揺れる思い

 中学生にして陰陽師でもある妙義榛名。彼女は父である白雲と共に闇の者を探していた。その探していた相手が、X県R市の逆柿中学校にいたのだ。榛名は闇の者が誰に取り憑いているのか探ったが、とうとうわからないまま転校初日を終え、白雲の待つ元の教員宿舎に帰った。


 白い着物の裾を肌蹴はだけさせて、少女は闇の中を息を切らせて懸命に駆けている。周囲は何も見えず、只暗いだけである。

「はあ、はあ……」

 少女は足をもつれさせて、その場で転倒してしまった。つまずく石も何もない平らな地面であるのにも関わらず。

「逃げられると思ったのか、スセリ?」

 どこからか濁った水の中から聞こえるようなよどんだ声が響く。少女の顔が引きつり、汗が噴き出した。

「く……」

 立ち上がる事なく、彼女は地面を這いずって進んだ。膝と肘に擦り傷ができ、血が滲むが、それでも休まず前へと進む。

「捕まえたぞ」

 ふと気づくと、彼女の身体を地面から伸びた無数の黒い手が押さえつけていた。大人の手、子供の手、老人の手、様々である。

「いやああ!」

 少女は絶叫した。黒い手は彼女の身体をゆっくりと地面に沈み込ませていく。少女は必死にもがいて逃げようとしたが、次第に身体が地面に吸い込まれていき、やがて見えなくなってしまった。

「お帰り、スセリ」

 くぐもった声が呟いた。


「いやああ!」

 榛名は悲鳴を上げて布団から飛び起きた。外は白々と夜が明け始めていたが、まだ部屋の中は暗い。

「どうした、榛名?」

 隣の布団で眠っていた白雲が起き上がり、彼女を見る。榛名は振り乱した髪を撫でつけ、呼吸を整えてから白雲を見て、

「奴の夢を見ました。今までと違って、春菜かのじょではなく、私が追いかけられていました」

 落ち着きなく視点移動する榛名の言葉に白雲は右の眉を吊り上げた。

「奴が仕掛けて来たのか?」

 榛名は全身に掻いている汗を枕元に置いてあったハンドタオルを手にして、

「わかりません。奴を感じたため、私自身の恐怖が生み出したものなのか、奴自身の術なのか……」

 白雲は榛名が小刻みに震えているのを見て、彼女に近づくと、そっとその小さくてか細い身体を抱きしめた。榛名は思わず目を見開いた。白雲の体温が着物を通して伝わって来る。

「心配するな、榛名。私が守る。必ずお前を守るから」

「父上……」

 榛名は白雲を見上げた。白雲は榛名から離れ、

「まだ早い。もう少し休むのだ」

「はい、父上」

 榛名は首の周りをタオルで拭うと、布団に戻った。白雲もそれを見届けてから、床に就いた。


「私も同行した方がいいのではないか?」

 朝食を終日営業のファミリーレストランですませて外に出た時、白雲が言った。

「いえ、大丈夫です。まだ誰が奴なのかすらわかっておりませんから、父上は宿舎にお戻りください」

 榛名はいつも通りの無表情で髪で半分隠れた顔を白雲に向けて応じた。白雲は小さく頷き、

「わかった。しかし無理はするなよ」

「はい」

 二人はその場で互いに振り返る事なく逆方向へと歩き出した。

(奴より厄介な男がいるな)

 榛名は昨日いきなり告白して来たクラスメートの高山遼を思い出した。

『榛名、あの人には気をつけて。危険よ』

 榛名の脳裏に現れる同じ顔をした少女が告げる。榛名はそれには応じずに歩を早めた。

(今日は跳ね除ける)

 榛名はニヤついた顔の高山を思い出し、口を一文字に結んだ。


 大通りから学校へ続くやや狭い路地へと曲がった時、高山とクラス委員の宮城綺奈が楽しそうに喋りながら歩いているのが視界に入って来た。榛名は思わず足を止める。

(やり過ごすか)

 二人が見えなくなるまでその場で待つ事にした。しばらく進むと路地は大きく右にカーブするので、高山に見つかる心配がなくなるからだ。ところが、

「あれ、榛名ちゃんじゃん!」

 突然高山が振り返り、榛名に気づいてしまった。綺奈も振り返って榛名を見つけると、微笑んで会釈した。榛名はニヤニヤしながら歩み寄って来る高山を無視して綺奈に近づいた。

「あらら……」

 すれ違われた高山は苦笑いをして榛名を見る。

「おはようございます」

 榛名は無表情なままで綺奈を見て挨拶した。綺奈は榛名の反応に戸惑いながらも、

「お、おはよう、妙義さん」

 挨拶を返し、そっと榛名の背後に近づく高山を睨んだ。

「こら、何するつもりなのよ!?」

 榛名は高山が忍び足で近づいて来ているのをもちろん気づいていたのだが、綺奈が高山をたしなめてくれたので、意外に思った。

(この人、やはり高山君に好意を寄せている?)

 すると脳裏の少女が、

『彼女は高山君に強い感情を抱いているわ。気をつけて、榛名』

『強い感情?』

 榛名は少女の助言に眉をひそめた。

「誤解だって、宮城ィ。俺が榛名ちゃんに悪さする訳ないじゃん」

 高山は相変わらずニヤニヤしている。

「どうだか」

 綺奈はツンとして顔を背けると、

「妙義さん、行きましょう」

 榛名の背中を押して、歩き出した。榛名はチラッと高山を見てから、綺奈に歩調を合わせる。

「おい、待ってくれよお、榛名ちゃん」

 高山は慌てて二人を追いかけた。

「もう、冷たいなあ。少しは優しくしてくれよ」

 高山はさも悲しそうに口を尖らせ、榛名に並ぶ。

「私は貴方に冷たくしていませんし、優しくする理由もありません」

 けんもほろろな榛名の言葉に高山は項垂れて立ち止まった。

「振り向いちゃダメよ。あいつのいつもの手なんだから。ああやって同情を誘うの」

 綺奈が囁いた。すると榛名は、

「宮城さんは高山君の事に詳しいですね」

 頭半分くらい身長が違う綺奈を見上げる。途端に綺奈は顔を引きつらせた。

「ち、違うわよ、誤解しないでね、妙義さん。私はあくまでもクラス委員として、あいつの事を把握しているだけであって、それ以上の感情はないのよ」

 額に汗を滲ませ、綺奈は身振り手振りを交えて言い訳した。榛名は顔を前に向けて、

「そんな風には思っていないですから、安心してください」

 そう言い置くと、唖然とする綺奈を残して歩き去った。


「おお、来た来た!」

 榛名が二年三組の教室の前に着くと、中からドヤドヤと他のクラスの男士達が飛び出して来た。

「何でしょうか?」

 鬱陶しく思いながらも、榛名は首を傾げて尋ねる。するとその中の一人が、

「お願いがあるんですけど」

 揉み手をして身体をくねらせているので、気持ちが悪い。榛名は目を細めて、

「はい?」

 揉み手をしていた男子のすぐ隣の男子が、

「その前髪、ちょっとでいいので、上げてくれませんか?」

 パチンと手を合わせ、榛名を拝むように目を瞑る。その他多勢の男子達も同じ動きをした。

(一体どういう事だ、これは?)

 榛名には何が何だかわからなかった。

『貴女の可愛い顔が見たいのよ、彼らは』

 脳裏の少女が再び現れて囁く。

『そういう事か』

 榛名は鞄を廊下に置くと、両手で前髪を掻き揚げた。

「おお!」

 男子達はまるでご来光を拝みに来た登山者のようにありがたそうに手を合わせ、何やらボソボソと呟いている者までいた。

「終わり」

 榛名はサッと髪を下ろし、鞄を抱えると教室に入って行ってしまった。

「ありがとうございました、妙義さん!」

 男子達は声を揃えてお辞儀をし、廊下を駆け去って行く。

「何なんだよ、あいつら」

 そこへちょうど追いついて来た高山が現れて言った。それを聞いた綺奈は、

「あんたが広めたんでしょ、転校生は美少女だって」

 呆れ気味に言った。榛名は二人の会話を聞きながら、席に着き、鞄から教科書を取り出す。

『悪い気はしてないようね、榛名』

 脳裏の少女が微笑んで言う。

『あれだけの人数に喜ばれたのは初めてだ。別に嬉しくはない』

 榛名はそんな馬鹿騒ぎより気になる事があった。

(今日は奴の気配がしない。どういう事だ?)

 目を細めて辺りを見回すが、それらしい動きも気の流れも感じられなかった。

『闇はどうしたのかしらね?』

 脳裏の少女にもそれが気になったようだ。

『昨日は感じられた一人一人に取り憑いた気が今日は感じられない。それも妙だ』

 榛名は闇の者にからかわれているのかと考えた。

「皆さん、席に着いてください」

 チャイムと共にクラス担任の新里さくらが入って来て言った。しかし、彼女の声は生徒達のざわめきにかき消され、後ろの席まで聞こえていない。

(覇気のない教師だ)

 榛名はさくらを見て思った。その時だった。まるで蝋燭の火が連なって点けられていくように生徒達に妙な気の塊が降りて来る。

(これは!?)

 榛名は目を見開き、さくらを凝視した。その途端、昨日感じた気が教室を覆っていくのがわかった。

(あの教師が奴?)

 榛名は目を細め、さくらの気を探る。

あるじ、あの教師から妙な波動が出ております。早めに祓わねば、取り返しのつかない事になるやも知れませぬ』

 榛名の使役する式神の禍津が榛名の心の中に告げた。

『待て。ホームルームが終わり、あの教師が教室を出たら追いかける』

 榛名は制服のポケットの中の禍津の人型が動くのを感じて釘を刺した。

『承知致しました』

 禍津は動きを止めた。榛名はもう一度さくらを見る。

(あれは偽りの姿なのか?)

 さくらはどう見ても膨大な力を持つ闇の者には見えない。だが、榛名達が探している闇の者なら、自分の力を他の者に悟られないようにする事もできるのだ。油断はできないのである。さくらは球技大会の詳細が書かれたプリントを配り、何かを話していたが、ほとんどの生徒は聞いていない。昨日は助け舟を出した綺奈も今日はそのつもりはないようで、次の授業の予習をしている。

(気まぐれなのか、この子も) 

 榛名は綺奈を一瞥してからさくらに視線を戻した。さくらは生徒達の反応を気にする事もなく、教室を出て行ってしまった。それとほぼ同時に生徒達に憑いていた妙な気の塊が消え、圧迫感のある巨大な気も消失した。

(やはり、あの教師が奴か?)

 榛名は素早く立ち上がり、ドアに歩き出す。

「ああ、榛名ちゃん、どこ行くの? おしっこ?」

 背後で高山がセクハラ紛いの事を言ったが、榛名はそのまま教室を飛び出した。

「女子にそういう事を言うんじゃないわよ!」

 綺奈が代わりに窘めていた。


 廊下に出た榛名は歩調を合わせてさくらをつける。さくらは榛名がついて来ているとは思っていないらしく、鼻歌を歌いながら歩いていた。

(単なる偶然か? 思い違いなのか?)

 榛名が尾行をやめようと思った時、

「見抜いたつもりか、スセリ」

 不意にさくらが立ち止まり、振り向きざまに濁った声で尋ねた。榛名の身体中から汗が噴き出した。

「やはりお前なのか?」

 榛名は一歩飛び退いてさくらを睨んだ。するとさくらはニヤリとして、

「さて、どうかな? この学校はすでに我が手中、我が砦。誰が敵でもおかしくはないぞ、スセリ?」

 そう言い終わると、さくらは崩れ落ちるように廊下に倒れてしまった。榛名はさくらに駆け寄り、呼吸と脈拍を診た。異常はなかった。単に気絶しただけのようだ。

(先程の声は紛れもなく奴……)

 榛名の顔が強張る。

『闇の者の言う事を鵜呑みにしてはいけない、榛名。まだこの学校全体が支配されてはいないわ』

 脳裏の少女が榛名に忠告した。

『わかっている』

 榛名はここを決戦の場としようと思った。

「どうしたんだ?」

 そこへ二組のクラス担任の若い男性教師が現れて声をかけた。

「新里先生が急に倒れてしまったのです」

 榛名は無表情に戻り、男性教師を見上げた。その教師は榛名とは初対面だったので一瞬顔を引きつらせたが、

「わかった。保健室まで運ぼう」

 ぐったりとしているさくらを抱き起こして背負うと、廊下を歩いて行った。心なしか彼の顔が嬉しそうなのを見た榛名は、

(何が楽しいのだ?)

 首を傾げた。さくらは美人で独身男性教師の憧れの的だとは榛名にはわかっていない。

(新里さくらは奴の器の一つに過ぎないという事か? もう奴の気配は感じられなくなった)

 今までとは明らかに格が違うのを悟り、榛名は歯軋りした。

「おおい、榛名ちゃん、どうしたんだ?」

 そこへ高山と綺奈がやって来た。説明が面倒だと思った榛名は、

「何でもありません。次の授業が始まりますね」

 廊下を戻り始める。その応答に高山と綺奈は呆気にとられた。

「何なの?」

 高山は綺奈に小声で尋ねた。綺奈は肩を竦めて、

「さあ?」

 二人もチャイムの音を聞き、駆け出した。


 榛名の最後の戦いは確実に近づいて来ていた。

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