第11話2-2 匂いを追って


「まず、どこから探す?」


「捜査の基本は現場だろうが。その、松尾さんの入院してたっていう部屋へ行こうぜ」


 小林はさっさと先に立って歩いていく。


「おい? おまえ病室知ってんのか?」


「ぬかりはねえ。どこで行方不明になったか、受付で確認したからな」


 紀久子のいた集中治療室は一般病棟とは階が違う。

 小林はさっさと見取り図をチェックすると、エレベータに乗り込んだ。他の四人もあわてて走り込む。

 集中治療室のある階は喧噪に満ちていた。小林達と入れ替わりに車いすを押す看護師がエレベータに乗り込んでいく。昨日のG上陸とバシリスク事件のせいで、重傷患者が多数運び込まれているのだ。

 堂々と歩き出す小林の後ろをついていく他の四人は、身をすくめながら廊下の端を歩いているが、医療関係者以外の人々も多く行き交っているため、彼等を怪しむ者はいなかった。


「ここ……勝手に入っちゃって良かったのかな?」


「んなこと言ってる場合か」


「でも…………こうやって見てても、この先どうしたらいいのか分からないでしょ?」


 珠夢の言う通り、到着した病室はなんの変哲もない。

 一応、捜索のため現場保全がなされているのか、新しい患者こそ入っていなかったものの、なんの痕跡も見あたらない。


「自分で出て行ったんなら、置き手紙くらいあるかも、と思ったんだけどな」


「そんなもんがもしあったとしても……あの高千穂ってヤツが持って行っちまってるんじゃないか? 癪だけど、もう一回アイツに話を聞いてみるしか……」


 小林が、風呂に入っていない天然パーマの頭をくしゃくしゃと掻き乱しながら病室を出て行こうとしたその時。


「ちょっと待って下さい!! これ……松尾さんのメガネだ」


 明の手には薄いピンク色をした金属縁のメガネが握られている。どうやら、マットレスと背もたれの間に挟まっていたようだ。


「何? 間違いないのか?」


「はい。フレームのこの……鼻を乗せる部分の形、絶対間違いない……です」


 明はそのメガネを愛おしげに見つめた。


(こいつ……こんな顔するんだな)


 小林は心の裡で呟いた。

 懐かしさと哀しさの入り混じったような、複雑な表情でメガネを手にする明。紀久子に対する明の思いの深さを知ったような気がした。


「…………おかしい。松尾さんは、いつもこのメガネを掛けていました。近視はけっこうひどい方だって言っていたし眼球が傷つくからって言って、コンタクトも持っていなかったはずです。メガネ無しで外出するなんて……あり得ない」


「明……それ、大事に持ってな。松尾さんが見つかった時に、お前の手で返してやるんだ」


「はい」


 小林に言われた明は、小さなメガネをそっと抱きしめた。まるで、紀久子本人を抱きしめたかのように、胸が熱くなる。かすかに紀久子の匂いまで感じるようだ。

 その匂いを忘れたくなくて明はもう一度、確認するようにメガネを間近で見つめた。


「え?」


 気のせいではなかった。

 懐かしい、優しい匂いがする。海底ラボで出会った時に、ふわりと漂っていたあの紀久子の匂いだ。

 だが……メガネなどがこんなに匂いを発するものなのだろうか?


「小林さん、これ……」


 そう言って、ふと目を上げた明は、そこに色のない影のように紀久子の姿が浮かび上がっているのを見て息を呑んだ。


「ま……松尾さん……」


「なんだ? どうした明、お前、大丈夫か?」


 虚空を見つめて紀久子の名を呟く明の顔を、加賀谷が心配そうにのぞき込む。


「違う。違うんです。俺、松尾さんの後を追えるかも知れない!」


「な……なんだって!?」


「匂いが……松尾さんの匂いが形になって見えるんです。これはたぶん、G細胞の……」


「G細胞? それが今何の関係があるんだよ?」


「それは……その……」


 明は言い淀んだ。ガン治療のために、自分にG細胞が組み込まれてしまったことを言うべきだろうか。だが、守里のような反応をされるのではと、明は恐れた。


「いえ、とにかくすぐに後を追います。早くしないと匂いが全部消えてしまう」


「匂いつったってお前、イヌじゃあるまいし……っておい!! 明!! 待てって!!」


 会話もそこそこに病室を飛び出していった明の後を全員が追った。

 明は一気に階段まで走り、迷うことなく階下への道を選んだ。


「お……おい、小林、あいつおかしくなったんじゃ……ねえよな?」


「ハァハァ……お兄……ハァ……馬鹿なこと言わないで。……何を根拠にそんなこと……言ってンのよ?」


 加賀谷の言葉を聞きとがめたのは、珠夢であった。息を切らせ、付いていくのが精一杯といった様子でありながら、目を三角にして兄を睨んでいる。


「あいつ、匂いって言ったろ? 仮に匂いが追えるとしたって、人間の数千倍も嗅覚が鋭いっていう警察犬だって、あんなスピードで追えたりしねえぜ?」


「……明の妄想だってのか?」


「そうは言わねえけど……普通の人間が匂いで追跡できるなら、そもそも警察犬なんかいらねえだろ?」


 だが明には歩いていく紀久子の姿が、まるでピントのぶれた写真映像のように残像としてそこに見えていた。紀久子が歩む速度を遅くした場所には濃く、速くした場所には薄く、しかし、しっかりと紀久子の姿が見えている。


(なんだこの感覚……どうして、匂いが視えるっていうか……嗅覚が視覚を刺激するんだろう?)


 しかも、見えているのは紀久子だけであった。他の匂いはもちろん今まで以上に感じている。だが、それらはまったく視覚情報として感じられないのだ。

 明はついに病院の玄関までたどり着いた。


「おい!! おい待てよ明!! このまま行く気か?」


「当然です!! 一刻も早く助けないと!!」


 振り向いた明は、怒ったように答えた。

 どうしてもこのまま松尾さんを探し、助け出したい。彼等に変に思われているのは分かるが、邪魔だけはされたくなかった。


「心配するな。他に情報もえんだ。止めやしねえ。だけどこのままのスピードで走られたら、オレ達はついて行けねえ。お前も松尾さんを見つけた時、一人じゃ困るだろ。車で後を追うから三十秒だけ待て」


「……はい」


「よし、車取ってくる」


 そう言い捨てると小林は駐車場へ走った。

 そして、すぐに自分の軽自動車に乗って現れた。あらためて見ると古い車だ。洗車もしていないのか、車体の色も白なのかアイボリーなのかも判然としない。

 エンジンからカラカラと音がするのは、来る時に飛ばしすぎたせいだろうか。排気ガスも真っ黒だ。


「車内がスゲエ熱気だぜ。エアコン効き始めるまで窓全開だな」


「ま、エアコン付いているだけ大したモンだ。行こうぜ」


「熱気……って、ちょっと!! どいてください!!」


 それまで暗い顔をして黙り込んでいた広藤が、乗り込もうとしていた加賀谷をいきなり押しのけて、後部座席へ上半身を突っ込んだ。


「うあああああああ!!」


 いつも冷静な広藤らしからぬ、悲鳴が響き渡る。いや、悲鳴というより慟哭に近かった。


「痛ってえな!! どうしたんだよ? いきなり!!」


 突き飛ばされてアスファルト面に転がった加賀谷が、顔をしかめて広藤に抗議する。


「ダメだ……全部死んでる」


 広藤が抱えてのぞき込んでいるのは、先程マンションを出る際に持ち出していた、中型の飼育ケースだった。明の失神騒動に自分の母親のこともあった。事件が重なり、あわてていたこともあってつい熱気のこもる車内に置きっぱなしにしてしまったのだ。


「こんなことなら……持ち出したりしなければ良かった」


「…………なんだ……虫のことか……よ」


 加賀谷が言うが、言葉とは裏腹にその表情は深刻だ。

 学生科学アカデミー賞で小学生時代から何度も優秀賞を貰っている広藤が、昆虫に関してはいっぱしの研究者並みの知識を持つことは、周囲の誰もが知っていることだ。

 しかし、それが母子家庭でその母親も夜勤が多い広藤が、寂しさを紛らわせるためにのめり込んだ結果であることを知るのは、隣に住む加賀谷兄妹だけであった。


「母さんや明さんのお知り合いの命がかかっている時に……たかが虫のことで騒いで……すみません。でもこいつらの命に対して、僕は責任がありました。きちんと葬ってから追いかけますから、みなさん、先に行って下さい」


「広藤君、すまなかった。俺も手伝う」


 顔を伏せたまま肩を落とす広藤に言ったのは明だった。

 一刻も早く紀久子を助けに行きたい気持ちはある。だが明には、彼にとってその虫たちがいかに大切だったかが分かってしまったのだ。G細胞で活性化した明の嗅覚が、広藤の悲しみのフェロモンを強く感じていた。

 考えてみれば、広藤の母親もまた行方不明なのだ。明は、焦って先走ろうとしていた自分にようやく気付いた。


「すみません。明さん」


「いや。俺の方こそ焦ってしまってすまない」


「ねえ広藤君、この子、生きてるんじゃない?」


 珠夢が指さしたそれは、二匹の幼虫であった。

 ケース内のほとんどの幼虫が真っ黒になって死んでいたが、黄緑色に黒いトゲを持つ幼虫。そして緑色の全身に黄色い斜めの幾何学模様の入った幼虫の二匹が、わずかに体色を残してヒクヒクと体を動かしている。


「ああ……オオミズアオとメンガタスズメだ。でも、ほとんど体液を吐き出してしまってる。こうなったら、まず助からないんだよ……」


「そう……でも、まだ生きてるのに埋めちゃうわけにも……そうだ!! あの特製ドリンク、飲ませてみたらどうかな?」


 珠夢が目を輝かせて、ポケットからあの秘薬ドリンクを取り出した。


「やめろ珠夢。とどめ刺す気か?」


「お兄!! ひどいこと言わないでよ!! お婆ちゃん、人間じゃない生き物にも効くって言ってたでしょ!!」


「だってお前、明はそれ飲んでぶっ倒れたんだぞ?」


 たしかに加賀谷の言う通りではあるが、その二匹の幼虫は既にほとんど動かない。どちらにせよ助からなさそうではあった。


「ありがとう珠夢ちゃん。気休めかも知れないけど、やってみるよ」


 広藤はティッシュに赤いドリンクを含ませ、瀕死だった二匹の幼虫に絞り出すようにして与えてみた。

 二匹の幼虫は口元に現れた赤い水滴に吸い付くと、わずかに飲み始めたように見えた。そして不思議なことに目に見えて動きが良くなっていく。


「ほらぁ! 私の行った通りでしょ?」


 あれだけ弱っていたのだからこれで大丈夫とは言い難い。だが広藤は、珠夢の思いやりが嬉しかった。


「水分が良かったのかな? 珠夢ちゃん、ありがとう。二匹だけでも助かってくれると気が休まるよ。でも、この二匹はここに放していった方がいいみたいだな」


 連れて行ってもしこの二匹が死ぬようなことがあれば、珠夢の気持ちを無駄にすることになる。彼女の残念そうな顔を見たくなかった。

 広藤は病院の植え込みを見渡した。

 病院の周囲には、少々多すぎるほど樹木が植えられている。除草が行き届いていない垣根には、ススキやヤブガラシも生えてきていた。


「オオミズアオの食草はこのイロハモミジだし、メンガタスズメは結構アバウトに何でも食べる種類だからきっと大丈夫だよ」


「生き返るといいね。この残りのドリンク、ここの草に掛けておいてあげるよ」


 珠夢は、赤いドリンクを広藤が幼虫を放したあたりにばらまいた。


「すみませんでした。さあ、松尾さんを探しに行きましょう」


ようやく落ち着いた様子の広藤に、明もほっとして微笑んだ。


「松尾さんだけじゃないよ。君のお母さんもだ。必ず助け出そう」


「はい」


 明は軽く広藤の肩を叩くと、今度こそ勢いよく走り出した。

 真っ直ぐ病院の門をくぐり人気の絶えた町へと駆ける姿は、あっという間に小さくなっていく。


「お……おい待てって!! やっぱ、異常に速えなアイツ……」


 あわてて軽自動車に乗り込んだ四人は、疾走する明を追って走り始めた。


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