界に行く時に使われた、一隻のボートがある。誰かに見つからないよう、慎重に島に向かってボートを発進させた。港町がみるみる離れていき、やがて三百六十度一面が海になった。


「五時間ほどで島に到着するでしょう。お疲れでしたら、横になって頂いても構いませんぞ」


「別に疲れちゃいないけど、海の景色に興味ないし、こんな狭い所じゃ筋トレぐらいしか出来ないから、寝ておくわ」


 エルカはそう言って船尾の方へ移動し、仰向けに寝転がった。


(やれやれ……。まさか儂自らの手で再び姫様を魔界に帰すことになるとはな。王様にバレたら大変な事になるわい)


 しかし……ヤドック自身も気付いてはいないが、心の奥底には微かな期待感が宿っていた。現役は退いたとはいえ、彼とて昔は戦いの最前線に立っていたのだ。今でもエルカとの組み手は、血湧き肉躍る瞬間が確かにある。そして、自分の生涯ただ一人の愛弟子が、魔界最強を決めるトーナメントに出るというのだ。その目で見届けたいと思うのは、ごく自然の感情ではないだろうか。

 島に着く頃にはエルカも目を覚ましていた。砂浜に上陸し、魔界の入口となっている大地の亀裂を目指す。エルカは歩きながら、ベルーゼに攫われてここに初めて来た時の事を思い出していた。あの時は本当に心からワクワクした。もう二度とあんな興奮は得られないと、その時は思った。しかし、この後間違いなくそれ以上の興奮が待ち受けているだろう。亀裂の元に到着し、二人は顔を見合わせるが、お互い何も喋らずに亀裂の中へと飛び込んでいった。



 *



 サウザンドトーナメント開催まで、二十四時間を切った。しかし、エルカは未だに戻らない。ベルーゼ達四人は黙々と修行に励んでいたが、焦りがどんどん膨れあがり、終いには諦めの気持ちも出てきた。


「なあ……どうするんだい? もう明日だよ」


 レオンが武器を手入れしながら、誰ともなく言った。その問いには誰も答えられない。皆、自分が知りたいぐらいだからだ。サウザンドトーナメントは、優勝以外は全て負けだ。準優勝だのベスト4などを目指しても何の意味も無い。そして、エルカ抜きでは優勝など絶望的だ。


「まあ……このままエルカが戻ってこないなら、辞退するしかねえだろなぁ」


 カゲトが座り込み、酒を口に含んだ。カゲトも魔界の中でもかなりの強者だが、流石に一人でチームを優勝に導くほどの力は無い。ベルーゼとタオも、何も意見できない。レオンが言葉を続けた。


「当然だよ。どこのエリアが優勝する事になるのかは知らないけど、支配される前に今のうちにどこかに逃げた方がいいんじゃないのか?」


「どこに逃げるって?」


「うわっ!」


 レオンの心臓が飛び跳ねた。慌てて後ろを振り返ると……。


「エ、エルカ!?」


 四人が揃って声を上げた。


「ただいま」


「お、おかえり」


「私がいなくても、ちゃんと修行してたみたいね。感心感心」


 何事もなかったかのように振る舞うエルカ。ベルーゼ達は、たった一ヶ月しか経っていないのに、随分エルカの雰囲気が変わったように見えた。見た目は何も変わっていない。しかし、その身に纏うオーラ……威圧感……それらが格段にアップしている。

 そして、もう一つ驚いたことがある。エルカの後ろに立っている、エルカを連れ去っていった張本人、ヤドック。


「ああ、この男の事は気にしないで。ただの保護者だから」


 ヤドックはノーコメントを貫いた。ベルーゼ達も、いちいち気にするだけ無駄だとようやく悟り始めた。エルカのハチャメチャぶりは、今に始まった事ではない。何にせよ、これでもう不安要素はほぼ取り除かれた。後は、試合に勝ち進むのみだ。

 そして翌日……エルカが待ちに待った、サウザンドトーナメントがいよいよ開幕する!

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