02-15 龍を知る者
「まずは事の前後を正さねばなるまいな」
夕刻。
灯りを卓上に据えると、小さく頭を垂れ、退出しようとする。
「鎮悪。
そう言って崔宏が、手前の後ろに置いてある椅子を示した。
「――あぁ」
見当がついた、とばかりの笑みは、なんつうか、崔宏そっくりだった。
「あの話ですね、分かりました」
どの話だよ、たァあえて聞かねェ。
「否定は、しねえんだな」
「せぬともさ。むしろ気付かれねばどうしたものか、と気を揉んでいた」
詰まるとこ、寄奴ァ
何よりも決定的なのが、張士道が巻いてたはちまきだった。そこにゃ、まさしく崔宏が巻物に著してた文字が躍っていやがった。
「先に野暮用、と申したであろう。元々五斗米道との件が先なのだ。そこに
「あいつらとつるんで、何をしようってんだ?」
「答えると思うかね?」
返す刀に間髪がねェ。言葉に詰まる。
崔宏の後ろで、王鎮悪が吹き出す。
「意地悪ですよ、先生。隠す気ないくせに」
寄奴が王鎮悪をにらみ付ける。すると奴ァわざとらしく首をすくめた――大の大人だって震え上がるひとにらみだってのにな。
「鎮悪」
軽くとがめ立てるように、崔宏が呼びかける。
それから、崔宏がため息をついた。
「しかし、我も
「なんだと?」
崔宏の顔からは、いつもの笑みが消えてた。冗談、戯言をほざいてるわけじゃねェ。だからこそ、余計に意味が分からねェ。
「己ァ、晋の兵だぞ」
「
崔宏が、懐から短刀を取り出した。柄を寄奴に向け、差し出す。気に食わなかったら、いつでも斬れ、って事だ。
しばらく短刀を眺めてから、寄奴ァそいつを脇にどける。
そんで、ぐいと身を乗り出す。
「で?」
「
「そうか。じゃ手前らをぶったたく絶好の機会だな」
「どうかな。我らよりも先に、貴公らの前にはムロン・チュイが立ちはだかる。彼奴めもまた、
ムロン・チュイ。淝水の追撃戦で、苻堅の隣にいた、あの老将。
元々あの
そこに、己づてたァ言え本人を目の当たりにし、しかも改めて崔宏の口から、その名前を聞く。
「ゆえに、五斗米道なのだ。彼の者らは晋国内の他、チュイの勢力圏内にも多く信徒を抱く。我らにとっても、やはりチュイは大いなる
「ふざけんな――って言いてえとこだが、どうせ手前のことだ、もう仕込みは済んでんだよな」
「無論」
寄奴が頭を掻く。
「だよな。ならもう、なるようにしかならねえってことだ。踊らされてやるさ」
「痛み入る」
崔宏と、王鎮悪がわざとらしく拱手してきた。軽く鼻を鳴らすと、椅子の背もたれに寄りかかり、腕組みする。
「だがな、どうしても解せねえ事がある。何でそこに、わざわざ己を巻き込む必要があったんだ」
「そうさな、そちらが本題よ。お答えいたそう、なれど、その前に一つ。この広陵には、天王より賜りし宝剣を持ち込んでおられぬようだが?」
「あ? あんな豪勢なモン、おいそれと持ち歩――」
そこまで言って、一気に血の気が引く。
掛けられたカマのデカさは、並じゃなかった。
崔宏が顔を上げ、冷たい笑みを浮かべた。
「――ほう? あの剣は、
ここまでは、それでも堪えて来てた。
だが、駄目だ。遂に、驚きを思いっきり表に出しちまった。
知られるわけにゃ行かねェはずの「龍」の存在。
そいつを、よりにもよって。
「なるほどな」
崔宏がうなずく。
「丁旿殿が
「――何の、ことだ」
こめかみを伝う汗に気付かずにおれねェでいた。
胸がバクバクと言いやがる。
「ここな鎮悪は、天王の参謀として活躍なされた
崔宏が目で促すと、王鎮悪が立ち、改めて頭を垂れる。
「祖父は、私に多くの物語をお聞かせくださいました。しかし、そのいずれもが私の知る史実とはいささか食い違っておりました。
そりゃそうだ。王猛は、苻堅と一緒に龍を浴びた。
俺やら寄奴が見せられたことからすりゃ、苻堅と王猛だって同じようなもんだったんだろう。実際に、王さま達が見聞きしてきたこと。そいつがそのまま史書に残る、なんてこたありゃしねェ。史書に求められんなァ、いつだって王さまの偉大さを伝えること。
だが、にしたって史書のほうを疑うなんざ、どうにかしてやがる。
「
崔宏が王鎮悪の言葉を継ぐ。
「なれど、淝水における対峙の折、天王と貴公が見合った直後に、
崔宏が立ち上がり、窓のほうに向かう。
「申し訳ないが、ここからはひととき、顔を逸らさせて頂く。我としても、妬みに醜く歪む顔を見られたくないのでな。――天より見出されたる、貴公には」
天。
動揺に殺されかけちゃいた寄奴だったが、何とかその一言が踏みとどまらせた。卓上に置かれてた短刀を引き寄せる。何かにすがりでもしてねェと、ぶっ倒れちまいそうな気さえした。
「丁旿殿
崔宏の拳が、ぎり、と強く握られる。
その一言を口にすんのが、崔宏に取っちゃどんだけ屈辱的なことだったのか。許しがてェことだったのか。想像するっかねェ。だが、あの崔宏が、激情を隠し切れねェでいた。そいつだけが、確かなことだ。
改めて、崔宏が寄奴に振り向く。
もうその顔は、いつもの冷ややかなそれだった。
「なれば、我らは覇たる者として貴公に勝たねばならぬ。
そう言って、王鎮悪の肩をぐい、と押す。
「貴公には、ここな鎮悪をお貸しいたそう。この者は草とも通じておる。華北の報は、この者を通じて仔細を届けられもしよう。我らもまた鎮悪を通じ、江南の事情をより正確に掴み得る」
王、って名乗るわけだ。
材木商の王玄伯。ってこた王鎮悪ァ、そこの跡取り息子かなんかって態で居座れることになる。
「元々はこの地盤を築いてから、
崔宏が改めて拱手してきた。
「劉裕殿。願わくば、貴公がより良き主上の贄とならんことを」
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