第15話 サディスト
(さて……どうしたものかしらね)
狸寝入りしているようには見えない。上の方であれだけのことが起きたにも関わらず、そのまま寝続けられるとは、大した図太さだ 。エルカは歩を進め、慎重にアリアに近付いていく。いつ襲い掛かられてもいいように、ほんの僅かな気配の変化にも気を配った。そして、アリアの三メートル手前……。
「……」
空気が変わった。この時点でエルカは悟った。ベルーゼの言っていたことは本当だ。アリアは、今まで戦ってきた相手とは格が違う。アリアの寝息が……止まった。
エルカが一瞬で間合いを詰め、拳を振り下ろした。アリアがそれを掴み止める。何事もなかったかのように、アリアはゆっくりと瞼を開け、エルカと目が合った。そして大きなアクビをする。
「ふわぁ…………あらあら……人間のお客さんだなんて、珍しいこと。どちらからいらしたの?」
聖母のような穏やかな口調、穏やかな表情。そして……心臓を鷲掴みにされるようなプレッシャー。エルカはもう片方の拳を振り下ろすが、これも止められた。自分のパンチを真っ向から受け止められたのは、師以外では初めてだった。
「強いと噂のAエリアのボスと、手合わせに来たのよ。期待以上で安心したわ」
エルカは手を引き、後ろに跳んで間合いを取った。アリアがゆっくりと起き上がり、気怠い体をほぐすように大きく伸びをした。エルカに視線を戻し、ニコリと微笑む。まるで戦いとは無縁に見えるが、エルカは決して気を許さない。格下の相手をなぶり殺しにする残虐性と、目を閉じたままエルカのパンチを止める戦闘能力。確かな事実が二つもあるのだから。
「わざわざ私と戦うためにこんな所まで来てくれるなんて、光栄なことだわ。でも私はてっきり、あの子を助けに来たのかとばかり思っていたわ」
「あの子……?」
ふと、横穴から何者かの足音が聞こえてきた。こちらに近付いてくる。エルカは、アリアの方を注意しながら、その足音の方向へ視線を向けた。姿を現したのは、いかにも内気そうな雰囲気を醸し出している、人形のような人間の少女だった。栗色の短い髪と、青い目。歳は恐らく十にも満たない。何故こんな所に人間の少女が……。そう思うと同時に、エルカは気付いた。エルカはこの少女に、二年ほど前に会ったことがある。
「あんた、タルトね?」
「エルカ姫……? どうしてここに?」
タオの次に魔物に攫われた、メッカ国のタルト姫だった。生きているのなら、魔界のどこかにいるということは分かっていたから、いずれは会うこともあるだろうとは思っていた。しかしこんな所で出会うとは、エルカも予想しておらず、少々驚いた。
「あら、お知り合いだったの。そちらの方もどこかのお姫様ということ?」
「……ええ」
タルトが答えた。エルカは、じっとタルトの表情を観察した。今の状況を悲観しているのか、タオのように自分を誘拐したアリアを慕っているのか、エルカのように魔界の生活を満喫しているのか、その表情からは分からない。元々あまり感情を表に出さないせいか、今のタルトの心境は読み取れない。だが、エルカにとってはどちらでも良かった。エルカが用があるのはタルトではない。アリアだ。
「タルト、とりあえず話は後よ。こいつを倒してからね」
「お元気だこと。若いっていいですわね。私も最近体が大分鈍ってきてしまっているし、少しばかりお付き合い願おうかしら」
戦闘能力の無いタルトでも感じる、二人の凄まじい闘志。それでいて、お互いピクリとも動かない膠着状態。地上の爆音や怒号が僅かに聞こえてくる程度で、ほぼ無音の空間。しかしそれは、もう間もなく破られようとしている。タルトは巻き添えを恐れ、無意識に後退った。
「…………ハアッ!」
先に仕掛けたのはエルカ。前傾姿勢で真正面から突進する。相手の力を見極めるのには、小細工は無用。まずはエルカお得意の拳の連打。音速を超えるその攻撃を、アリアは全てガードする。エルカがしゃがみ込み、回転しながらの足払いを決める。バランスを崩したアリアが倒れるのを待たずに、もう一回転して回し蹴りを繰り出す。ガードが間に合わず、アリアの体が吹き飛ばされる。壁に激突した時には、既にアリアの目の前にエルカが迫っていた。
「うっ!」
エルカの足に、アリアのしなやかな尻尾が巻きつく。今度はエルカが足を掬われ倒れ込む。そのまま尻尾でエルカを持ち上げ、壁に叩きつけた。それを二度、三度、四度と繰り返す。その度に、大きな地響きが巣全体にこだまする。エルカがアリアの尻尾を掴み、口元に寄せて思い切り噛みついた。アリアが僅かに顔を歪め、エルカの足を放した。エルカは追撃はせずに、一旦距離を置いた。ダメージが大きいのはエルカの方だ。こめかみから血が滴り、頬を伝って地面に落ちた。
(ふう……流石に強いわね。今のは死ぬかと思ったわ。ますます燃えてきた)
再び走りだした。今度は一直線ではなく、地を走る稲妻の如く、ジグザグに動きながら前進していく。そして、アリアの目の前でバックステップ。このフェイントにも、アリアは引っかからない。エルカの、しゃがみ込んでからの跳びながらのアッパーカットを、アリアは後ろに下がって回避する。エルカは、そのまま空中で前転しながら、今度は踵落としを繰り出した。アリアが腕を頭上でクロスさせてそれを受け止める。……その時、突如エルカの背後から何かが襲い掛かってきた。
「はっ……!?」
地に足を付けていないこともあり、完全に反応が遅れた。背中を強打し、その体が宙を舞った。一体誰が……。着地しながらその正体を確認したエルカは驚いた。壁だ。壁が長々と槍のように突き出てきていた。壁に殴られたのだ。エルカの頑丈な肉体でなければ、そのまま貫かれていてもおかしくはなかった。
「うふふ……驚いていただけたようね。私の可愛いしもべは、上で戦っている子達だけではないのよ。私の魔力にかかれば、大地すらもしもべに出来るの。この巣全体が、私の意のままに動くのよ。例えばこんな風に……」
エルカの周りの地面が突然盛り上がった。そのままエルカを包み込み、卵のように閉じこめた。
「ちっ、くだらないことを……」
内側から叩き割り、直ぐさま脱出した。……アリアの姿が、無い。
「エルカ姫! 上!」
タルトの叫び声。エルカが反応するよりも、アリアの方が速かった。いつの間にか石の卵の上に乗っていたアリアの尻尾が、素早くエルカの首に巻き付けられ、持ち上げられた。宙で身動きが取れない上に、更に背を向けているという最悪の状況。しかも、窒息させるどころか首を千切り落とす勢いで、尻尾の締め付けがどんどんきつくなっていく。脚で攻撃しようにも、小柄なエルカではアリアには届かず、どうすることも出来ない。カムデの時同様に、エルカの弱点を突かれた形だ。
「あらぁ……苦しそうなお顔ね。私、そういう表情大好きよ。でも、まだまだ足りないわね。もっともーっと苦しませてあげるわ……」
アリアの拳打が、無防備なエルカの背中に叩き込まれた。
「……っ!!」
「あっ、今のいいわ! 凄くいい! 美しい顔が醜く歪む瞬間、最高よ! うふ、うふ、うふふふふふふふふふ」
更に連打。エルカの背骨が軋む。アリアが、いよいよ本性を現し始めた。痛みや苦しみを与えるのが何よりも好きな、その残虐な本性を……。
(このクソアマ…………調子に……乗ってんじゃあ…………ねえわよ!)
エルカが腕を素早く後ろに回し、攻撃してきたアリアの手を掴んだ。そして一気に握力を込めて、その手を握り潰した。
「ぎゃっ!」
激痛に思わず力が緩む。その隙にエルカが尻尾を振り解き、脱出した。アリアが怯んでいる隙に、エルカが反撃の跳び蹴りをくらわせると、アリアの体が壁に叩きつけられた。
「ゲホッゴホッ! ハア、ハア、ハア……散々痛めつけてくれたわね。完全に頭にきたわ」
背中をさすりながら呼吸を整える。エルカは気付いた。咳き込むのも息切れするのも、魔界に来てからは初めてだということに。ここまで手こずらせてくれたお礼は、きっちり返さなければならない。アリアは……壁に背を預けて座り込んだままだ。握り潰された右手を押さえて、ぶつぶつと何かを呟いている。
「……痛い。痛いわぁ…………すっごく痛いの。でもね、嬉しいの。楽しいの。何だかとても興奮してきたわ。やっぱり戦いって楽しいわね。最近でいうと、タルトを攫いに行った時、たくさんの人間達を殺したけど、あの時もイキかけた…………あっ、でもあれは戦いというよりは殺戮ね。うふ。まあどっちでもいいわ。とにかく興奮したの。必要も無いのに、思わず全員殺しちゃったわぁ……。でも死に顔も十人十色で見応えがあったわねえぇぇ……」
アリアが涎を垂らしながら、恍惚の表情を浮かべていた。
「…………戦いが楽しいってのは同意するけど、あんたとは絶対に友達にはなれそうにないわ」
「あらそう? 残念ね。私はあなたのことをこんなに気に入っているのに」
エルカは、タルトの方に視線を送った。その表情は依然変わらない。ベルーゼが襲撃したフロッグやジャクシーと違って、メッカは完全に滅ぼされた。タルトは今の話を聞いていて、何を思うのか。
「ねえ……もう一回見せて? あなたの苦痛に歪んだお顔を。何だか寸止めされた気分なのよ。ムラムラが治まらないのよぉぉ……」
「……力尽くでやってみろ。ド淫乱ババアが」
狂気のアリアがエルカに襲い掛かる。その時、エルカの後ろからも何かが攻撃してきた。またしても後ろの壁が盛り上がって、エルカの後頭部を突き刺しに来る。しゃがんで回避したが、今度は地面からの攻撃。横に転がってこれを回避する。
「!」
壁や地面に気を取られている間に、既にアリアが間合いに入っていた。エルカは側頭部
をもろに蹴られ吹き飛ぶ。そして倒れ込んだ地点では、既にアリアの次の攻撃が始まっていた。天井が、エルカを押し潰そうと迫ってくる。間一髪で両手を上に上げ、天井を止めた。
「……くっ!? これは……」
天井だけではない。エルカの足元の地面も天井にくっつこうと、上にせり上がってくる。まるで巨人の奥歯に挟まれているかのように、上下からエルカを潰すために、ぐいぐいと押し寄せてくる。凄まじい圧力に、エルカは歯を食いしばる。そして更なる追撃。近くの壁が次から次と突き出て、エルカを殴りつけてくる。
攻撃が一旦収まった。エルカの腕や脚が小さく痙攣している。今にも力尽きて押し潰されてしまいそうだ。アリアがエルカの顔を、観察するように覗き込む。
「あなた……本当に素敵。私が今まで出会った誰よりも強く、誰よりも美しいわ。このままぐちゃぐちゃに潰してしまうのはもったいないわねぇ。あっ、そうだわ!」
アリアが何かを思い付き、エルカの首に、潰されていない方の手をかけた。
「頭だけ引っこ抜いておきましょう。そして私の傍にずっと置いておいてあげるわ。怖がらなくても大丈夫よ。ちょっと痛いかもしれないけど、すぐに何も感じなくなるわ」
アリアが、その手に力を込め始めた。その時、エルカが天井から手を放し、アリアの手首を掴んだ。涼しい顔で、今なお圧力をかけてくる天井を、片手で支えているのだ。
「なっ!?」
「……まんまとかかったわね」
エルカはニヤリと笑い、アリアの手首を握り潰した。
「ぎぃやああ!」
アリアが後ろに倒れ込み、のたうち回った。エルカは、片手でも支える余裕はあった。アリアをおびき寄せるために、わざと身動きが取れない振りをしていたのだ。
エルカはすぐに脱出し、アリアに攻撃を仕掛けた。アリアが慌てて尻尾を鞭のように繰り出すが、エルカはそれを読んでいた。尻尾を掴み、アリアの背を踏みつけ、思い切り引っ張った。ブチッという音と共に、アリアの尻尾が根元から千切れ、血が噴き出す。再び絶叫するアリア。そしてエルカは、それをまるでクラシックを聴くように満足そうに聞いていた。
「両手が潰れ、尻尾も無くなっちゃったわね。後は両脚が残ってるけど、どうする?」
問いかけるが、返答を聞くつもりは全くない。エルカは軽くジャンプして、アリアの両膝を思い切り踏み潰した。
「アアアアアア!!!」
「どう? 普段あんたが他人にやっている事を、自分がやられる気分は。やるからには、当然やられる覚悟もしているはずよね?」
エルカの背後の地面が盛り上がる。しかし、さっきまでの勢いは無い。ガードするまでもなく、エルカに触れる前にボロボロと崩れ落ちた。魔法を使うには、少なからずコンセントレーションが必要だ。今のアリアは、そんな精神状態ではない。
「いや……やめて、お願い、助けて! 何でも、何でもするから!」
「へえ、何でも?」
エルカはアリアの顔の上に、足を乗せた。
「靴を舐めな」
「……は、はい」
アリアが舌を伸ばした。恐怖におののきながら、エルカの靴に付いた泥を舐め落としていく。
「……で、出来ました」
「ご苦労」
アリアの頭が爆ぜ、飛び散った血液が、エルカの全身に付着した。エルカによって、一瞬で踏み潰されたのだ。命乞いに応じるつもりなど、最初から微塵もなかった。
「エルカ姫……」
離れた場所で見ていたタルトが近寄ってくる。エルカは、タルトにいくつか聞きたいことがある。だが……今のエルカに、そんな余裕はない。エルカの視界が揺れ、その場に倒れ込んだ。タルトが慌てて駆け寄り、エルカを抱き起こす。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないから倒れたんじゃない? やれやれ……正直ここまで手こずるとは、思ってなかったわ」
「それにしても驚きました。まさかエルカ姫が、こんなにお強い方だったなんて思いませんでした。以前お会いした時のあなたからは、全く想像がつきません」
「まあ、ね……。誰でも隠し事の一つや二つあるでしょ…………ハァ……ハァ……」
「そうですね」
…………しばしの沈黙。エルカは意識を失わないように気を張るので精一杯だ。その様子をタルトはじっと見つめ、やがて口を開いた。
「エルカ姫」
「……何よ」
「メッカの皆の仇を討ってくれて、ありがとうございました」
今まで無表情だったタルトが、微かに笑った。その瞳には、僅かに涙が見える。それは、どこにでもいる、あどけない少女の顔だった。
「別に……あんたのためじゃないわよ。単に私が戦いたかっただけ」
「ええ、分かっています」
「ふん……。ところで、あんたはどうして……」
突然、巣が揺れ始めた。パラパラと天井が崩れ始める。
「地中だって事を忘れて、ちょっと派手に暴れすぎたかしらね」
「いえ、これはアリアが死んだせいだと思います。この巣はアリアの魔力によって形成されていました。魔力の源が消えたことで、巣の形を保てなくなったのでしょう」
「どっちにしろこのままじゃ生き埋めよ。まずいわね……万全ならどうってことない事態だけど、これじゃどうにもならないわ。とりあえず、あんたはさっさと逃げな」
「それは出来ません」
「あんたがここにいたって、何も出来ないでしょうが。自殺願望でもあるわけ?」
タルトは、もう一度静かに笑った。そして、ゆっくりと目を閉じる。天井が完全に崩れ、大量の落盤が二人を襲った。
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