01-08 淝水の戦い
何かが起こった、そいつに気付いたのは、二人、いや、三人だけだった。
己らに躍り掛かってきた龍、その出元を見る。呆然とした
泣きそうな、うつろな笑い。
その顔つきの意味を、己らは嫌ってほど理解しちまった。
歴代の覇者たちの記憶ともなりゃ、当然苻堅の記憶が一番色濃いんだ。氐の王族の傍流として生まれ、
苻堅の一族ァ、もともと
まァ、石虎だけを見るなら、正真正銘の覇王だった訳だけどな。奴が天下を取るってんなら、それはそれでありだろう。苻堅もそう思っちゃァいたんだ。
だが、龍は氐族を選んだ。
龍を失った石虎は、一族の無軌道を抑えきれねェまま死んだ。後を継いだ
そんな中で、
ただ、苻堅は苻堅で、この頃アホな親戚に振り回されてた。そいつは、アホたァ言え荒事にゃ滅法つえェ奴だったし、ぶっちゃけ苻堅自身荒事にそれほど秀でてたわけじゃねェ。そいつが邪魔で仕方ねェ訳だが、手の打ちようがねェ。
そんな時苻堅は、
王猛は、奴らが言うところの漢族だ。つまるとこ、己らのお仲間ってこった。だが王猛は、主君として苻堅を選んだ。
控えめに言って、王猛ってな、化けモンの類いだった。あっちゅう間に氐族の覇権を苻堅に戻し、んでその勢いで、あっさりと燕をぶっ倒した。
名宰相ってな、名君の下でこそ輝くもんだ。軍事に、政治に振るわれる王猛の手腕ァ、とても人臣の位についてる奴の発想じゃねェ。言わば、王者のそれだった。普通の王さまなら、こいつに王位を乗っ取られるんじゃねェかって恐怖してもおかしくねェ。だが苻堅は、王猛をただただ信頼した。
その結果、苻堅は、
たァ言え、その直前に王猛を失う。信頼してた片腕がいなくなるってな、並大抵の喪失感じゃねェ。それでもなお覇道を進まなきゃいけねェってな、どんだけの茨の道なんだろうな。
こん時、苻堅が思ったんなァ龍の事だった。
龍は、ある時は国とともにいた。またある時は、王たちの間を渡り歩いてもいた。
直前の
その結果起こったのが、今回の大軍だった、って訳だ。
皮肉なもんだぜ。龍を留めんがための行動が、結果として龍を手放すにつながったんだ。
苻堅ァ己らのほうを見ながら、二、三呟いた。
そんで、全軍に号令をかける。あっちゅう間に、その姿は兵どもの中に埋もれてった。
「うだうだ考えてる暇はなさそうだな」
真新しい剣を握り、寄奴がつぶやく。とたん己ン中に強烈な熱湯が流し込まれた。そいつは、寄奴の意志。殺意、って言い換えてもいい。どう敵を殺すか、どうこの戦を駆け抜けるか。苻堅のことも思い描いてたが、それよりもデカかったのは、トゥバ・ギの事だった。
「手前ら! 遅れんじゃねえぞ!」
寄奴が一も二もなく飛び出す。
決して浅くねェ
相手の先頭は、ずらっと槍ぶすま。先陣ってな、こいつにぶっ刺さって槍を槍じゃなくする、ってェのも一つの役割だ。
寄奴はあっさりとかいくぐり、敵兵どもをなぎ倒す。
その脇は、怪我のせいで戦えなくなった
「
二人の破壊力を、
突入した後続が風穴になだれ込み、その傷口を一気に広げる。
ただ、妙な雰囲気だった。
弱すぎんだ。
いくらなんだって、奴さんらもただホイホイと死にに来てるわけじゃねェはずだ。己らをあっさりと招き入れて、いたずらに食い散らかされるままになっちまうんなァ、いくらなんでもチョロすぎんじゃねェのか。
思いっきりねじ込まれた己らの様子を見て、いよいよ後続が本格的に動き出す。
どうやら苻堅の狙いァ、こっからが本番だったみてェだ。
突撃してきた晋軍に対して、中央が後退を始めた。その上で、左右両翼は動かねェ。つまり、ホイホイ出向いたこっちの軍勢が、あっちゅう間に取り囲まれちまうことになる。
「おい何無忌! いいのかよこのまま遊んでて!」
「もうじきだ! 合図を待つしかない!」
この後の惨状を想像したんなァ、何無忌も一緒だったみてェだ。たしなめるふうじゃいたが、その言葉にゃ焦りが隠し切れてねェ。己らと向かい合ってた敵のうろたえっぷりは決して芝居なんかじゃねェ。ただ、その二つ、三つ奥の奴らは、余裕がある分、何が起こりつつあんのかを察してるみてェだった。
そこに、叫び声が響く。
「負けた! 天王は討ち取られたぞ!」
――そっからの流れは、今思い返しても、にわかにゃ信じらんねェもんだった。
叫び声は数を増やし、一気に敵陣内を駆け巡る。
真っ先に反応があったのが、まさに己らと向かい合ってた奴らだった。奴らが向かい合ってる相手ってのが寄奴と道済だってんだから、そりゃあっさりと信じ込むわな。「や、やってられるか!」と武器を投げだし、目の前に己らがいるってェのに逃げだそうとしやがる。
晋が、賭けに勝ったんだ。
狂乱ァ一気に広がった。その間にも「負けだ、負けだ!」の声が敵の陣営内から聞こえてきやがる。みるみる間に敵軍の陣容が崩れてくのがわかった。
後から聞いた話だが、例の叫びァ、苻堅の軍の中に紛れ込んでた、
だが朱将軍は、表向き忠誠を誓った振りをしつつ、反撃の機会を狙ってた。そんで今回、ひそかに大将軍と示し合わせて、内側からの崩壊を狙った。
嘘みてェな話だし、そんな簡単に上手く行くもんなのかよ、たァ思わざるを得ねェ。だが実際に目の当たりにしちまったんだ。そういうもんなんだ、って言い聞かせるっかねェ。
慌てふためく奴さんらだ。もはや統率もクソもねェ。
苻堅軍ァそのでけェ図体が災いし、全体が退却の体勢を取るのに、えれェ時間を取られた。そうこうしてるうちに混乱は混乱を招く。そんな奴らのケツを、己らが刈り取ってく。
もう、そいつァ戦争なんてもんじゃなかった。
ただの、殺戮の舞台だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます