06-08 無仙堂也但還于土

 縛られた孫恩そんおんのそこかしこにゃ、アザやら切り傷やらがあった。そうそう古いやつじゃねェ。まァ、北府ほくふ兵ン中で孫恩のこと恨んでねェやつなんぞいねェだろうしな。

 ただ、すっかりやつれ上がった孫恩ァ、それでもなお表情らしい表情を浮かべちゃねェ。言ってみりゃ、無の顔、ってとこか。

「相変わらずだ。わかんねえな、あんた」

 寄奴きどァあえて、思ったままを言う。そしたら孫恩ァ、薄く微笑む。

久闊きゅうかつじょしうる喜びを、将軍と分かち合いたいのですよ」

「そうかよ」

 他の誰をも見ようたァしねェ。

 孫恩ァ、ただ寄奴にのみ向け、微笑みかける。周りの奴らが怒鳴り、脅し、あまつさえ手も上げるが、まるで孫恩ァ動じねェ。

「抑えよ」

 そこに、桓脩かんしゅうが言う。

「我々では、孫恩を何一つとして揺るがせにできん。それが叶うのは、ただ一人、劉裕りゅうゆう殿のみよ。ならば手出しも、口出しも無用ぞ」

 その口ぶりァ、決して激しいもんじゃねェ。っが、そこいらの奴らに有無を言わせねェだけの圧ァ、ある。

 桓脩にビビり散らした奴らァ、すごすごと引き下がる。

 寄奴ァ、孫恩の前にかがみ込んだ。

「切られたかよ、盧循ろじゅんに。ざまぁねえな」

「誠に。我が不徳の至りです」

「あいつからは、何を渡された?」

「特には。あえて申し上げますれば、この海域、でありましょうか」

 舌打ちする。

 ここに孫恩を残した、ってんなら、その前から奴にゃろくな情報も掴ませちゃなかったろう。で、こちとらめでたく孫恩をぶち殺すっつう、空っぽの栄誉だけ頂戴できるってわけだ――ついでにこの島と、その周りの海運も、だが。

「ずいぶんと好きに使われたみてえだな。――いつからだ?」

「乱の起こる、はじめからでありましょう。仙堂せんどうの教えに呼応したのは、何も民のみではありませんでした。多くの不遇をかこつ地方豪族らが、我々に協力を申し出てきた。もっとも、そこに違和感を覚えたところで、何をできたとも思われませんが」

 後ろにゃ、寄奴と孫恩のやり取りを書き留めてるやつがいる。ろくろくなんも出てこねェだろうに、ご苦労なこった。

「発言力の高いものは、より多くのものを連れてまいります。一人ひとりの顔を、思いを拾い上げることが叶わぬようになるのに、さして時間はかかりませんでした。それでも、かれら私を救い主と頼ってくる。ならば、私に出来るのは、目の前のひとりを、それでも何とかすくい上げることでした」

「無駄な足掻きだな」

「まさしくです。気付けずにいた私が愚かであった、と申すよりほかございません」

 ひとと、衆。

 そいつァ同じようであって、まるで違ェもんだ。人ひとりにゃ顔がある。そこにゃ耳目がつき、言葉が届く。

 っが、そいつが衆に飲み込まれちまや、話ァまるで変わってくる。あらゆるモンが、衆の向かうべき先、流れみてェなモンに組み込まれてく。

 孫恩ァ孫恩なりに、目の前の一人ひとりの救いを求めてきたんだろう。っが、そいつァまるまる「五斗米道ごとべいどうがのために死ぬ」理由付けにさせられた。

 と、孫恩のツラに、初めて厳しい色が宿る。

「劉将軍。私はこの世にて、誤った道筋を自ら選んだ者。そこに許しを求めるつもりなどございません。ただ、この期に及んで、なおお願い申し上げたき議がございます」

 その目つきに、寄奴ァ思い当たるフシがあった。寄奴が知る中でもただ一回、孫恩が声を荒らげた――廬循を、その一喝で食い止めた、あの時のこと。

「五斗米道、そのように呼ばれる集団を、滅ぼし尽くしてください。将軍の、その神武にて」

 言うなり、孫恩ァ奥歯を噛みしめる。

 がり、って音がした。

 そいつが何なのか、考えるだけの暇なんざねェ。

 間もなく孫恩の口から、鼻から、血が漏れ出す。うすら笑顔のまま、孫恩の身体から、力が抜けていく。

「――手前!」

 怒鳴ってみたとこで、なんの意味があんのか。寄奴ァ孫恩に駆け寄ると、ぐいとその上体を抱き起こした。

「ふざけんな! 何、ひとりで楽しようとしてんだ!」

「将軍――は、悉く――私の、心を――抉られる」

 息も絶え絶えな孫恩。

「仙堂――なぞ、この世には、ありませぬ。あるのは、ただ、朽ちたる身体が、土に――」

 そこまでだった。

 ずしり、と寄奴の腕に重みがかかる。

 その重みが語る。

 孫恩ァ、どこまでも、身勝手に。

 寄奴を、焚き付けやがった。


 曲がりなりにも、孫恩ァ浹口きょうこう島の主だった。そいつを失っちまや、もはや奴らにできることなんざねェ。あっちゅう間に、浹口ぜんぶが降伏してきやがった。

「劉裕殿。そなたの武威、改めて感心せざるを得ぬ」

「そうっすか」

 桓脩からの称賛に、寄奴ァ曖昧な返事しかできねェ。そいつを成し遂げたんなァ、言ってみりゃ、廬循だ。

 浹口島いちの展望が望める展望台からァ、会稽かいけい湾が一望できる。キラキラと海面が輝き、その上を何艘かの船が滑る。

かん将軍。己ぁ五斗米道どもを潰すことについちゃ、一切含みぁ持っちゃねえつもりです」

「そうだな。おかげで助けられている」

「けど、何なんでしょうね。どうしてか、孫恩の野郎が小骨みてえに喉に引っかかりやがる」

 桓脩ァ、懐から竹簡を取り出した。

「先の大師父、孫泰そんたいが、無道のものであったようだな。教団内でも孫泰を廃し、孫恩を主に、とする動きが起こっていたのだそうだ。中でも盧循は、その急進派だったという」

「へぇ、あのガキが」

 寄奴ン中じゃ、盧循ァどうしても迂闊な奴で、寄奴のひと振りにちびっちまった小物だ。

 あれからもう、十五年は経つ。ガキがそれなりの男になんのにゃ、十分な時間だ。男子三日会わざれば、じゃねェがな。

「劉裕殿。難しく考える必要はあるまい」

「は?」

 思わず、素っ頓狂な声を上げちまう。

 見りゃ、桓脩ァうっすらと笑みを浮かべてた。竹簡をしまうと、寄奴の肩をぽん、と叩く。

「あのやり取りを見ればわかる。立場がどうであれ、そなたと孫恩は、互いを認めあっていたのだろう。ならば盧循は、そなたらの紐帯をふみにじりたる愚物よ」

 そう言い切られちまや、寄奴が跳ねっ返る理由もねェ。

 桓玄かんげんの考えなんざ、わかるはずもねェ。っが、少なくとも桓脩、北府を束ねるやつが、寄奴の怒りを、真正面から受け止めてきた。そいつァ決して、軽んじちゃいけねェことだ。

 だから寄奴ァ、改まって拱手する。

「桓将軍」

「何だ、今更になって。恐ろしいな」

 苦笑しながらも、桓脩ァ先を促してきた。

「奴らが先の先を見越して動いてるってんなら、己らもすぐに建康に戻るべきなんでしょう。けど、今は会稽を見て回るべきなんじゃねえでしょうか」

「会稽?」

 ぴくり、桓脩の眉間が締まる。

「なぜ、回り道をする必要がある? いま我らに求められるべきは、速やかに五斗米道の動向を中央に伝え、撃滅の手立てを取ること、ではないのか?」

 仰る通り。

 そうですね、すぐに戻りましょう。寄奴ァその言葉を呑み込み、桓脩を見上げる。

「いちど会稽を平定した謝琰しゃえん将軍が、あっさり五斗米道どもに殺されちまってます。会稽の奴らも、今のままじゃ、どうせまた逆襲されるんだろ、って思ってるでしょう。ここで桓将軍にいちど顔出ししていただくことで、少しゃ奴らの不安も和らぐんじゃねえでしょうか」

 それに、己も挨拶しときてえ方がいますし。そいつァおまけにして伝える。

 と、桓脩ァ笑う。

「なんだ、劉裕殿。そちらが本命か。似合わんぞ、そなたに絡め手は」

「手前じゃ、悪くねえと思ってるんですがね」

 寄奴も笑いを返しながら、けど内心にゃ、もやりとしたもんがつきまとう。

 どうしてだ。

 どうして、こうさんちに行くことをごまかそうとした。

「まあ、良かろう。息抜きも悪くはない」

 そいつにゃうまく返事ができず、寄奴ァもういちど、黙って拱手した。

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