第2話 姫vs魔王

 ベルーゼと他の魔物達は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。いや、意味は分かっても、それが何故エルカの口から出てきたのかが分からない。ベルーゼはしばし考えた後、一つの仮説を立てた。


「瘴気に当てられて、気が触れたか」


 脆弱な人間がいきなり魔界の瘴気を大量に吸い込むと、死にはしないまでも何かしらの悪影響を与えることがある。気分が悪くなったり、昏睡状態に陥るのは決して珍しいことではない。


「ちっ、仕方ない。おい、城まで運んで行って休ませてやれ」


「は、はい」


 ベルーゼが手下に命じた。一時的な錯乱状態だ。暫く休んで、瘴気が体に馴染めば治るだろうと考えたのだ。手下のトロルが、エルカに歩み寄って手を伸ばした。


「やれやれ。まったく、世話の焼けるお姫様だぜ……」





 ────トロルが消えた。たった今エルカの傍に近づき、抱きかかえようとしていたのに、その瞬間に消えた。ベルーゼがある物に気付き、視線を送る。他の手下も同じ方向に目を向ける。そこには…………岩壁に深くめり込んだトロルが白目を剥いていた。一同は再びエルカに視線を戻す。突き出されたエルカの右の拳からは、明らかにトロルの血と思われる液体が、滴り落ちて地面に染み込んでいた。


「汚い手で私に触れるな」


 エルカが、既に意識がないトロルに、吐き捨てるように言った。魔物達を、かつてない恐怖が包み込む。本能が、エルカの恐ろしさを教えていた。しかし、ベルーゼだけは不敵に笑っている。


「ほう……これはこれは。何とも予想外なことだ。貴様、ただの姫ではないな」


「もう一度言う。ベルーゼ、私と戦いなさい。私はそのためにここに来たんだから」


 ベルーゼは、エルカをじっと観察した。こいつ、何が目的だ……?


──────私の手で魔王を倒して、世界に平和を……。


 いや、そんな目は全くしていない。これは、ただのクレイジーな戦闘狂の目だ。ベルーゼは、エルカが本気で自分と戦いたくて、大人しく攫われたということを悟った。


「ふん、なるほどな。確かに腕に覚えがあるようだが、俺を倒そうなどとは、少し自惚れが過ぎるんじゃないか?」


「もちろん、勝てるとは思ってないわ。今の私の力が、魔界の王にどこまで通用するのか。それを確かめたいだけよ」


 エルカが左足を一歩前に出し、拳を握りしめ、両腕を胸の前で構えた。ドレス姿にはあまりにも似合わない、隙の無い構えだ。そのギャップの激しさは、滑稽にすら見える。それを受けて、ベルーゼも戦闘態勢に入った。


「さあて、少しだけ懲らしめてやろうか。あまりナメた態度を取られても不愉快なんでな」


 ベルーゼが地を蹴り、凄まじいスピードでエルカに襲い掛かる。


(まずは、その手癖の悪い右腕を、軽く捻っておくか)


 ベルーゼはその勢いのままに、エルカの右側に回り込み、その右腕を狙って手を伸ばした。




 ベルーゼの視界を覆い尽くす拳。



 物凄い速さで下に流れていく空。



 緑色に染まる視界。




 ベルーゼは、自分の身に何が起こったのか、理解するまで数秒かかった。エルカに手を伸ばした瞬間、エルカにカウンターパンチを顔面に食らい、天を仰ぎながら遙か後方に吹っ飛ばされ、頭から沼に落ちた。

顔面の痛みが後からやってくる。ハッとなり、沼から勢いよく飛び出した。全身がヘドロで覆われて酷い有様だ。数十メートル先にエルカが腕を組んでベルーゼを嘲笑っている。


「馬鹿ね。みくびってるから、そういう目に遭うのよ。さっさと全力で来な」


 まるっきり馬鹿にしたような口調だ。ベルーゼは奥歯を噛みしめた。ヘドロ塗れの体で宙に舞い、エルカの目の前で着地する。ベルーゼは完全に悟った。エルカには、一切の手加減は無用。妃にするのはもう止めだ。今この場で、全力で殺す。それがベルーゼが出した結論だ。


「さっきのスピードを見切ったぐらいで、いい気になるなよ、小娘が。これから見せるのが、魔王ベルーゼの真の恐ろしさだ」


 ベルーゼの体がふわりと浮いたかと思った次の瞬間、エルカの周りを縦横無尽に高速移動し始めた。あまりの速さに、手下達は全くベルーゼの動きを追えない。エルカは目で追おうともせずに、その場を動かずにじっと正面を見続けている。ベルーゼはすぐにはエルカの間合いに入らない。しかし、徐々にだが確実に距離を詰めていく。


(くっくっく……恐怖で身動きが取れんようだな。今更後悔してももう遅い。このまま心臓を貫いてくれる!)


 ベルーゼが高速移動を続けながら、ナイフのように鋭い爪を立て、エルカの心臓に照準を定めた。


(死ね!)


 ベルーゼが、エルカの真後ろから突進した。次の瞬間、エルカが体を右にずらし、ベルーゼの爪は空を切った。標的を失い、前のめりになったベルーゼに、エルカは手を伸ばし髪を掴んだ。


「なに!?」


「うらあぁ!」


 頭を引き寄せて、後頭部に膝蹴りを食らわす。続けざまに首筋に肘打ちを食らわすと、ベルーゼが俯せに地面に叩きつけられる。脚を目一杯引いてから横腹を蹴り上げると、ベルーゼの体が回転しながら宙を舞った。今度は胸倉を掴み、自らの上体を大きく後ろに逸らす。そして顔面に向かって頭突きを一発、二発、三発、四発、五発。手を放し、膝から崩れ落ちるベルーゼの顔面に、渾身の力を込めた拳の一撃をお見舞いすると、その体は岩壁に向かって吹っ飛び、トロルの隣に叩きつけられる。そして糸の切れたマリオネットのように、ベルーゼはそのまま倒れ込んだ。


「あんたねぇ、いい加減にしなさいよ。いつまでもブンブンブンブン、ヘドロ撒き散らしながら蝿みたいに飛び回ってんじゃないわよ、鬱陶しい。これでもまだ本気になれないっていうなら、本当にこのままぶっ殺すよ!」


 エルカが大股でベルーゼに歩み寄り、髪を掴んで引き起こした。ベルーゼは、白目を剥いて泡を吹いている。整った顔も無惨にボコボコにされていて、どう見ても意識がない。


「…………ふざけてんの?」


 ベルーゼに平手打ちをかます。しかし、全くの無反応だ。まさか…………いや、そんなはずは……。エルカの脳裏に、嫌な予感がよぎる。魔物達に視線を送ると、揃いも揃って恐怖で目を見開いて震えていた。信じられない……信じたくない……。今のが、自分が子供の頃から戦うことを夢見ていた、魔界最強の男の全力だったなんて。

 エルカは絶望した。これから、一体何を目標に生きていけばいいのか、分からなくなった。手を放すと、再びベルーゼが倒れ込む。それは、あまりにも虚しすぎる勝利だった。



 *



 ベルーゼ城。そこの玉座には、本来の主ではなく、一人の人間の女……エルカが座っていた。足を組み、ふんぞり返り、あからさまに不機嫌な様子だ。

 魔物達はそれを遠くから、目を合わせないように見ていた。時折聞こえるエルカの舌打ち、エルカの溜息。その度に室内に緊張が走り、魔物達は俯いた。


「…………がっっっっかりだわ」


 魔物達が、ビクッと体を震わせる。ベルーゼに対しても、ここまでの恐れを抱いた事は無い。エルカは、誰ともなく話を続ける。


「私はね、ずーっとこの日を楽しみにしていたの。魔王がいつか、あの糞つまらない城から、私を攫ってくれるのをね。今までも他の国で、魔物による王族の誘拐事件が頻発していたから、次こそは私の番かもと思って、毎晩のようにバルコニーから空を見上げていたわ。魔界に行きたくても、行き方が分からなかったからね」


 エルカが足を組み直し、頬杖をついた。自身の夢を語る穏やかな口調とは裏腹に、その表情はどんどん険しさを増していく。


「私が魔界のことを知ったのは、五歳の時よ。絵本を読んで知ったの。法も秩序も何もない、力こそが全ての、野蛮きわまりない世界。最高だと思ったわ。そこでなら、私の欲望のままに生きていける。王族なんて退屈でかったるい人生なんかよりも、魔界の戦士としての人生の方がよっぽどワクワクする。そして今日、長年城の者達に隠れて続けてきた修行の成果を、とうとう試す時が来たと思ったの。その結果があれよ…………」


 魔物達は気が気ではなかった。爆発寸前の核爆弾と一緒にいるような気分だ。


「何? 何なのあのザマは? あれがあんた達のボス? よくあんなんで魔王なんて名乗れたものね。こんな人間の小娘一人にボロクソにやられて、あんた達も震えているだけ 。最初に言ったけど、ほんの腕試しのつもりだったのよ。まずは今の私と魔王の力の差を確認して、その後に打倒魔王を目標にして、魔界で修行するつもりだったの。それなのに、いきなり目標を失ってしまった。どうしてくれんの? 私は一体ここに何しに来たの?」


「……………………」






「聞いてんのかよ雑魚共ォ!!!!」


「は、はいいいい!!」


 お前が強すぎるんだろ……。全員が心の中でそう呟いたが、決して声には出さなかった。もはや泣きそうになっている者もいる。頼むからもう帰ってくれ…………誰もがそう願っていた。


「……一応聞いておくけどさ。魔界にはベルーゼより強い奴はいないわけ?」


 エルカの予想外の言葉に、一同はお互いの顔を見合わせた。


「え、えーと……その……」


「んー……何と言いますか……」


「いるかもしれないし……いないかもしれないし」


 歯切れが悪そうに、魔物達が口々に話し出す。煮え切らない様子に、エルカのイライラが募る。


「あー、もういいわ。魔王より強い奴がいるわけないものね。聞いた私が馬鹿だった。人間界に帰るわ。城には戻るつもりはないけど、とりあえずここにはもう用はないし。せめてもの鬱憤晴らしに、あんた達を皆殺しにしてからね……」


 殺気を露わにし、エルカが玉座から腰を上げた。魔物達が悲鳴を上げながら後ずさる。


「ま、待て……!」


 エルカと魔物達が、その声の方に振り向く。別室で治療を受けていたベルーゼが、杖を突きフラフラになりながら歩いてくる。全身ズタボロで、見ていて実に痛々しい。かつての魔王としての威厳は微塵もない。魔物達が慌てて道を空けた。


「あら、ようやくお目覚め? でももう遅いわ。もうあんた達に用はない」


「……俺より強い奴を探しているんだろう? それならいるぞ」


 ベルーゼの言葉に、さっきまでゴミを見るような目をしていたエルカが、僅かに反応を示した。


「へえ……知ってるんだ? 誰よそいつ。どこにいるの?」


「…………どこにでもいる」


「は?」


「恥ずかしい話だが……魔界には俺より強い奴なんてゴロゴロいる。むしろ俺なんか底辺だ。魔界の落ちこぼれの寄せ集めが、このベルーゼ軍なんだ」


「何それ。そんなんで魔王とか名乗っちゃってたの? 魔界じゃ雑魚だから、人間界を征服しようとしてたわけね。まったく……こんなのと戦うのを長年夢見てたなんて、馬鹿みたいだわ」


 エルカは怒りを通り越して呆れていた。しかし、それと同時にホッとしたのも事実だ。ベルーゼの言うことが本当なら、まだ魔界に残る価値はあるというわけだ。まだ見ぬ強敵との戦いを想像するだけで、自然と気分が高揚する。


「まあいいわ。詳しく話を聞かせてもらおうじゃないの」


 エルカが目を輝かせながら、続きを促した。ベルーゼは、自分がとんでもない物を魔界に持ち込んでしまったということを、改めて認識した。

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