幾重もの罠
陰陽師である妙義榛名は父の白雲と共に闇の者を探して日本各地の中学校に転校している。今、彼女は北にあるX県R市の逆柿中学校にいた。
(仕方がない)
しばらく思案した榛名は、制服のポケットに入れた人型を取り出し、使役する式神である禍津を呼び出した。
「この女性の遺体をしばらく隠せ。事がすみ次第、委細を教育委員会に告げて弔う」
榛名は血と体液のほとんどを闇の魔物に吸い尽くされた保健教師の千代田光代の変わり果てた遺体を見て命じた。
『承知』
禍津はスッと光代の遺体をその細い腕で抱えると姿を消した。榛名は床に這いつくばるようにしてまだ嘔吐している二年三組のクラス担任の新里さくらに視線を移した。
(あの小者、先生に深く繋がっていたようだな)
榛名が封じた闇の者はさくらに多大な影響を与えていたらしく、彼女が全快するには時間がかかると思われた。
「先生、しっかりしてください」
榛名は、
(気休めかも知れないが、しないよりはましか)
邪気祓いの護符をさくらの背中に貼り付け、溶け込ませた。するとさくらの嘔吐が収まり、顔色が戻り始めた。
「あ、妙義さん……」
さくらはすぐそばにある榛名の顔を見たのでまた一瞬だけギョッとしたが、すぐに力なく微笑んだ。
「私も気持ちが悪くてここに来たんです。そしたら、先生が倒れていたので」
榛名はさくらに手を貸して立ち上がらせた。さくらは自分が吐いたのに気づき、顔を朱に染めた。
「やだ、私、どうして……」
彼女は服にも少しだけ吐瀉物がかかってしまったのを気にしている。
(そんな些細な事より、自分が無事だった事を喜んで欲しい)
言えない事情があるので、榛名はもどかしかった。
「保健の先生がいないのですが、先生は何かご存知ですか?」
榛名はさくらがどこまで知っているのか確かめるために尋ねた。しかしさくらは首を横に振り、
「ここまでどうやって来たのかもわからないの。保健の先生とは顔をあわせたかどうかもわからないわ」
酷く混乱していた。榛名はさくらが倒れた時、通りかかった若い男性教師を思い出した。
(あの男が何か知っているとは思えない。闇の者が動いたのは、あの男が保健室を去ってからだ)
ならば、保健教師が行方不明だとしても問題ないと榛名は判断した。
『禍津、床の掃除を頼むぞ』
榛名は光代の血で汚れた箇所をチラッと見て禍津に命じた。
『承知』
禍津が姿を消したままで応じた。
『あの先生の遺体はどうした?』
榛名はさくらに手を貸して保健室を出ながら尋ねた。
『学校の裏山に術をかけて隠しました。見つかる心配はありませぬ』
『そうか。それでも闇が手出しせぬように見張りをつけておけ』
榛名は自分より大きくて重いはずのさくらを軽々と支えながら歩き、禍津に伝えた。
『承知』
禍津はまた使命を果たすために動いた。榛名はさくらを気遣いながら職員室に向かった。
(後は二年三組の教室の圧迫感のある気か)
榛名はさくらを職員室に送り届けると、廊下を足早に歩いた。その時、終業のチャイムが鳴った。
「む?」
それと同時に気が消失したのを感じ、榛名は眉をひそめた。
(引いたのか? 一体何がしたいのだ、奴は?)
闇の者の行動の真意がわからず、榛名は混乱しかけた。
「何だ、もう大丈夫なのか?」
階段の踊り場で数学の教師と出くわした。榛名は無表情な顔を上げて、
「はい。お陰様で」
「そ、そうか」
数学の教師はバツが悪そうに応じると、そそくさと階段を駆け降りて行った。榛名はしばらくその後ろ姿を見ていたが、
「ああ、榛名ちゃん、もう大丈夫なの? お見舞いに行こうと思ってたのに」
残念そうな顔をしてクラスメートの高山遼が階段を降りて来た。その後ろにはクラス委員の宮城綺奈もいた。
(やはり宮城さんは高山君の事が好きなのか?)
榛名は目を細めて綺奈を見た。ところが、
「榛名ちゃん、ごめん、そんなに睨まないでよお。俺、別に榛名ちゃんの寝込みを襲おうと思った訳じゃないよ」
自分を見ていると思ったらしい高山が苦笑いして言う。榛名は首を傾げ、
「何の事ですか?」
「わあ、その仕草、狙ってないんだろうけど、可愛過ぎるよ、榛名ちゃん!」
高山が踊り場まで降りて来て榛名に迫ったので、彼女は思わず身を引いてしまった。
(この人、苦手)
顔が引きつりそうな榛名である。
「高山君、妙義さんが怖がってるよ。やめなさいよ、そういうセクハラ発言は」
綺奈は呆れ顔で階段を降りて来た。すると高山はニヤリとして綺奈に視線を移し、
「何だよ、ヤキモチか、宮城ィ? やっぱりお前、俺の事が好きなんだろ?」
「ち、違うわよ!」
綺奈は顔を紅潮させて大声で否定し、階段を駆け下りて行ってしまった。
(こいつ、バカ?)
榛名は無神経過ぎる高山の言動に呆れた。
「邪魔者はいなくなったので、本格的な話を始めようか、スセリ?」
高山の口から濁った水の中から聞こえるような声が発せられた。
「何!?」
榛名は驚愕して飛び退き、高山と距離を取った。空間が遮断されたように自分と高山だけがそこに存在する感覚に囚われた。
『女に取り憑いていた小者を始末したようだな? さすが私の右腕だ』
高山の目は生気を失い、口はだらしなく開かれたままだ。闇の者は榛名の心に直接語りかけて来た。
『お前か?』
榛名は高山を睨む。高山に取り憑いた闇の者は高山を榛名に近づけ、
『そうだ。お前達の頭領の
榛名はもう一度高山から離れた。
『ふざけるな。お前は断じて神ではない』
榛名は制服のポケットに忍ばせた護符を取り出した。
『お前が惚れた男がそう言い含めたのか、スセリ?』
その言葉に榛名の動きが止まってしまった。
『図星のようだな、スセリ? 人間にそこまで入れあげてしまうとは、落ちたものだ』
闇の者は高山の顔を凶悪にしてニヤリとする。榛名はギリッと歯噛みして、
『その名で呼ぶな! 捨てた名だ!』
護符を高山に投げつけた。しかし、闇の者はそれに息を吹きかけて消滅させた。
『無駄な事を……。付け焼刃で会得した呪術でこの私を倒せるとでも思ったのか?』
闇の者は榛名を嘲笑いながら、黒い影のような姿でスウッと高山から離れ、消えてしまった。その途端、階段を上り下りする他の生徒達の喧騒が耳に飛び込んで来た。
「あれ? 俺、何してたんだろ?」
我に返った高山が首を傾げて榛名を見た。
(奴はいなくなったのか?)
榛名は疑いの目で高山を睨む。
「ご、ごめんよお、榛名ちゃん。宮城には謝っとくからさ、許して」
高山はヘラヘラしながら、階段を駆け下りて行った。
(奴の言う通り、この学校全体がすでに取り込まれているのか?)
榛名の額を汗が伝った。
『惑わされないで、榛名』
脳裏の少女が榛名に呼びかけた。
『わかっている。それが奴の狙いなのだという事は』
榛名は階段を上がり、教室に向かった。
『お父様の事をまだ好きなの、榛名?』
脳裏の少女が心配そうな顔で尋ねた。榛名は歩みを速めて、
『そのような事はない。白雲様は私の父上だ。父としてお慕いはするが、男として好いたりはしない』
『そう、なんだ』
脳裏の少女は悲しそうな顔で微笑み、消えた。
(あいつのせいだ。
榛名は闇の頭領と名乗った存在に怒りを発した。
榛名は教室に戻ると考え込んだ。
(奴め、遊んでいるのか?)
榛名は闇の頭領の事をよく知っている。彼女はかつて闇の世界の住人で、頭領は彼女の父親。スセリと呼ばれた頃、彼女は頭領の右腕だった。
(それとも、奴は白雲様を呼び込もうとしているのか? しかし……)
思わず右拳に力が入る。
「榛名ちゃん、宮城に詫び入れて、ジュース奢ったら機嫌治ったよ」
能天気な高山が席に着きながら言った。
「それじゃまるで私が物に釣られる情けない女みたいじゃない!」
後から入って来た綺奈がムッとして言う。高山はニヤッとして綺奈を見ると、
「あれ、そうじゃないの?」
「違うわよ!」
二人は言い合いしながらも楽しそうなのは榛名にもわかった。
(高山君は宮城さんの思いに早く気づくべきだ)
そうは思ったが、何か手を貸そうとは考えない。高山と闇の頭領がまだ繋がっている可能性があるためだ。下手をすると、綺奈を巻き込んでしまうからである。
「あ、榛名ちゃん、俺と宮城の事、誤解しないでね。こいつとは小学校も同じ腐れ縁てだけで、別にそういう関係じゃないから」
高山がまた不用意な発言をしたので、綺奈はムッとしたが、榛名が見ているので苦笑いし、
「そ、そうよ、妙義さん。こんな奴と付き合ってるなんて思わないでね」
口ではそう言いながらも目は泣きそうな綺奈を見て、榛名は鈍感な高山に呆れた。
(こいつ、シメる?)
やや本気でそう思いかけた。
「だから、俺の告白をオッケーしても、何も問題ないんだよ」
高山はウィンクをしてみせる。
「貴方になくても私にあります。他を当たってください」
榛名は教科書に目を落として抑揚のない声で応じた。
「え?」
高山は唖然とし、綺奈はホッとしていた。
「そんなあ……」
高山は机に顔を埋めて落ち込んだアピールをした。だが榛名は無反応である。綺奈もあまりにがっかりしている高山が可哀想になったのか、
「そんなに落ち込まないでよ、高山君」
榛名は綺奈を横目で見て、
(宮城さんと付き合うのがいいよ、高山君)
そう判断し、ちょうど前のドアから入って来た教師に視線を移した。
結局、それ以降は闇の頭領もその配下も現れず、何事もなく放課後になった。
「また明日ね、榛名ちゃん!」
あれほど落ち込んでいたはずの高山は、部活に行く時は既に完全復活していた。
「心配して損した」
綺奈は溜息混じりにそう言ったのを榛名に聞かれたのに気づき、
「あああ、ふ、深い意味はないから! 私も部活行かなくちゃ!」
顔を火照らせて教室を飛び出して行ってしまった。
(忙しい人達だ)
榛名は鞄を持ち、教室を出た。
校舎を出ると、校門の前に黒塗りのセダンが停まっていて白雲がボンネットに腰掛けているのが見えた。榛名は足早に校庭を抜け、白雲に近づいた。
「父上、いらしていたのですか?」
白雲はボンネットから立ち上がり、榛名を微笑んで見ると、
「ああ。かつて戦った奴の気が強く顕現したのでな」
榛名はその言葉に目を見開いた。
(やはり、奴は白雲様を挑発しているのか?)
白雲は運転席のドアを開きながら、
「乗りなさい。何があったのかは、車の中で聞こう」
「はい」
榛名は助手席のドアを開き、乗り込んだ。そして、榛名はその日にあった事を詳細に白雲に報告した。但し、闇の頭領が、
『お前が惚れた男がそう言い含めたのか、スセリ?』
と言ったのだけは自分の心を見透かされた思いがしたので伝えなかった。
「大丈夫か、榛名?」
不意に白雲が尋ねた。榛名はピクンとして彼を見た。自分の悩んでいる事を見抜かれたような気がしたのだ。
「質問が唐突だったな」
榛名が驚いた顔をしていたので、白雲は苦笑いした。そして、
「相手は仮にもお前のかつての父親だ。後悔はないのか?」
白雲は正面を向いたままで言った。榛名も正面を向き、
「ありません。私は貴方に負けた時、一度死んで生まれ変わったのです。今は奴の娘のスセリではなく貴方の娘の榛名です」
その声は力強かった。白雲はもう一度微笑んで頷き、
「わかった。それなら何も言う事はない」
「ありがとうございます」
榛名は頭を下げて応じた。
(これでいい。これで……)
榛名は俯いて握り締めた右の拳を見つめた。
(白雲様を愛したスセリは死んだのだ。今は私は白雲様の娘……)
胸が熱くなるのを感じ、榛名は戸惑った。
『それが人間の感情よ、榛名』
脳裏の少女が姿を見せた。その指摘に榛名はハッとした。
『これが人間の?』
『そうだよ。早く一つになろうね、榛名』
脳裏の少女は微笑んだまま消えていった。
(一つになろうね、か……)
榛名は顔を上げて、窓の外を流れていく景色に目を向けた。X県の夏は短い。すでに遠くの山々には秋の訪れを感じさせる紅葉がその頂に現れ始めている。
(全てを終わらせる。それが私の望み)
榛名はチラッと白雲を見てから前を向いた。
[夕食は何がいい、榛名?」
白雲がハンドルを切りながら尋ねる。榛名は前を向いたままで、
「和食で」
白雲はフッと笑い、
「そうか」
アクセルを踏み込んでスピードを上げると、黄信号の交差点を通過してその次の交差点を左折した。
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