第6話1-5 紀久子



「痛………」


 紀久子は激しい頭痛を感じて目覚めた。


「松尾君! 目が覚めたのか?」


 目にまぶしい光が飛び込み、自分をのぞき込むひとつの顔がぼんやりと見える。

 長い間意識を失っていたような気がする。目がなかなか像を結ばない。


「……ここは?」


「国立病院だ。君はかなり危険な状態だったんだぞ。無理しやがって……」


「高千穂……さん?」


 つぶやきながら、無意識に右手で枕元を探る。


「手を動かしちゃダメだ。点滴が外れる……そうか。メガネだな? どこに行ったんだろう?」


 紀久子の枕元をごそごそと探っているのは、彼女がよく知っている声の持ち主であった。

 高千穂(たかちほ)守里(もりさと)。紀久子の一つ年上で、都内の国立大学で生態系工学の準教授を務めている。


「今、ナースコールを押した。すぐに看護師が来るよ」


「ここ……病院ですか?……集中……治療室?」


 紀久子はベッドの中で周囲を見回した。

 特徴的な真っ白の壁が周囲を取り囲んでいる。同じく真っ白なベッドの傍らには心電図や血圧、脳波をモニターする装置が置かれていた。自分の体から出たいくつかのチューブがそれらの装置に繋がっていることにようやく気付き、紀久子は少し苦笑いをした。


「ごめんなさい。心配掛けたみたいですね……」


 そう呟いた途端に、おぞましい事件の記憶が蘇る。フラッシュバックというやつだ。

 だが、あの時起きたことが、現実だったのかどうかも判然としない。

 襲い来るうねうねとした触手状の白い怪物。その先端から生えてくるイヌやネコ、ネズミ、サルといった動物たちの体の一部。分離して襲いかかってくるうつろな目の動物たち。

 あの怪物に、勇敢に立ち向かった少年の名は、何だっただろうか。

 そして、彼はどうなったのであったか……自分は彼に、特別な感情を抱きかけていたはずなのに、どうしても思い出せない。

 無理に思い出そうとして激しい頭痛を感じ、紀久子は額に手を当てて呻いた。


「まだ無理をするんじゃない。君はあの事件から丸五日間、意識が戻らなかったんだぞ。今はゆっくり休むんだ。すぐご家族にも連絡が行くだろう」


 優しげな目で見つめる守里。彼は、紀久子の恋人である。

 意識を失っていたのなら面会謝絶のはずだ。本来なら身内しか面会できない状態であったのだろうが、家族に代わって付き添ってくれていたのだろう。

 思えば、紀久子が海底ラボに赴任して以来、ここ数ヶ月会っていない。感謝と懐かしさに胸が熱くなった。


「高千穂さん、ありがとう……付き添っていてくれて。あの、八幡先生達は?」


 作業用パワードスーツを借りて、海底ラボを脱出しようとしたところまでしか、紀久子の記憶はない。

 たしか彼等は自分とは別に、深海作業船に分乗していたはずだ。無事に地上に戻ることが出来たのだろうか。だが、守里は少し目を逸らすと暗い表情で言った。


「八幡先生はご無事だよ。今、Gがこの首都圏に上陸していて、責任上その対策に追われているはずだ。自衛隊とMCMOの最新兵器が、Gを処分するために出動した。ご家族がここにいらっしゃらないのは、ご自宅へ避難準備でいったん帰られたからなんだ」


「Gが……!?」


 紀久子は大きな目を見開いて口に手を当てた。

 脳裏に深海の暗闇を歩いてくる、巨大な姿が浮かんだ。しかし、その記憶に何故か恐怖は感じない。

 脱出時に怪我を負い、パワードスーツの制御を失って沈み行く自分を、Gはたしかに優しくつかみ上げてくれた。だが、記憶はそこで途切れている。あの時、Gはどうして自分を助けてくれたのだろうか? それとも何か別の意図でもあったのか?

 その表情を恐怖と勘違いした守里は、布団の上から優しく紀久子の体を叩いて言った。


「大丈夫だ。人間も十五年前とは違う。巨獣に対応する武器も作戦も進化しているんだ。最新兵器が必ずヤツを倒してくれるだろう。しかし、この事態が落ち着けば八幡先生が責任をとらされるのは間違いないだろうな……。実験の失敗でGが復活して逃げてしまったなんていうのは、どう考えても八幡先生のミスだ」


「そ……それは違います。Gの復活はたぶん、シュライン博士のせいなんです」


「ふむ……その名前は八幡先生達も口にしていたらしいが……マーク・シュラインなんて人物はWHOにも米軍にも、記録に残っていないんだ」


「え!? あ……痛っ」


 思わず上体を起こした紀久子は、今度は傷の痛みに頭を抱えることになった。

 気がつけば頭だけでなく体中が痛む。特に、あの白い触手に貫かれた右肩はひどく痛んだ。ギプスか何かで固定されているようだが、かなり腫れてもいるようだ。


「おやおや。怪我人を興奮させてはいけませんね」


「あ、すみません、先生」


 ようやくナースセンターから連絡が行ったのであろう。年配の医師が看護師数人を伴って入室してきた。

 簡単な診察を終えた医師は、栄養点滴だけを残して紀久子の体からすべてのチューブを取り去った。そして看護師に紀久子を一般病棟に移すよう指示する。検査結果からみて、脳や内臓には大きなダメージはないとのことだった。

 看護師がそそくさと立ち去ると、身軽になった紀久子は上体を起こして守里に聞いた。


「さっきのお話……どういう事ですか?」


「どうもこうも、言った通りだよ。シュライン博士という人物は存在しないんだ」


「でも、そんなはずは……シートピアでは、十人のトップブレインの一人でしたし……なにより、私達の目の前で怪物に変わったんです……あ、そうだ。私も彼の論文も何本か読みました……」


「ふうむ……だけど、君は本当に人間が怪物になんか変身するなんて思っているのかい? それに、その論文はおそらくマークじゃなくてマックス=シュライン。書いた本人は5年前に亡くなっている」


「そんな…………」


「深海ラボで何があったのか、まだ具体的には公表されてないけど、Gが蘇ったことも、リケッチア感染症でたくさんの人が亡くなったことも、すべて八幡先生の管理責任だということになっている……」


「感染で亡くなった!? いったい、誰が?」


 紀久子はまた驚きの声を上げた。

 たしかに、シュラインは自身の細胞をばらまいた。

 その方法は、宿主の細胞内に寄生するリケッチアを利用していたし、最初に襲われた第一ブロックは酷い有様だった。だが、八幡と伏見教授の素早い判断で、抗生物質の投与が行われ、ほとんどの人が急性症状を脱していた。

 圧壊してしまった第二ブロックで亡くなった人はいたかも知れないが、感染で死んだ人などいないはずだ。


「気を失っていた君が知らないのも無理はないな。リケッチアに感染した人のほとんどが亡くなったんだ。君の研究室の雨野いずも君も……ダメだったと聞いている」


「いずもちゃんが!? 嘘でしょう?……」


 同じ職場のいずもとは、もっとも仲の良い友人であった。最後に見た時、彼女は体調不良を訴えていなかった。あの状態から、死亡するなどということがあり得るのだろうか?


「嘘じゃない。君のいた八幡研究室で助かったのは東宮だけだ。そのこともあって、八幡先生達は厳しい立場に立たされているんだ」


 たしかに、守里と同級生で同じ細胞生物学研究室所属の東宮照晃ひがしみやてるあきだけは、ネズミにも犬にも噛まれていなかった。

 紀久子は、自分の記憶をますます信じられなくなってきた。

 あの時。

 シュラインは自分から何体もの動物を分離して見せた。そして動物たちを生体電磁波で操り、人間までも操ってみせた。そして、その不気味な能力で全ての生物を支配すると宣言したのだ。

 考えてみればそれは、あまりに突拍子もなく、荒唐無稽な話だ。

 しかし、あれが夢だったのだとすれば、いったいどこから夢だったのか?

 逃げ場のない深海で、迫り来るバイオハザード。触手の変形した突起に肩を貫かれた激痛。そして、伏見教授の息子、明と共有した温かく淡い思い。

 それも夢だったのだろうか? 紀久子には気持ちの整理が必要だった。


「ごめんなさい高千穂さん…………少し……休ませてくださいませんか?」


「もちろん。やっと意識を取り戻したばかりだからね。ゆっくり休むといい。」


 守里は優しく笑うと、紀久子の額にキスをした。


「ありがとう」


 紀久子は赤くなって額に手を当てた。

 後ろ姿を見送り、紀久子が布団に潜り込もうとしたその時、急に激しい震動が病院の建物を揺らした。

 立ち去りかけた守里は慌てて駆け戻り、紀久子を落下物から守る。


「な……なんだ!?」


「地震?」


 すると、遠くで窓ガラスの割れる音が響き、看護師のものらしい女性の悲鳴が響き渡った。


「どうも何かあったらしい。僕が見てこよう。君はこのままベッドにいるんだ。」


 あわててベッドから降りようとする紀久子を制すると、守里は廊下へ飛び出した。

 集中治療室周辺には窓がない。十メートルほど走って重い仕切り扉を押し開くと、その向こうに中庭側に面する窓が見えた。

 さっきの音は、その窓が割れた音らしい。内側に破片が飛び散っている。

 そこからなら外の様子がうかがえるはずだ。

 窓枠に残ったガラスを肘で叩き割り、窓から顔をのぞかせた守里は、思わず息を呑んだ。


「な……なんだコイツは……?」


 そこは病院の中庭だった。その植え込みの木々の間に、鮮やかな緑色をした、巨大なトカゲ状の生物が地面でのたうっていたのだ。

 どこかから落下してきたらしく、アスファルトには大きなひびが入っている。ムチのような尻尾が打ち振られるたびに、木々が薙ぎ倒されていく。

 もがく生物の腹部には大きな黒い穴が開いていて、そこから肉の焦げる異臭を放っている。生きているのが不思議なほどの重傷に見えた。

 トカゲ状生物は、何度も欠伸でもするかのように口を開け閉めしつつ、しかし爬虫類特有の無表情な顔には、苦痛の色は見受けられない。


「巨獣だと……馬鹿な。G以外の巨獣が蘇ったなんて聞いてないぞ」


 守里は逃げることも紀久子のことも忘れ、呆然とその巨大な爬虫類の姿を眺めた。


「キ……キシャアッッ!!」


 トカゲ状生物はしばらく虚空を掻き毟るように手足をばたつかせていた。

 絶命する……そう守里は思ったが、そうではなかった。怪物は腹這いになると手足を踏ん張って体勢を整えたのだ。そして自分の体をしげしげと観察したかと思うと、黒焦げの傷にいきなり尖った口先を突っ込んだ。


「う……何をやっているんだ!?」


 ノコギリ状の牙の生えた口が、白く変色した肉が引きちぎり、それを二、三度咥え直して呑み込むのを見て、守里はようやく怪物のしていることを理解した。

 トカゲ状生物は、異臭を放つ自分の肉を食べ始めたのだ。

 肉の千切られた痕からは、大量の鮮血が吹き出す。それを、ピンク色の舌が丁寧に舐めとっていく。その異様な光景に、守里は吐き気を覚えて口に手を当てた。

 焼けた肉が食いちぎられた後の傷口が、見る見るうちに再生していくのを見て、その奇怪な行動の意味に気づいた。


「焼けてしまった組織は再生しない。自分で死んだ組織を取り除いて再生を助けていたってワケか……」


 それにしても何という再生力か。

 これほどの速度で細胞が再生する生物など、守里は見たことも聞いたこともなかった。ふと、気付くと怪物に注目しているのは自分だけではない。

 医師や看護師と思われる人物が数人、呆然と窓から見物している。ほとんどの職員や患者が避難しようとしている中、逃げようとしない彼等は不思議だった。

 ほんの数分で、傷を癒やしたトカゲ状生物は数回頭部を上下させると、両目の上から奇妙な形状の突起物を出した。一見、先太りの角のように見えるそれは、ゆっくり動き始め、やがて回転するように動き始めた。

 その動きは見ているうちにどんどん早くなっていき、数秒後にはもう影のようにしか見えなくなってしまった。初めて見た者であれば、そこに角がある事さえ気づかないかも知れない。


「うっ……なんだ……耳鳴り?」


 守里は耳を押さえた。

 耳元で蚊でも飛んでいるかのような、不快な耳鳴りが襲ってきたのだ。すぐにその耳鳴りは消えたが、頭の芯に何か重いものを置いたような不快感だけは、残ったままだ。


「なんだったんだ? 今のは……」


 何事もなかったように首を左右に何度か傾けたトカゲ状生物は、その場で休んでいるようであった。その奇妙な光景を見ているうちに、守里はトカゲ状生物の姿が次第に薄くなってきたような不思議な感覚にとらわれた。


「な……んだ? 僕の目がおかしくなったのか? それとも錯覚?」


 だが、それが錯覚ではないことはすぐに分かった。

 背後の壁が透けて見え始めたのである。体色を変化させ、また同時に皮膚の質感を変えることによって、背景に溶け込みつつあったのだ。

 色彩の変化に伴って、体の凹凸までも変化させ、地面に平たく埋没していく。


「カメレオン……いやそれどころじゃない。まるでタコの隠遁術じゃないか!!」


 体長約四十メートル、尻尾までの全長では百メートルはあろうかという巨大なトカゲ状生物の姿が、数十秒と経たずに完全に見えなくなってしまった。

 そして、一瞬間をおいて突風が吹き抜けたかのような衝撃が建物を揺らし、外壁がバラバラと崩れ落ちる。

 守里は、はっと気づいた。

 これは見えない巨大な何かが外壁を登り、走り去ったことを意味するに違いない。つまり、ヤツは姿を見せないまま、街中へ出て行ったことになる。


「まずい!! 被害が出る前に、見えない巨獣が潜んでいることを当局に知らせないと!!」


 だが、取り出した携帯は通じない。災害状況下で通話規制が敷かれているのだ。

 守里は走り出した。施設の緊急連絡電話を使えば、対策室に連絡できるはずだ。十五年前の巨獣大戦時には、人間を捕食するタイプの巨獣も多かった。

 巨獣の生態に関して早急な情報伝達で被害を防ぐことは、幼稚園児から教育が行われている。そういう意味で守里の判断は極めて正しかったと言える。もし、トカゲ型の巨獣……バシリスクが、ステルス能力を持つだけの、ただの巨獣であったならば。



***    ***    ***    ***



 守里が部屋から出た直後、紀久子は奇妙なことに気づいた。


(あれ? 私……メガネ掛けてないのに……見えてる)


 中学生の頃から近視が進み、長年メガネの世話になってきた紀久子は、メガネが鼻に当たる部分をすっと持ち上げるクセがあった。

 無意識にそのクセをやろうとして、そこにメガネがないことに気がついたのだ。


(でも……見えてる。すごく、よく……)


 紀久子は視力を確認するため、片目をつぶって扉の方を見た。


「ひっ!!」


 息を呑んだのは、そこに金髪ブロンドの少年の姿を発見したからであった。

 いつの間に病室へ入り込んだのか、薄布を纏った美しい少年が、入り口付近に立ってこちらを見つめている。

 紀久子はその姿に見覚えがあった。

 シュラインだ。


『僕が見えたようだね……紀久子』


「見えた? あなた、一体何を言っているの?」


 紀久子は身構えた。

 美しい外見に騙されてはいけない。この少年の正体は、全身に無数の小動物を融合させ、そのバイオマスで無闇と太った老人なのだ……いや、逆にこの少年こそが、老人、シュライン教授の正体というべきかも知れない。


『僕は今、ここにはいないんだ。人間の姿をとるのは面倒でね……ただ、僕の細胞を受け入れた人間には、脳へ直接ヴィジョンを送ることが出来るようになったんだよ。やっと強力な発信器を手に入れたんでね』


 言われてみれば、少年の姿は妙に平面的だ。その体を通して、後ろの壁がうっすらと透けて見えるような気がした。


「私に……あなたの細胞が……?」


『君の肩を貫いてあげたのは覚えているかい? あの時さ。すぐに操ることも出来たんだけど、人間社会に感染源を残しておきたかったんでね。潜伏させておいたのさ』


「やっぱり……あなたがシュライン教授なのね?」


 シュラインは、自分で歩けもしないほど太った老人であったはずだ。

 だが、触手と動物たちを分離した後、そこから現れたのが今の美少年であった。


『言っただろう? 十五年前、僕は偶然の事故で群体巨獣の細胞を浴び、他の生物と融合する能力を身につけたと……以前の姿は、肥大したバイオマスを隠すためのカムフラージュさ』


「細胞を植え付けられたって……私は私。あなたなんかに操られたりしない」


 紀久子は、気丈にも答えた。

 首筋がそそけ立つような恐怖を感じる。気取られないよう、出来る限り落ち着いた声を出したつもりだったが、語尾がかすかに震えるのを止めることは出来なかった。


『君の決意はどうでもいい。そんな意思なんかすぐに変わるよ。そして、本心から僕の役に立ちたいと願うようになる……』


 ふいっと目をつぶったシュラインは、もう一度目を見開いた。


「あっ!!」


 開いたその目は、光を吸い込む黒さだった。

 しかも、その目だけがどんどん大きくなっていく。ついに、顔の半分以上を目が占めるようになった時、紀久子は何かに打たれたように、ベッドの上に仰向けに倒れた。


『起きなさい』


 シュラインの声が紀久子の脳に響く。

 それを紀久子は、天上から降る鈴の音のように、快く感じた。

 先程と同じ声とは思えない。あれほど恐れていたのが、まるで無意味に思えた。


「……はい」


 紀久子は素直に起き上がった。


『着替えて、ここから出るんだ。おまえには大事な仕事が待っている』


「はい」


 虚空に向かって返事を返した紀久子は、ベッドから自然に降り立つと、誰もいない病室を、確かな足取りで出て行った。

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