第25話 ジジイ

  Bエリア南西部。そこはエルカが初めて魔界に降り立った場所だ。当然、人間界と魔界を繋ぐゲートもそこにある。地上から数十メートルの高さで、そのゲートは今も妖しげな光を放ちながら空中に留まっていた。

 そのゲートが今、何者かの侵入を許した。ゲートが二倍ほどの大きさまで開き、周囲に稲妻が走る。暫くした後、ゲートから吐き出されるように何かが飛び出し、魔界の地に降り立った。


「……ふむ。ここが魔界か。実際に来るのは初めてじゃな」


 白髪頭に、顎に白い髭を生やしている。それとは対照的な黒スーツを着こなし、首には蝶ネクタイ。背丈は百九十近い、長身の老紳士だ。老紳士は周りを見渡すと、遠くの方に城があるのを見つけた。


「あれか……」


 老紳士は、その城……ベルーゼ城に足を向けた。しかしすぐにその足を止める。招かれざる客の侵入を察知した、十数匹の魔狼が老紳士を取り囲み、牙を剥きながらうなり声を上げていたからだ。


「グルルルル……」


「…………」


 普通なら腰を抜かして動けなくなるか、背を向けて逃げ出してしまいたくなる状況だが、その老紳士は全く動じていない。魔狼達が一斉に襲い掛かった。

 しかし、まるで見えない壁に阻まれるように、その攻撃をピタリと止めた。老紳士を中心に、半径ニメートルの円を描くように、魔狼は立ち尽くしている。ニメートル以内に入ったらどうなるか…………それは彼らの本能が教えてくれていた。

 やがて魔狼達は後退り、負け犬のような情けない声を上げながら、文字通り尻尾を巻いて逃げ去っていった。


「やれやれ……いかにも姫様がお気に召しそうな場所じゃな」


 老紳士は何事もなかったかのように、再び城に向けて歩を進めた。



 *



 サウザンドトーナメント開幕まで、あと一ヶ月。今日の修業を終えた五人が、修業場から城に戻ってきた。ベルーゼ、タオ、カゲト、レオンの四人は、あまりにもハードな修業で疲労困憊だ。


「皆さん、お疲れ様です」


 城門前で待っていたタルトから、水の入った瓶を受け取ると、誰もが物凄い勢いで飲み干した。エルカだけは疲れが見えないが、若干焦りの色が浮かんでいる。確かに強くなっている手応えは感じている。しかし、スパーダにはまだ遠く及ばない。残り一ヶ月でこのペースでは間に合わないのだ。


(計算が狂ったわね……。早めに何か手を打たないと)


「……ん? 何だあの爺さんは?」


 城に入ろうとしたその時、カゲトが何かに気付いた。他の五人の視線もそこに集まる。確かに、一人の老紳士がこちらに向かって真っ直ぐ歩いてくるのが見える。その老紳士の顔を認識したエルカが、顔を引きつらせた。


「げっ! やばっ……」


「えっ? どうしたのエルカ」


 初めて見せるエルカのこんな表情に、タオは驚いた。


「……あのジジイ、フロッグの大臣よ。そして、私の師匠でもあるわ」


「な、何だと!?」


 ベルーゼが改めて老紳士を見た。話には聞いていた、エルカの師匠。その実力は、エルカをも上回るという。しかし、背は高いがどう見ても普通の老人だ。エルカより強いとは、ベルーゼにはとても思えない。


「ベルーゼ……あんた、私を攫った時はジジイが出張中で良かったわね。もしあの時あの場にいたら、あんたバラバラにされてたわよ」


 エルカが、冷や汗を流しながら苦笑いした。ますますらしくない態度を見せるエルカ。まだ何も起こっていないが、既にこれが異常事態のようなものだ。ベルーゼがゴクリと息を飲む。今更身を隠しても遅いし、意味も無い。エルカは黙って、師の到着を待った。そして……。


「姫様、お久しゅうございます。随分探しましたぞ」


 老紳士が軽く頭を下げた。エルカは全く歓迎できない客に対して、じっとりとした目を向ける。


「……よく魔界の入り口を見つけたわね、ヤドック。あんな孤島にあったのに」


 老紳士……ヤドックが、髭を擦りながらニコリと笑った。しかしそれで場が和むことはなかった。


「ええ、苦労しました。世界中で情報を集めながら、私自身も草の根を分けるようにあちこち飛び回りましたからな。そして先日ようやく突き止めたのです」


「ふーん……それはご苦労な事ね」


「さて、姫様。私がここに来た理由は、分かっておりますな?」


「……」


「王様も王妃様も、大変心配しておられます。あなたはフロッグの王女なのです。お戯れもそろそろお止めになりませぬか?」


 ヤドックは全て分かっている。ベルーゼに攫われたのは、エルカ自身が望んでいたことを。ヤドックはエルカの最大の理解者であり、人間界で唯一エルカの本当の顔を知る者だったのだ。目を逸らしたまま黙りこくるエルカに、ヤドックは言葉を続ける。


「このまま私と共にフロッグへお戻り下さい。しかしもし姫様が、魔王に邪魔されて戻れないと言うのなら……私はあなたを助け出さなくてはなりません」


 ベルーゼに戦慄が走る。エルカを魔王の手から助け出すという言葉の意味を、ベルーゼは瞬時に理解する。ベルーゼの冷や汗が滝のように溢れ出てきた。


「どちらになさいますか? ご自分の意思で戻られるか、私に助け出されるか。当然、私は前者を強く望みますが」


「…………選択肢なら、もう一つあるわ」


 エルカがヤドックの目を見据え、口角を吊り上げた。


「あんたをぶちのめして、人間界に強制送還させる。これが私の答えよ。私はね、ここが最高に気に入っているの。それにもうすぐ武闘大会も始まるのよ。今更人間界に戻るなんて、冗談じゃないわ」


 やっぱりな……。そこにいる全員がそんな顔をした。どこまでも自分勝手な戦闘狂。そんなエルカを動かしたいなら、力尽く以外の方法はあり得ない。弟子に牙を剥かれていても、ヤドックは表情一つ変えない。もはやこの程度の事は慣れっこなのだ。


「姫様、あまりこの老いぼれを困らせないで頂きたいものですな」


「それはこっちの台詞。あんただって知ってたはずでしょ? 私の小さい頃からの夢を。それがようやく叶ったのに、邪魔しないで」


「そればかりは聞けないワガママですぞ。王様と王妃様のため、そしてフロッグのために、多少手荒な手段を使ってでも姫様は連れて帰ります」


「私のために見逃してくれるってのは無いんだ? 悲しいわね。ヤドックだけは私の味方だと思ってたのに」


 イタズラな笑みを浮かべながら、エルカが構えた。ヤドックも、それと全く同じ構えを取る。周りの者は、口を挟む余地すらない。これから始まるのは、彼らにとって完全に別次元の戦いだ。固唾を飲んで見守るしかない。


「っらあ!!」


 顔面を狙ったエルカのハイキック。ヤドックがそれを躱す。続け様にエルカは蹴りを繰り出し続けるが、ヤドックはそれも次々と躱していく。まるでヒラヒラと舞い落ちる羽根を相手にしているように、まるで攻撃が当たらない。

 しかし、こんな蹴り一辺倒のワンパターンな攻撃がヤドックに通じないことなど、エルカは百も承知だ。エルカが体を沈めた。足払い……そう読んだヤドックが軽くジャンプした。


(むっ!?)


 前に跳びだしながらの肘鉄に瞬時に切り替える。ヤドックはガードするが、空中では踏ん張りが利かずに、後方に吹き飛ばされる。左足を伸ばし、地面を擦りながら勢いを殺した。ガードした腕が、ビリビリと痺れを残す。


「読み違えたか……。暫く見ない間に、少々攻撃パターンが変わりましたな。それに、以前よりも遙かに強くなっておられる。師としては喜ばしい事ですが、大臣としては複雑な気分です」


「余裕なツラしてよく言うわ。言っとくけど、これは組み手じゃないわよ。私は全力であんたを追い返すつもりだから」


 エルカが走り出す。格上相手だろうと、一歩も引く気はない。更に速い速度で連続攻撃を仕掛ける。カゲトだけはかろうじて目で追う事が出来ているが、他の者達には何が起こっているのかさっぱり分からない。しかし、それでもヤドックに攻撃が当たることはない。


(ちっ……完全になめてるわね。それなら、嫌でも本気を出したくさせてやるわ!)


 さっきの肘鉄のように、ヤドックが知らないエルカの攻撃パターンを、脳内で瞬時に検索した。エルカは僅かに間合いを空け、脚を後ろに振り上げ、そのまま地を蹴り上げた。カゲトに食らわせた石つぶてだ。予想外の攻撃だったが、ヤドックは冷静に石の一粒一粒を叩き落としていく。

 しかし、一瞬エルカを見失った。ヤドックの死角、八時の方角。ヤドックのこめかみを、エルカの跳び膝蹴りが襲う。


(もらった……!)


 しかし直後、エルカの視界が高速で一回転し、気付いた時には背中を地面に打ち付けていた。一瞬何が起こったのか分からなかった。ヤドックに攻撃を受け流され、空中でひっくり返されて、そのまま真下にはたき落とされたようだった。

 完璧に決まったと誰もが思った攻撃が、いとも簡単に返されたのだ。ベルーゼ達は、開いた口が塞がらない。エルカよりも強い人間が存在するなど、実際にこの目で見るまで信じられなかったのだ。


「姫様……もう気は済みましたか?」


「……!」


「今一度申し上げます。少しでもこの老いぼれを労る気持ちがおありでしたら、どうかこのまま共に人間界にお帰り下さい」


 エルカは、ヤドックの強さは誰よりも理解しているつもりだった。それでも、魔界で数々の戦いを経験した事で、ヤドックを超えたという手応えは、少なからず感じていた。しかし実際には、その壁はあまりにも高かった。過去に組み手で見てきた物など、ヤドックの強さのほんの一端に過ぎなかったのだ。


「……ふっ。敵わないわね。分かったわ……降参よ」


 エルカは自嘲気味の笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。全てを観念したかのように項垂れる。


「ありがとうございます。では、参りましょう」


 ヤドックは、自分が歩いてきた道に足を向け、エルカに背を向けた。その瞬間、エルカの目に光が戻り、拳に力が入る。地を蹴り、この戦いの中での最高速度で、弾丸のように飛び出す。そしてヤドックの無防備な背中目掛け、渾身の右ストレートを放った。


 ────エルカの意識はそこで途切れた。ヤドックは、エルカの攻撃を躱すと同時に、首筋に手刀を打ち込んでいた。その一撃で気絶したエルカを、倒れる寸前でヤドックが抱き止める。


「勝つためには手段を選ぶな…………私が教えた事ですな」


 ヤドックはエルカをそっと寝かせ、立ち上がってベルーゼに向き直った。


「さて、ベルーゼよ。誘拐そのものは姫様が望んだ事じゃから、百歩譲ってそれは許そう。じゃが、フロッグを襲撃し、大勢の怪我人を出し、建造物を損壊させたのは事実。このままタダで済ますわけにはいかぬ」


「うっ……」


 一歩一歩と、ベルーゼに歩み寄るヤドック。抵抗する気も逃亡する気も失せる、その圧倒的な眼力に、ベルーゼは死を覚悟する事しか出来ない。


「ま、待って下さい!」


 タオがベルーゼを庇うように前に躍り出た。ヤドックは暫しタオを観察した後、驚いて目を見開いた。


「もしや、あなたはジャクシーのタオ姫では?」


「そ、そうです。こんな体になっちゃいましたけど……」


「ベルーゼ……貴様何ということを……!」


 ヤドックはベルーゼに怒りの眼差しを向けた。ベルーゼの汗が止まらない。タオが慌てて取り繕う。


「違うんです! ベルーゼ様は私を助けるために、私を魔族にしたんです!」


「……タオ姫の言っている事は本当です」


 タルトも前に出て、タオのフォローをした。


「タルト姫……あなたまで、ベルーゼを庇うというのですか? 何故あなた方は、自分を誘拐した者をそこまでして……」


「私を魔界に攫ってきたのは、ベルーゼさんではありません。もっと凶悪な魔物の元にいたところを、エルカ姫やベルーゼさん達に助けて頂いたのです。ここにいる誰も、あなたによるベルーゼさんへの制裁は望んでいません」


「なんと……」


 タオとタルトの目からは、確かな意志を感じ取れた。やがてヤドックは、諦めたように溜め息を一つついた。


「お二人がそこまでおっしゃるのなら、承知しました。ベルーゼ、お二人に感謝するんじゃな。そして、今度また人間界に攻め入ってきたら、今度は儂自らが打って出るからな。覚えておくがよい」


「わ、分かってる」


「ところでタオ姫とタルト姫は、人間界には戻られないのですか? 宜しければ、一緒に送っていきますが」


 タオとタルトは、揃って首を横に振った。


「結構です。この体になる前から、魔界で生涯暮らしていくと決めていたので」


「私もです。どちらにしても、人間界にはもう私の帰る場所はありませんから」


「……左様でございますか。では、これにて失礼致します。どうぞお達者で」


 ヤドックはエルカを抱きかかえ、来た道を引き返すように歩き出した。やがてその背中が見えなくなると、ベルーゼをどっと脱力感が襲った。命拾いした…………のはいいが、これからが問題だ。


「は、はは……おい、どうするよ? 連れて行かれちまったぜ?」


 カゲトが苦笑いしながら指差した。


「彼女抜きでトーナメントに出るのかい? 流石に無謀だろう……。いっそ辞退した方が……」


 レオンの提案に、ベルーゼは首を横に振った。


「いや……もうエントリーは済ませてしまったんだ。出なければ、当然不戦敗扱いだ」


「そ、そんな……」


 今からエルカの代わりなど見つかるはずがない。いや、存在するはずがない。ベルーゼ達を、重い沈黙が包み込んだ。


「だが、あいつがこれしきの事で諦めるとは思えん。必ずまた戻ってくるだろう。だから、その前提で俺達は修業を続けていくしかあるまい」


 それだけ言うと、ベルーゼは城の中へ戻っていった。カゲトとレオンもお互いの顔を見合わせ、何も言わずにベルーゼに続いた。


「エルカ……大丈夫かな」


「信じましょう。ベルーゼさんの言う通り、私もエルカ姫は必ず帰ってくると思います」


「そうだね……」


 サウザンドトーナメントまで、残り一ヶ月。それが、エルカに残されたタイムリミットだ。彼らはただ、その帰還を待つことしか出来なかった。

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