第13話 魔族の体

「……タオ?」


 最初に気付いたのはエルカだった。エルカの声に、一同は顔を上げる。そして、タオが息を吹き返した事に気付いた。まるで、何年も眠っていたかのように、タオはその瞼をゆっくりと開けた。


「タオ!」


 ベルーゼが顔を覗き込んで叫んだ。タオはまだ意識が朦朧としているようだ。ようやく目の焦点がベルーゼに合わさり、気怠そうに身を起こした。


「あっ、ベルーゼ様おはようございます」


「ん? あ、ああおはよう……ってそんなことより! もう大丈夫なのか?」


「大丈夫って何が…………あっ!」


 タオはようやく、意識を失う直前に起こった事を思い出した。そして同時に気付いた。自分の身に明らかに異変が起こっている事に。


「えっ、何? 何なのこれ!? ええー!?」


 浅黒く変色した肌、浮き出た血管、牙と化した奥歯、鋭く尖った爪、真紅に染まった瞳。誰がどう見ても魔族だ。慌てふためくタオの様子に、ベルーゼは気まずそうに目を逸らした。

 しかし、説明しないわけにもいかない。ベルーゼは軽く咳払いをして、事情を話し始めた。その間、ベルーゼ以上に気まずそうにしていたのはエルカだ。他エリアに目を付けられた原因は自分、食材集めにタオを連れ回したのも自分、ズシムに止めを刺し損ねたのも自分、タオが庇って怪我をした原因も自分。何もかも自分のせいだ。流石のエルカも、今回ばかりは黙るしかなかった。


「……というわけだ。すまんが分かってくれ。お前を助けるには、こうするしかなかったんだ」


 話を聞いている最中は驚きを隠しきれなかったタオだったが、神妙な面持ちのベルーゼに、タオは笑顔を返した。


「大丈夫ですよ。気にしてないですから」


「もう二度と人間には戻れないのだぞ?」


「魔界で生きていくには、こっちの方が都合がいいじゃないですか。毎回私だけ違う食事を用意してもらうのも、スケ夫さんに悪いですし。ちょっとは驚きましたけど、逆にありがたいです」


 ベルーゼは、もしタオが人間界に帰りたいと強く願うなら、その時は何も言わずに帰してやるつもりでいた。いずれはその時が来ると思っていた。しかしタオは、とっくのとうに魔界に骨を埋めるつもりでいたのだ。

 今更ながらにその事に気付いたベルーゼは、喜びの感情を隠すのに必死だった。周りで遠慮なく歓声を上げている手下達のように、素直になれれば苦労はないのだが。そして、それを聞いて気が楽になったエルカが、ようやく笑みを浮かべて口を開いた。


「ったく、余計な心配かけさせんじゃないわよ。あんたが私を庇うなんて、百年早いのよ。ほら、立てる?」


 エルカが手を差し出した。


「はは、ごめんね。ありがと」


 エルカの手に掴まろうと、タオが腕を上げた。



 …………物凄いスピードで。




 タオの手は、エルカの手を通り過ぎて、思い切りエルカの顎を打ち上げた。あまりに突然の出来事に、その場にいた全員の思考が停止した。タオ本人も例外ではない。エルカが、真上を向いたままタオに問いかけた。


「……あんた、やっぱ私を恨んでんの? 魔族になって暴力に目覚めたって言うなら歓迎するけど」


「えっ……ご、ごめん違うの! 全然そんなつもりじゃなくて! 何か分からないけど腕が物凄い軽くて……だ、大丈夫?」


 タオが慌てて立ち上がった。そして、勢い余ってそのままエルカに激突。吹っ飛ばされたエルカの体が、壁に衝突した。核爆弾の導火線に火が付いた……魔物達にとってはそれと同じ事が目の前で起こり、この世の終わりが頭をよぎった。無表情だったエルカが、口角をつり上げる。


「はいオッケー! その喧嘩買ったわ!」


「ちょっと待てええーー!」


 我に返ったベルーゼが、大慌てでエルカの前に立ちはだかった。


「何よ? 売られた喧嘩は買う。やられたらやり返す。これが私のポリシーなの。お分かり?」


「故意のわけないだろうが! 原因ははっきりしている。ついさっきまで普通の人間だったのが、いきなり強靱な肉体を持つ魔族に生まれ変わったんだ。コントロールが利かなくて当たり前だ」


 タオはそれを聞いて、改めて自分の体を見回した。手足をぶらぶらさせたり、拳を握ったり開いたり……未だに自分の体とは思えない。体が羽根のように軽いだけでなく、ちょっと力を込めるだけで必要以上の力が入る。今誰かと握手でもしようものなら、うっかり相手の手を握り潰してしまってもおかしくない。


「……慣れるまで時間がかかりそうですね」


 タオから乾いた笑いが漏れる。とりあえず命が助かっただけでも良しとするしかない。


「ねえベルーゼ。人間が魔族になると、皆こんな感じになるの?」


「俺自身は、これを試すのは初めてだったから何とも言えん。亡き父がやっているのを何度か見たことがあるが、ここまで極端ではなかったな」


 エルカは、一つ気になったことがある。魔族と化したタオは、一体どの程度の力を持っているのか。何気ない動作であれだけの動きが出来たのだ。本気で殺意を持って戦おうとすれば、そこそこいけるんじゃないだろうかと。


「タオ、ちょっと表に出な」


「おい、エルカ!」


「うっさいわね。ちょっと黙ってなさいよ。少しだけ力試ししたいだけよ。私は絶対に手を出さないわ」


 ベルーゼにとって、エルカの「手は出さない」という言葉ほど信用出来ないものはない。しかし、自分にエルカを止める術はない。そのままタオの腕を強引に引っ張って出ていってしまった。

 だが、正直なところベルーゼも気になっていた。初めて自分が魔族化させた人間である、今のタオの力を。


「おいお前ら、俺達も行くぞ」


「へ、へい」


 呆気に取られていた魔物達もようやく我に返り、ベルーゼに続いてぞろぞろとその場を後にした。



 *



 いつもやっている組み手修行の時のように、エルカとタオが向かい合い、その他の者が遠巻きにそれを見ている。やる気満々のエルカに対し、タオは未だに自分の置かれている状況が信じられずにいた。


「ね、ねえエルカ。冗談だよね? さっきのは本当にわざとじゃないんだって。この通り、謝るから…………ね?」


「別に怒ってないってば。それより、あんたの力が見てみたいのよ。つべこべ言ってないで、かかってきな」


「かかってきなって言われても……私、口喧嘩すらしたことないんだよ?」


「……」


 これ以上何も言うことはないとばかりに、エルカは押し黙った。完全に困り果てたタオはベルーゼ達の方を見やるが、誰も助け船を出すことは出来ない。解放されるには、エルカの言うとおりにするしかない。覚悟を決めたタオは、エルカに向かって走りだした。


「きゃあ!」


 またしても想定外のスピードが出た。あっと言う間にエルカの横を通り過ぎ、蹴躓いて派手に転ぶ。擦り傷だらけになってもおかしくない転び方だったが、体には傷一つついておらず、痛みもない。見かねたベルーゼが前に出た。


「タオ、難しく考えるな。無心になれ。魔族の本能に身を任せるんだ」


「えっ。あ、はい……頑張ります」


 誰もが仲裁に入ると思っていたのに、ベルーゼの口から出たのは意外な言葉だった。ベルーゼ自身も、言った後にハッとなった。だが、いずれにしてもタオが真価を発揮するまでエルカが止めるはずがないので、結局はこれでいいのかもしれない。


(無心になれって言われてもなぁ……。とりあえずやるしかないよね)


 タオは一度深呼吸をして、目を閉じた。その後、薄目を開けてぼんやりとエルカを見据えた。



 …………。


 ………………。



 ……敵…………敵だ。



 目の前にいるのは……友人ではない。



 私の……敵だ!



 タオの心がざわつく。タオの様子の変化に、対峙しているエルカは真っ先に察知した。タオの人格は消えたわけではない。ただ少し隅に追いやられているだけだ。しかし、それもじきに眠る。


(駄目……何考えてんだろ私。私に戦いなんて出来るわけ……)


 タオが一足跳びでエルカに迫った。爪を立てながら繰り出された突きが、エルカの頬を掠め、一筋の傷を作り出す。更に追撃。タオの繰り出す連続突きを、エルカはギリギリのところで回避し続ける。タオが飛び上がり、空中でピタリと制止した。ベルーゼと同じように、翼もないのに宙に浮いている。ベルーゼ達は、開いた口が塞がらない。


 タオが指先をエルカに向け、レーザービームを連射した。エルカはこれもバク転で避けていく。凄まじい連射速度だ。そのせいで、エルカは気付くのが遅れた。タオがレーザーを撃ちながら、もう片方の手に魔力を集中させていたことに……。


「!」


 既にそれは放たれていた。エルカの目の前に迫る魔力の塊。今度こそ避ける暇はない。エルカに着弾した弾は、大きな爆発を起こし、爆風で体重の軽い魔物が吹き飛ばされていく。エルカはどうなったのか……煙でよく見えない。

 その時、煙の中から何かが空に向かって飛び出した。確認するまでもなく、エルカだ。その勢いのままに、タオのみぞおちに頭突きをお見舞いする。タオの息と動きが一瞬止まったのをエルカは見逃さない。タオの腕を掴み、地面に向けてぶん投げた。


(あ、あの馬鹿! やっぱりやりやがった!)


 ベルーゼが駆け出し、落下地点に滑り込むようにして、タオの体を受け止めた。タオが、きつく閉じていた目をゆっくりと開け始める。


「……う……ん……あれ? ベルーゼ様?」


「正気に戻ったようだな」


 ベルーゼの後ろにエルカが着地した。ベルーゼが、呆れと諦めと怒りが入り混じったような顔で、エルカを睨みつけた。


「貴様という奴は……。どうせやるとは思っていたが」


「悪いわね、つい熱くなっちゃったわ。でも大丈夫そうじゃない。タオ、あんたさっきまで自分が何やってたか覚えてる?」


 エルカが上機嫌そうにタオに問いかけた。


「う、うん……ぼんやりとね。気が付いたらエルカに襲いかかってたよ。未だに信じられないんだけど」


 タオが起き上がった。さっきのように、勢い余ることはない。ようやく力のコントロールが出来るようになったようだ。タオの強さにただただ驚くばかりのベルーゼと、複雑な心境のタオに対し、エルカの気分は最高潮だった。


(凄いわこの子。今はまだ荒削りで、私の足下にも及ばないけど、鍛えれば私の最高の遊び相手になりそう)


 エルカの脳内では、既に次の修行のプランにタオが組み込まれていた。タオの力は、必ずベルーゼ軍の大きな戦力になる。魔界征服に確実に近づいたわけだ。しかし、タオを危険な目に遭わせたくないベルーゼは、未だに素直に喜べずにいた。



 *



 あれから三日後、ようやくスケ夫が帰ってきた。魚の詰まった重たい籠を背負って、やっとの思いで帰還した努力も空しく、せっかく獲った魚は、当然のことながら全て腐ってしまっていた。流石のエルカも、腐った物を好き好んで食べたりはしない。エルカの制裁による、自身の死を覚悟したスケ夫だったが、事情が事情なだけに今回は何とかお咎め無しということになった。

 食堂には、食後のティータイムとしゃれ込んでいるエルカと、皆の食事の後片付けをしているスケ夫の二人だけが残っていた。エルカがお茶を啜りながら、三日前の出来事を話した。タオが魔族化したことは、タオと再会してすぐに分かったことだが、詳しいことはスケ夫は初めてここで聞いた。


「うーん、まあ命が助かって良かったでやんすが。タオは本当にここで一生暮らすつもりだったんでやんすかねぇ」


「多分ね。私と一緒で、人間界に未練があるようには見えなかったわ。今はもう、自分の体のことを受け入れてるみたいだしね」


「ふむ。強い娘でやんすね」


「ていうか、本当の意味であの子強いのよ。魔族化したんだから、そりゃあ人間の時より強くなるのは当たり前だけどさ。それにしたって急激過ぎるわ。はっきり言ってベルーゼより強いわよ」


「……」


「本来あれって、自分の手下を増やすための手段でしょ? なのに、その手下が自分より強くなっちゃうなんてこと、あり得るの?」


「……んー……さあ、どうなんでやんしょ。不思議なこともあるでやんすねぇ」


 スケ夫は曖昧に返事をして、作業を続けた。タオの異常なまでのパワーアップ。スケ夫には、思い当たる節があった。


(まあ……姫にはまだ話す必要は無いでやんすね)


 スケ夫は、エルカに悟られないように振る舞った。全ては主であるベルーゼのために。

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