ss-10 烽火      

 トゥバ・シ様のお言葉が、我が胸中に言いようのなきおりたたえさせる。

 ――その戦棍の、鈍りつつあること。

 喝破かっぱを頂戴するまでもない。我が差配さはいは、来たるべき南人との戦いに向け、トゥバを研ぎ澄ますにあった。陋巷ろうこう逼塞ひっそくせる余燼よじんあぶり出し、殲滅せんめつするには、ただ速く駆けるのみでは為し果せぬ。その速さを殺さぬまま、僅かな溝に残る塵埃じんあいをも、掃き尽くす。斯様かようなる軍に、トゥバは育った。いまやその強きに比肩しうる軍など、中原にはおらぬであろう。

 ――楽な戦だな。

 そこに、主のお言葉がのしかかる。

 主は、生まれながらにしての戦士にあらせられた。故にこそ凶、故にこそ暴。その眼差しの赴くまま、殺し、壊し、たいらげてこられた。

 埒外らちがいが、人の姿をとる。

 身震いをしたものである。

 過日、我は苻堅ふけんがいち部将のもとにて、愚にもつかぬ竹簡を転がしていた。かの将は、その口では苻堅がごとく天下統一をうそぶくも、態度にてありありと語るは、自分以外の誰かが、であった。

 その中にあり、主ただお一方が仰った。

「おれを船に載せろ。長江ちょうこうの南岸で降ろせ。それで、終いだ」

 その言葉に虚勢じみたものはなく、自らに機さえあれば、たちどころに叶えてみせよう、と言わんばかりであった。

 誰しもが、その言葉を笑った。我とて例外ではない。臆面おくめんもなく大言壮語をなすその度胸は大したものだ、とこそ思ったものであったが。

 我が冷笑は、ただの一戦にて凍りつく。

 西のかた、涼州りょうしゅう討伐に出た折のことである。軍を率いるムロン・チュイのもとに、我と主とがあてがわれた。

 主の参上に対し、かのムロン・チュイが深く頷くのを訝った我であったが、その理由は、すぐに戦場にて明らかとなった。

 剽悍ひょうかんで知られる涼州の騎馬隊を、主は目前の枝葉を払わんかとばかりに打ち崩してゆかれたのだ。後にも先にも、我が差配が軍の遅れを取ったは、あの一件のみである。

「そなたがうろたえるとは、珍しいものを見た」

 そう、ムロンチュイに笑われた。

「二度はございませぬ」

 我もむきになり、そう返す。

 涼州はむしろ、我と主との戦場であった。如何いかに主の速さを、強さを活かし切るか。主は主で、如何に我が差配を上回る戦果を上げるかに血道をお上げになった。涼の主、張天錫ちょうてんしゃくは、自国に壊滅的な打撃を与えた将のその若きに、大いに驚愕したものである。

 ムロン・チュイの引合せのもと、我らは盃を交わした。主が語られたは、トゥバの再興。我もまた、腹蔵ふくぞうなく晋の破砕を語った。「ならば天王のもとにあらば、そなたら両名の願いが叶うな」――と、これはムロン・チュイの言である。

 苻堅による中原統一がなされて後、淝水ひすいに至るまでが、およそ七年。

 いかに苻堅とは言え、統一、すなわち安寧、とはならぬ。各地には否応なしに火種がくすぶる。我らはその掃討そうとう、鎮圧に駆け回った。上将がムロン・チュイよりヤオ・チャンに変わる際には、ムロン・チュイの口添えに寄り、主と我とでの転属となった。いわく、「両名を並べるが、最も強い」と。

 我は天意なぞ、信じずにあった。いま、敢えてその言葉を持ち出すならば、こう言えるのであろう。我がこの千々に乱れる中原に生まれ落ちたは、主の扶翼ふよくたるためであった、と――それに気付いたは、皮肉にも苻堅と劉裕りゅうゆうが出会いたるがゆえ、であったが。

 両名が顔を合わせ、固まり。

 何故か、隣にあった丁旿ていごの髪色が、抜け落ちた。

 天意は、確かに、ある。

 人の身で、天意を弄するは能わぬ。かの苻堅ですら手中に収めかけながらも逃したが、天下。加えて、逃したそばより、苻堅は滅んでいる。

 天は、劉裕を選んだ。

 その劉裕が、苻堅のならいにならぬと、どうして言い切れよう。むしろ、我が天意を目の当たりとしたは、主とともに、天意を人の手にてもぎ取らんとするため、ではないのか。

 その深遠なるを、人の身にて察しうるは能わぬのであろう。故にこそ、人事を尽くす。そうして育ったトゥバの国は、間違いなく、あらゆるものを飲み尽くす強さを宿した、と言ってよい。

 ――なれど、要たる主が、そこにおらぬ。

 容易き戦い、鈍りたる戦棍。

 賜った言葉を反芻はんすうする。主は強きトゥバ、そのものである。それは草原を疾駆しっくし、初めて際立とう。広き大地を走れねば、誰あろう、主こそが精気を失いかねぬ。

 これ以上の題目をくどくどしく並べ立てたとて、詮無きことであろう。疾駆する主の雄大なるにかれた我が、いまはその周りに堅牢な檻をあつらえておる。この事実が、我が眺望ちょうぼう暗澹あんたんたるものとする。

 そこへ差し伸べられたが、トゥバ・シ様よりの、手。

 かしゃり、と甲冑の音が響く。

崔宏さいこう殿、こちらの手筈は整った」

「おさすがです。余裕を持ってことに当たれますな」

「余裕、か」

 やや遠きより盛楽の城を眺める、その隣に、トゥバ・シ様が並ばれた。その幼きみぎりより共にあった身として、改めて、今や仰ぎ見るほどに逞しくなられておられたのだ、と実感する。

「この期に及んで、私はいまだシャオの謀反に確信が持てずにいる。そなたのほうが、あれをよく知っているということなのかな」

「近しき故にこそ見い出せぬことも、また少なくはございませぬ」

 知らずにおれば良いことも、ある。

 今宵、トゥバ・シャオ様が、主を襲う。

 主は折しも深く酒を召され、いつものごとく周囲への苛烈なる折檻せっかんをなし、倒れるように休まれた。斯様かように振る舞われたときの主の眠りは、常になく、深い。かのお方を討つには、決して逃してはならぬ機である。

 ――と、わが手足を通じ、トゥバ・シャオ様には漏らしてある。

 これまでにも、トゥバ・シャオ様のお心は削ってきた。「今宵討たねば、おれが殺される」とつぶやかれたとも、我が耳には届いておる。

 今宵、トゥバ・シャオ様を動くように仕向け、一方ではその動きを、トゥバ・シ様へお伝えする。自らで起こした火を、自らで消すような真似である。ことが公にでもならば、この身、腰より両断されたとてむを得まい。

「父上のご寝所には、誰がいる?」

「変事に備え仕立てた、身代わりが。動かず、ただ横にさえなっておれば、トゥバ・シャオ様でさえ見分けは付きますまい。増して、いざ殺されてしまいさえすれば」

「――父上は?」

「ほど近くにある小屋にて、お休みになっております。伴にはへ・ウィンと、ユ・リディ殿を。また、我が息のこうに、世子よりの書を託しております」

「そうか」

 にわかに、城が騒がしくなる。

 トゥバ・シャオ様が、動き出されたのであろう。

「何から何まで、面倒を掛けた。そなたがなしたは、すべて私の罪だ」

 抜刀し、伴の者らを率い、トゥバ・シ様が動かれる。

 見送る我の手は、知らず、拱手を形作っていた。


 ――この夜の顛末てんまつは、公的な記録には、以下のよう記し置いた。


 逆徒トゥバ・シャオは真夜中に伴を連れ、宮廷内に闖入ちんにゅうした。衛兵らが「賊が来た!」と叫ぶと、陛下は驚いて起き、弓や刀を探したが手に取ること叶わず、ついには殺害されてしまった。

 このとき外部にいたトゥバ・シ様は、すぐさま宮中に呼びかけ決起、速やかにトゥバ・シャオを捕縛。トゥバ・シャオ、及びその母を処刑し、トゥバ・シャオに付き従った数十名は、生きたままその身を切り刻み、群臣らと共に食された。

 トゥバを大いに隆盛させた主は、その偉業を讃え、太祖たいそ道武帝どうぶていおくりなされた。あわせてトゥバ・シャオの凶逆を速やかに平定されたトゥバ・シ様は喪礼を大々的になされた後、帝位に就かれた。

 ここにトゥバは、新しき時代を迎えるのである。

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