深き罠
X県R市の逆柿中学校に闇を祓うために転校して来た妙義榛名。彼女は二年三組の教室の前まで来て、そこに自分と父である白雲が探している闇の者がいる事に気づいた。
(今度こそ奴だ……)
追い求めていた者がすぐそばにいる。そう思うと、榛名の両手が小刻みに震えた。恐怖からではない。そう思おうとしたが、震えは収まらなかった。
(奴など今更恐れる必要などない)
邪念を振り払うように気合いを入れた時、クラスの担任である新里さくらが榛名を呼ぶ。
「妙義さん、入って来て」
榛名は我に返り、教室のドアを開いた。その向こうにあるたくさんの目。いつもの事であるが、皆、榛名の容姿を見て一瞬息を呑む。
「さあ、こっちへ」
今は微笑んで榛名に手招きしているさくらも、職員室で会った時は顔を引きつらせていた。
(この先生、妙な気が憑いているが、祓うほどではないか)
榛名は無表情な顔でさくらを観察しながら教壇に立った。クラスメート達の囁きはまだ収まらない。制御できないさくらが何も言わないからだ。
「今日からこのクラスで一緒に勉強する事になった妙義榛名さんです」
さくらは教室を見渡しながら告げた。
「ほら、みんな静かにしなさいよ」
クラス委員である
(あの子、
榛名は綺奈を見た。すると綺奈が榛名の視線に気づき、彼女を見て微笑み、窓際から二番目の列にある席に着いた。
(この子、何者?)
榛名は一瞬目を細めたが、
「P県L市から転校して来ました、妙義榛名です。よろしくお願いします」
榛名は深々とお辞儀をした。
「妙義さん、これで黒板に名前を書いて」
さくらがチョークを手渡した。榛名は微かに頷いて応じ、チョークで氏名を書いた。
「ああいう字を書くんだ」
綺奈の前に座っている男子が呟く。綺奈はそれを耳にして、
「早速目をつけたの、高山君」
男子は綺奈の指摘に苦笑いして、
「そんな言い草はよせよ、宮城」
綺奈はフフッと鼻で笑い、榛名に視線を戻した。
「妙義さんの席は、高山君の隣の席です」
さくらが榛名を見て言う。榛名は窓際の空いている席の隣に座っている高山を見た。高山は
「何だか、大人しい子だな、彼女」
高山は振り返らずに綺奈に囁く。綺奈は肩を竦めて、
「緊張してるだけでしょ。打ち解ければ、話をするわよ、きっと」
「そうかあ」
高山は自分に見向きもせずに席に着き、椅子に座った榛名を横目で見た。
「俺、高山遼。わからない事があったら、俺かこいつ、宮城綺奈に訊いてくれ。こいつはクラス委員だから、何でも知ってる」
高山はそれでも気遣いを見せ、榛名に話しかけた。榛名はゆっくりと顔を高山に向け、
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
会釈程度に頭を下げると、また前を向いてしまう。
「何だよ、緊張してるのか? 愛想がねえな」
高山はムッとして呟いた。しかし、榛名にしてみれば、それがごく普通の反応なのである。その上彼女は闇の者の気を感じて、高山に愛想を振りまく余裕などないのだ。
(教室に入ればわかるかと思ったのに……)
榛名は誰が闇の者なのかわからず、混乱していた。
(教室を押し潰しそうなほどの気を放ちながら、その元がわからないとは……。やはり奴が来ているのか……)
榛名は首をほとんど動かさないで教室を見渡していたが、
「あれ、妙義さんてさ、髪の毛を上げると、可愛いんじゃない?」
突然高山がそう言って、榛名の前髪を後ろから掴んで上げてしまった。あまりの不意打ちに榛名は何もできず、声も発する事ができなかった。
「ああ、ホントだ! 妙義さん、髪の毛上げた方が可愛いよ、絶対」
綺奈までがそんな事を言い出す。他のクラスメート達も何人かが榛名の顔立ちに驚き、囁き合った。
「高山君、そんな事してはダメよ」
さくらが注意した。彼女にとっては、一世一代の決断だったのかも知れない。唇が震えていた。
「はあい」
高山は苦笑いして榛名の髪から手を放し、
「ごめんな、妙義さん」
両手をパチンと合わせて詫びると、席に戻った。その間ずっと、榛名は瞬きもせずにいた。
ホームルームが終わり、各々が授業の準備をしている。榛名も鞄から教科書を取り出した。
「あのさ、妙義さん」
また高山が話しかけて来る。榛名は鬱陶しかったので聞こえないふりをしようかと思ったが、すぐそばなのでそれもできず、仕方なく顔を上げて高山を見た。
「何ですか?」
榛名は目を細めて高山を見る。多少威嚇を込めたのだが、高山は全く感じていないようだ。榛名を見てニコニコしている。
「彼氏とかいるの?」
榛名は目を見開いた。
『榛名、いないって答えてね。この人、図々しい』
榛名の脳裏に現れる彼女にそっくりな少女が警告した。榛名は再び目を細めて、
「いません。転校ばかりしているので、友達もできないのです」
「へえ、そうなんだ」
高山はますます嬉しそうな顔になった。
(何がしたいのだ、この男は?)
榛名は訝しそうに高山を見た。すると高山は頭を掻き出して、
「転校して来た日にいきなりこんな事を言うの、変かも知れないけどさ」
俯いたり天井を見上げたり、忙しなく顔を動かす高山を見て、榛名は首を傾げた。
(病気か、こいつ?)
呆れて席を立とうとした時、
「俺と付き合ってくれませんか? 貴女に一目惚れしちゃいました」
高山の言葉は榛名に衝撃を与え、クラス中にざわめきを巻き起こした。
「頭おかしいんじゃないの、高山君!? 今日転校して来た人に告るなんて!」
綺奈が目を見開いて叫んだ。女子達がヒソヒソと囁き合う。男子達もそうだ。
『彼は本気みたいだよ、榛名。はっきり断わって』
脳裏の少女が榛名に言った。だが榛名は、
「考えさせて」
その一言に高山は、
「おお、脈ありって事?」
前向きに捉えた。クラスの一同もどよめく。
「妙義さん、断わった方がいいよ。こいつ、誰にでも告るんだから」
一人綺奈だけが榛名に忠告した。高山がそれを聞き、
「何だ、宮城、ヤキモチ? お前、俺の事、好きだったりした訳?」
またしても前向き発言をする。綺奈はキッとして高山を睨みつけ、
「そんな訳ないでしょ! 自惚れないでよね!」
顔を背けた。高山はニヤニヤして榛名に視線を戻すと、
「そのうち、いい返事聞かせてよ、妙義さん」
スキップを踏みながら、教室を出て行ってしまった。
『榛名、どうして断わらなかったの? 付き合える訳がないんだよ』
脳裏の少女が榛名を
『様子を見させて。彼は妙な気を放っている』
脳裏の少女は榛名の答えを聞き、溜息を吐くと消えてしまった。
「妙義さん、あいつの勢いに呑まれたのかも知れないけど、気を遣わなくていいのよ。振られても振られても告白しまくっている奴で、へこんだりしないからさ」
綺奈が苦笑いして榛名に告げた。榛名は綺奈を見て、
「ありがとうございます。よく考えてみます」
と応じ、教科書を開いて目を向けた。綺奈は榛名が
(この人にも妙な気が憑いている。いや、クラス全員、
榛名は目を細め、教室を見渡す。
「やっぱりさ、髪を上げようよ、妙義さん。その方が超絶可愛いって!」
突然視界に高山が割って入って来たので、榛名はビクンとしてしまった。相変わらずニコニコして榛名を見ている。
『
榛名の使役する式神である禍津が告げた。
『そこまでする必要はない。そのうちに飽きて離れていく』
榛名は楽観視していた。
その日は一日中高山が張り付いて来て榛名は辟易したのだが、教室を押し潰しそうな闇の者の気の発信源はわからずじまいだった。
「只今帰りました」
榛名は教育委員会が用意してくれた今は使用されていない教員用の宿舎にいる白雲のところに戻った。そこは1LDKの部屋で、二人には十分過ぎる広さがあり、生活に必要な家具や道具は揃っている。
「何かわかったか?」
キッチンとガラス戸で仕切られた六畳の畳敷きの部屋で正座している白雲が榛名を見上げて尋ねる。榛名は白雲の前に正座し、
「間違いなく奴がいましたが、誰に憑いているのかわかりませんでした」
白雲は大きく頷き、
「奴ならばその程度の芸当はできよう。焦る事はない。教育委員会には期限を切られてはいないから、解決するまで留まるだけだ」
榛名を見て微笑んだ。
(父上は以前より優しくなられた)
榛名は無表情な顔で白雲を見て思う。
『お父様は昔からお優しいわよ、榛名』
再び脳裏の少女が姿を見せ、榛名に囁いた。
『そうか?』
榛名は少女に言い分に異を唱える調子で返す。
『そうよ』
少女は微笑んで応じた。その時、白雲が立ち上がる。
「食事に行こうか、榛名」
優しい眼差しを感じ、榛名は顔を上げて白雲を見た。
「はい、父上」
彼女はそう応じ、立ち上がった。
食事を済ませて宿舎に帰った時は、日もすっかり暮れ、西の空に鮮やかな夕焼けが見えていた。蝉の声もヒグラシに変わり、物悲しさを感じる風景に変化していく。
「風呂に入って先に休め、榛名。私は調べものがある」
白雲はダイニングキッチンのテーブルで書物を広げた。榛名は黙って頷き、風呂に入った。浴室を出ると、白雲はまだ調べものをしていた。榛名が浴室から出たのも気づかないほど、彼は書物に集中していた。声をかけるのを
そして、また夢を見る。何者かに追われる夢。いくら逃げても逃げた気がしない夢。いつの間にか追っ手は自分の前にいて、大鉈で身体を真っ二つに斬り裂かれる夢。
「ひ……」
小さく呻き、目を覚ます。ふと見ると、白雲はまだ起きていたが、榛名がうなされていたのに気づいたのか、六畳間を覗いた。
「どうした? また夢を見たのか?」
白雲の顔はキッチンの明かりを背にしているため、黒くなって見えない。榛名は首の回りに掻いた汗を拭い、
「はい。また同じ夢でした」
白雲は頷き、
「それもまた
「いえ、大丈夫です。お騒がせ致しました」
榛名は頭を下げて応じた。白雲はまた頷き、
「そうか。無理はするなよ、榛名。お前は私の娘なのだからな」
「はい、父上」
榛名は表情がわからない白雲を見上げ、頷いた。白雲は
(人に近づいている証拠、か)
榛名は布団に戻り、目を瞑る。
(本当にそれでいいのだろうか? 私にその資格があるのだろうか?)
すると脳裏の少女が現れた。
『貴女は私、私は貴女。それでいいんだよ、榛名。私達はもうすぐ一つになるの』
少女は微笑んで告げる。
『本当にそれでいいのか?』
榛名は同じ事を問う。少女は微笑んだままで、
『いいんだよ、榛名。私達は一つになるのだから』
『そうか……』
榛名はそこまで会話して眠りに落ちた。
次に榛名が目を覚ました時はもう朝になっていた。夜明け前に目を覚まさなかったのはしばらくなかった事である。
「よく眠れたか、榛名?」
白雲の声に応じて顔を動かすと、彼の布団はすでに片づけられていた。
「父上、おはようございます」
榛名は慌てて布団から出て、その場で手を着いて挨拶をした。
「支度をしろ、榛名。朝食に行くぞ」
白雲はすでに黒のスーツを着込んでいた。彼は先にキッチンに行った。榛名は枕元に置いた制服に着替えるため、白い着物の帯を解いた。骨が透けて見えるような細い手足がその下から現れる。身に着けている下着も浮き上がっているかのようだ。
(本当に人になれるのか?)
榛名は自分の細い手足を見つめた。そして気を取り直し、プリーツスカートを履き、セーラー服を着、スカーフを巻く。そして白の靴下を履くと布団を畳み、押し入れに片づけて部屋を出た。
「行こうか」
白雲は微笑み、榛名の背中を軽く押した。榛名はそれに従い、玄関へと歩き出す。
(人になる……)
彼女は心の中で呟き、宿舎を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます