第26話 姫の帰還
フロッグ国。一年前にベルーゼの軍が残した爪跡は大きく、未だに完全に復興したとは言えない。それでもこの国の人々は逞しく、以前の街並みが大分戻ってきたと言える。
あれからフロッグだけでなく、世界のどこからも魔王ベルーゼの知らせを聞かなくなった。フロッグ襲撃を最後に、ベルーゼは人間界に現れなくなったのだ。誰かに討たれたという話も当然無く、何故突然姿を見せなくなったのかは、人々には知る由もないが、次第に魔王の恐怖は薄れてゆき、世界中の人々に笑顔が戻ってきた。
しかし、フロッグやジャクシーでは、未だに帰らない姫の身を案じ、本当の平和が訪れることはなかった。木材を切る音や釘を打つ音が、フロッグの街のそこかしこで空しく響き渡る。
ここはフロッグの城門前広場。そこには、フロッグのほとんどの国民が集まっていた。ノット王から、国民達に重大な知らせがあるという事だ。一体何事かと、国民達は首をかしげながらガヤガヤとしていたが、ノット王とアルマ王妃が大衆の前に姿を見せると、雑音はピタリと止んで静まり返った。
「ゴホン。国民諸君、毎日大変な復興作業に当たってもらい、真に感謝している。諸君の努力の甲斐あって、我がフロッグ国はほぼ立ち直ったと言って間違いないであろう」
国民達は照れくさそうに口元を緩めた。
「恐らく来月頃には完全に復興するであろう。しかし、いくら街が元通りになろうとも、一つ大きな物がこの国には欠けている。そう、我が娘であり、フロッグの王女エルカだ。私もアルマも、一日たりともエルカの事を忘れた日はない。恐らく諸君もそうだろう。エルカが戻らない限り、フロッグに本当の笑顔が戻ることはないだろう……」
ノットが声を落とし、顔を伏せ目を閉じた。国民達の顔にも陰りが見える。ノットの言う通り、フロッグの国民達もエルカの事を忘れた日はない。エルカは、全ての国民達から慕われていたのだ。エルカ無くして、フロッグは成り立たないと言っても過言ではない。エルカを思い、涙を流す者もここには大勢いる。しかしノットは、突然顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
「だが……それも今日で終わりとなるであろう!」
ノットが手を上げると、城門が開き始めた。突然の事に驚く国民達の視線が、一斉に城門に集まる。そこから出てきたのは……。
「……ひ、姫様!!」
「姫様が帰ってきた!?」
「嘘だろ!? 信じられねえ!」
「うおおおおおお!!」
「姫様! エルカ様ーー!!」
大歓声の中、煌びやかなドレスに身を包んだエルカが、一年ぶりに国民達の前に姿を現した。ある者は号泣し、ある者は抱き合い、ある者は喜びの雄叫びを上げた。狂喜乱舞の国民達に、エルカはにこやかに手を振った。
「皆さん、大変ご心配をおかけしました。でも、私はこの通り元気です!」
再び爆発的な大歓声が巻き起こった。夢などではない。誰もが心から帰還を待ち望んでいたエルカ姫が、確かに国民達の目の前にいるのだ。
「あなた……良かったわね。本当に良かった……うぅ」
涙に暮れるアルマの肩を、ノットがそっと抱き寄せた。
「ああ、もう大丈夫だ。これからは失われた一年間を、少しずつ取り戻していこうじゃないか」
エルカは国民達の元へ歩み出て、一人一人に笑顔を向けた。時には手を差しのべ、握手を交わしていく。小さな子供の頭を優しく撫で、車椅子に乗った老人には、身を案ずるように声をかける。誰もが知るエルカ姫の姿だった。どんなに身分の低い者でも、分け隔て無く接する。エルカは国民全てに愛される、正に非の打ち所の無い姫だったのだ。
エルカを連れ帰ったヤドックは、二人にこのような内容で報告した。『魔界にて、道端で倒れている姫を見つけた。ベルーゼや他の攫われた姫のことは分からない』と。もしジャクシーの王にタオの事を聞かれても、知らないフリをするつもりでいた。魔族化して自らの意思で魔王の傍にいるなどとは、流石に言えないからだ。ノットもアルマも、エルカが無事に戻ってきてくれただけで充分なようで、それ以上のことは聞かなかった。
その後、エルカの帰還を祝っての凱旋パレードが行われた。フロートの上から、ノットとアルマと共に、エルカは先程と同じように国民達に笑顔を向け続けた。お祭り騒ぎは夜遅くまで続き、日が変わる時間になって、ようやく全ての行程が終わった。エルカは兵士長に付き添われ、自分の部屋の前に着いた。
「ありがとう。ここまでで大丈夫よ。あなた達も疲れているでしょう? 明日は遅くてもいいから、今夜はゆっくり休んで。部下の皆にもそう伝えてあげて頂戴」
「は……はい! 有難きお言葉です!」
兵士長は深々と何度も頭を下げ、やがてその場を後にした。エルカは当時のままの自分の部屋に入った。その瞬間、周囲の空気がピンと張り詰める。花瓶に生けられた花が、風も無いのに揺れ始め、大皿に盛られている胡桃にヒビが入った。
(……く…………くそったれがああぁぁぁ……!!!!)
今のエルカの顔を見たら、誰もが魔物が化けているものとしか思わないだろう。夜叉のような形相で、目をひんむき、歯をギリギリと噛みしめ、髪を滅茶苦茶に掻き毟った。
未だかつてない屈辱感。スパーダに大敗を喫した時でさえ、ここまでの屈辱感はなかった。手当たり次第に目に付く物全てを破壊したい衝動に駆られる。エルカは魔界で強くなったが、ストレスへの耐性は明らかに落ちている。
二度と戻るまいと誓った人間界、そしてこの国……吐き気を催す。エルカはあまりにも魔界の空気に、そして戦いの日々に慣れすぎた。今更お姫様などに戻れるはずがないのだ。その時、誰かが扉をノックした。エルカはボサボサになった髪を、慌ててクシでとかした。
「はい。誰かしら?」
「姫様、夜分遅くにすみません。ヤドックです」
「……入れ」
相手がヤドックだと知り、声のトーンを思い切り落とした。ヤドック相手に猫を被る必要は無い。扉を開け、ヤドックを部屋に招き入れた。
「今日はお疲れ様でした。大変ご立派でした」
「……喧嘩売ってる?」
「滅相もない。しかし、姫様もご覧になったでしょう。国民達の喜びようを。この国には、姫様の存在は必要不可欠なのです。姫様がもしまたいなくなれば、国民達は再び深い悲しみに暮れるでしょう。お気持ちは分かりますが、何卒ご理解を……」
エルカがヤドックの胸ぐらを掴み引き寄せた。しかしヤドックは動じない。エルカは間近でヤドックを睨みつけた。
「今から組み手に付き合いなさい。でないと、皆の大事なエルカ姫が発狂死してしまうわよ。そん時は、ヤドックに虐められたって遺書残してやるから」
「……姫様がそれで気が済むのなら、いくらでもお付き合い致しますぞ」
「はい、決まり。それじゃ、地下室に行くわよ」
フロッグ城の地下深くには、数百年前に兵士達の訓練場として使われていた、大きな地下室がある。城の建て替えの際に埋め立てられてしまったが、ヤドックがエルカのために掘り起こして道を作った。当然、この二人以外は誰もその事は知らない。入口はヤドックの部屋の暖炉の下だ。そこの床は蓋になっていて、開けると梯子が下に続いている。
「ここも久し振りね」
少しだけ機嫌が直ったエルカが、先に地下に向かって梯子を下り始めた。ヤドックも後に続いた。梯子を下りながら、ヤドックは考える。エルカに武術を教えたのは、本当に正しかったのだろうか……と。
ヤドックは元々、フロッグの若き一兵卒だった。その頃から既に超人的な戦闘能力を持っていたヤドックは、あっという間に兵士長となる。更にその優秀な頭脳も買われ、ノットの右腕として今の大臣という肩書きを得た。やがてフロッグに一人の王女が誕生する。それがエルカだ。
エルカの才能にヤドックが初めて気付いたのは、エルカが二歳の時だった。ヤドックが庭でエルカを遊ばせていた時、たまたま落ちていた胡桃をエルカが拾い上げ、それを握り潰したのだ。ヤドックは驚いてその胡桃の破片を拾って見たが、特に湿気て柔らかくなっているわけでもない、普通の胡桃だった。
たまたまヒビでも入っていたのだろう……そう思った直後、またしても異変が起こった。エルカの周りを鬱陶しく飛び回る、一匹の蝿。その蝿を、エルカは一撃で叩き落とした。地に落ちて動かなくなった蝿を見て、ケラケラと無邪気に笑うエルカ。偶然ではない……確かな戦闘の才能の片鱗だと、ヤドックは確信する。
しかし、エルカはまだ善悪の区別も付かない幼児。このまま放っておけば、いつか大惨事になりかねない。そう考えたヤドックは、自らエルカの教育係を買って出て、エルカとの二人きりの時間を増やした。
真っ先にエルカに覚えさせたのは、力加減だ。二歳にしてこのパワーなのだから、成長するにつれて日常生活にも支障をきたしかねない。ヤドックの教育の甲斐あって、エルカは他の誰にもその異常なパワーを気付かれることなく、すくすくと成長していった。しかし、力を押さえ込まれるということは、必ず溜まる物がある。ストレスだ。
エルカが六歳になる頃には、癇癪を起こすことも多くなり、城の者達は手を焼いていた。ヤドックはこのままではまずいと判断し、自らがストレスの捌け口になる決心を固めた。エルカの全力を受け止める事が出来る人間は、この世に自分一人しかいないからだ。それが、ヤドックとエルカの師弟関係の始まりだった。
とにかくエルカの気晴らしになればそれで良かったのだが、エルカはヤドックの予想を遥かに上回る勢いで強くなっていった。エルカ自身も、最初はただの戦いごっこだったのが、いつからか強くなりたいという思いがどんどん膨れあがり、もはやそれはお遊びとは言えなくなっていった。
「さて、やるわよ」
地下室に着くなり、ヤドックの返事も待たずにエルカはヤドックに飛びかかった。室内では、拳と拳がぶつかり合う音が鳴り響く。戦っている時のエルカは、実に楽しそうな顔をする。ヤドックもそんなエルカの顔が好きで、これ以上は駄目だと思いつつも、結局こうして組み手の相手をしてしまうのだ。
しかし、ヤドックはこれだけは信じている。エルカは、その力を自分の欲望を満たすために使うことはあっても、間違ったことに使うことは決して無い、と。
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