榛名の秘密

 舞烏帽子中学校の二年五組の教室はまるで異世界のようになっていた。妙義榛名は倉渕美琴に取り憑いた女性の霊に言われた事で思いがけず動揺していた。

(何故こいつは私の事を知っている?)

 榛名は額から汗を垂らしている。しかし彼女はそれでも目を逸らさずに美琴を睨んでいた。

「随分と心の中が波打っているようね、妙義さん。私が貴女の事を言い当てたからかしら?」

 女性の霊は美琴の顔で不敵に微笑む。榛名はその表情に苛立ちを覚えた。またその表情が険しくなり、吐く息が黒くなった。

「妙義さん、どうしたんだろう?」

 厩橋渉は自分の前世が深く関わっている事も知らず、怯える片品翠に歩み寄る。

「厩橋君」

 翠が今にも泣き出しそうな顔で渉を見たので、側室の霊が反応した。

『許さぬ! おのれらが契り合うのは断じて許さぬ!』

 美琴の顔が鬼のような形相になり、周囲の闇が増大した。榛名は渉と翠が近づくのは得策ではないと考え、

「厩橋君、片品さんから離れて! 危ない」

 しかし、魔物のような顔になった榛名の忠告を渉が聞き入れる訳もない。彼は震えながら榛名を見た。

「妙義さん、君は一体何者なんだよ? 片品さんと美琴をこれ以上妙な事に巻き込まないでくれ!」

 渉は榛名の言葉を無視して翠の手を取ると、教室を出ようとした。

『許さぬと申したであろうが!』

 側室の霊が更に激怒し、その気が渉と翠を襲った。それは竜巻のようだった。

「きゃあ!」

 翠が吹き飛ばされ、その手を掴もうとした渉も続けて飛ばされ、二人は机にぶつかり、床に落ちた。竜巻のような気は窓ガラスを割り、ベランダを通り抜けて消滅した。

「片品さん……」

 渉は痛みを堪えて翠を見た。しかし翠は頭を打ったのか、気を失っていた。それでも渉は翠に近づこうと床を這った。

「く……」

 式神の禍津を蛭子という魔物に押さえ込まれ、心理的にも追い詰められた榛名は歯軋りするしかなかった。

(何を間違えたのだ? 正室の霊を解き放ち、その後で側室の霊を解き放つ。それのどこがいけない?)

 彼女は誰かに当たるように心の中で叫ぶ。すると榛名と同じ顔をした少女が脳裏に浮かんで来た。

『貴女は私であるのに、何故あの人の悲しみを理解しようとしないの? 救うべきはあの人なのよ』

 少女は悲しそうな目で榛名を見つめている。榛名には少女の言っている事がわからない。

『逆恨みをして闇に取り憑かれてここまで堕ちた女を救うだと?』

 榛名は憎しみの目で渉と翠を睨んでいる美琴に取り憑いた側室の霊を見た。

「どうしたんだ?」

 二年四組のクラス担任の男性教師がやって来て尋ねた。彼は机の横で倒れている渉と美琴を見て驚き、駆け寄ろうとしたが、

『邪魔立て致すな!』

 側室の霊の怒りに触れ、気を当てられて黒板に叩きつけられた。

「ぐ……」

 男性教師は口の中を切ったのか、血を吐きながら床に崩れ落ちた。騒ぎを聞きつけて、あちこちから生徒や教師達が集まって来たが、中の惨状を見て皆、後退あとずさりした。

あるじ、もはやこれまでにございます』

 禍津の声が聞こえた。禍津は蛭子に押し潰され、人型の紙に戻った。限界を超えてしまったのだ。

(禍津……)

 榛名は更に苛立ち始めていた。美琴に取り憑いた側室の霊は榛名の苛立ちを見て再びニヤリとした。

「貴女は所詮闇。人間ではないのだから、さっさと元の世界に戻りなさいよ」

 美琴の口を借り、側室の霊が榛名の心を揺さぶって来る。榛名の動揺は更に強くなる。

(私は人間ではない……。私は所詮闇……)

 榛名の顔が黒く変色していく。まるで闇に侵蝕されていくかのように。

『ダメ、貴女は人間よ、榛名。自暴自棄にならないで』

 脳裏に浮かぶ少女が叫ぶが、その声は榛名に届いていない。彼女は只側室の霊が放つ悪意に満ちた言葉を受け入れていた。

「そうよ、貴女は闇に生きていたの。人間界にはいられないの。早くお戻りなさい」

 側室の霊は美琴の顔を醜く歪ませて笑い、榛名をおとしめようとした。

(ワタシハヤミ……。ニンゲンデハナイ……)

 すでに榛名の顔は目も鼻も口も判別つかないほど闇に変わっていた。渉はそれを見て顔を引きつらせた。

(やっぱり、妙義さんは人間じゃなかったんだ……)

 彼はここにいては危険だと思い、必死になって翠に近づこうとした。すると榛名を貶めて笑っていた側室の霊がその動きに気づいた。

「殿、まだその女子おなごに執着なさるのですか!」

 怒りの形相になり、渉に近づいた。渉は元の顔の面影もない美琴が歩み寄ってくるのを見て慌てた。

「片品さん!」

 渉は翠に大声で呼びかけた。しかし、翠は全く反応しない。

「殿、御方様はお見捨てくださいまし」

 側室の霊は渉と翠に間に立ちはだかり、血走った目で渉を見た。渉はその目に身が竦んでしまい、それ以上進めなくなってしまった。

「殿、わらわの方が殿をお慕い申しております」

 美琴の顔は慈愛に満ちた笑みに変わり、這いずっていた渉の手を取った。元々渉より身体が大きい美琴であるから、いとも簡単に渉を引き起こした。

「殿、妾だけを見てくだされ」

 美琴の顔が渉に近づく。渉は恐怖で固まってしまっており、動く事ができない。

『貴女は私、私は貴女なのよ、榛名!』

 脳裏の少女がもう一度叫んだ。側室の霊が渉に気を取られているので、縛りが弱くなったのか、ようやく彼女の声が榛名に届いた。

「私は貴女、貴女は私……」

 すっかり闇と同一化していた榛名が存在しない口でそう呟くと、風で吹き払われるかのように彼女の整った顔が甦っていく。

「む?」

 今まさに渉の唇を吸おうとしていた側室の霊であったが、榛名が力を取り戻していくのを感じ、彼女を見た。

「妙義さん、貴女は人間ではないのよ。元の場所に戻りなさい!」

 側室の霊は渉から離れて榛名に向き直りながら言い放った。しかし、榛名は、

「お前の戯言たわごとは一度聞けば十分だ」

と言い返し、完全に闇を打ち祓った。あの魔物のような顔ではなく、元の榛名の顔である。

「おのれ、また繋がりおったか……」

 側室の霊は榛名が脳裏の少女と同調しているのを知り、後退りした。榛名は美琴の隣でプニュプニュとうごめく蛭子を見た。

『蛭子は闇ではないわ。だから光では消せない』

 脳裏の少女が榛名に告げる。榛名は小さく頷き、

「そういう事か……」

 制服のポケットから護符を取り出した。

「ならばあるべき所に戻すまでだ」

 榛名は護符を右手の人差し指と中指の間に挟み、左に振った。

臨兵闘者皆陣列前行りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんぎょう!」

 早九字を唱え、

五行剣ごぎょうのつるぎ!」

 左手に剣を出す。そして、護符を挟み持っている人差し指の先を斬り、血を護符に垂らした。その動きを見て、蛭子が榛名から離れようと動き出した。

「お前は闇ではないが、決して神でもない。だとすれば、けがれではある」

 榛名は自分の血で染まっていく護符を持ち直し、

「あるべき所に帰りぬ!」

 そう叫ぶと、護符を蛭子に投げつけた。蛭子はウネウネとその場から逃走したが、護符の方が早く、その動きを封じた。

「おのれ!」

 側室の霊が歯軋りする。しかし彼女には蛭子を救う手立てはない。

「はあ!」

 榛名は次に剣にも血を垂らして間髪入れずに蛭子を一刀両断した。蛭子は二つに裂け、まるで無数の虫が飛び去るように霧散し、消滅してしまった。

「次はお前の番だ」

 榛名は無表情のままで美琴の背後に浮かび上がった側室の霊を見た。側室の霊は怒りの形相になり、

『おのれ如きに打たれてたまるものか、まじない師め!』

 美琴の身体から離れて、その身に闇をまとわらせていく。そのせいで美琴の身体はそのまま床に倒れ伏してしまった。

『力ずくで消さないで』

 脳裏の少女が悲しそうな顔で囁く。榛名は眉一つ動かさずに、

「わかっている。いちいち五月蝿うるさいぞ」

 少女に言い返すと、五行剣を正眼に構える。

「お前の後ろの闇は、私にとってはどうでもいいものかと思っていた。だがどうやらそれは誤りだったようだな」

 榛名はゆっくりと間合いを詰めながら言った。側室の霊は闇と完全に一体化して黒く染まり、

『今頃気づいても手遅れよ、呪い師。闇は一つ。あのお方はいつでも我らのおそばにいらっしゃるのだ』

 不敵な笑みを浮かべた。榛名は目を細めて、

「笑止な。あのような屑を称して『あのお方』だと? 蛆虫うじむしにも劣る下衆をよくもそこまで持ち上げられるものだな」

 相手を挑発する事を言い放った。すると側室の霊は榛名の目論み通り、激高した。

「我らの主であらせられるお方を蛆虫とは何という言い草だ! おのれも元はその中の下っ端であったのだろうが!」

 彼女はすでに人霊ではなくなりかけていた。闇がその意志を取り込みつつあるのだ。

「片品さん」

 我に返った渉が再び翠に近づいた。今度は側室の霊は反応しない。すでに側室の霊の意志はなくなってしまったようだ。

「厩橋君……」

 翠は薄目を開け、渉を見た。渉はホッとしたように微笑み、

「良かった。ここを出よう、片品さん」

 翠の手を取って立ち上がらせた。二人は横目で榛名と闇の様子を窺いながら、そっと教室から出て行きかけた。

『なりませぬ、殿!』

 失われたと思われた側室の霊の意志が渉と翠の動きに刺激されて甦った。渉と翠は側室の霊の怒りの波動を感じ、足が竦んだ。

(今だ!)

 榛名はその瞬間を見逃さなかった。五行剣を振り上げ、一足飛びに間合いを詰め、闇と側室の霊との僅かにできた隙間を斬り裂いた。

『いやああ!』

 側室の霊がその衝撃で絶叫した。闇は斬り裂かれまいと側室の霊に纏わりつく。

「諦めよ!」

 榛名は執拗な闇の執着を断ち斬り、側室の霊を闇から救い出す事に成功した。

『おのれ、呪い師……。うぬ如きに邪魔されようとは思わなんだ!』 

 どす黒く濁った声が叫んだ。榛名はフッと笑い、

「お前はまだわかっていないようだな? 私を誰だと思っているのだ?」

 榛名は五行剣を下段に構えて言った。闇は取り憑くものを失って霧のように辺りに漂いながら、

『まさか、貴女は……』

 榛名の言葉に狼狽えたようだった。榛名は無表情に戻り、

「消えよ!」

 五行剣で闇を斬り裂いた。

『グゴゲエエ!』 

 叫び声とも斬り裂かれる音とも判別がつかないような断末魔が響いた。闇は打ち祓われ、側室の霊は穏やかさを取り戻した。

「終わったか」

 榛名は小さくため息を吐いた。

『貴女は私、私は貴女。それを忘れないでね』 

 脳裏の少女は言い、微笑んで消えた。榛名は五行剣を消すと、側室の霊を見た。彼女はゆっくりと榛名に顔を向けると、深々と頭を下げた。

此度こたびの事、かたじけなく存じます』

 顔を上げた彼女の目は涙で潤んでいた。榛名は目を細めて、

「業は解けたか?」

 側室の霊は恥ずかしそうに頷き、

『はい。私もまた、一人の殿方のお心遣いを存じ上げずにおりました事に気づきました』

 いつの間にか、井戸の前で彼女を刺した武士の霊が降りて来ていた。彼は側室の霊を優しく見つめている。

『これからはこのお方のために修行をする事に致します』

 側室の霊も武士の顔を微笑んで見つめ返した。二人が光に包まれていく。

「道をあやまつなよ」

 榛名は二人にそう声をかけた。二人の霊は榛名に頭を下げ、消えていった。榛名はそれを見届けると、床に落ちていた人型を拾い上げ、制服のポケットに入れた。

「妙義さん、君は一体……」

 渉は翠を庇うように立って榛名に問いかけた。すると翠が、

「厩橋君、妙義さんは私達を助けてくれたんだよ」

 榛名に微笑みかけながら告げた。渉はハッとして翠を見た。榛名はそれには何も応えず、教室を出て行く。

「妙義さん!」

 翠が榛名を追いかけようとした時、

「う……」

 美琴が意識を回復した。翠は一瞬迷ったが、

(妙義さんには後でお礼を言えばいい)

と判断し、美琴に駆け寄った。渉も榛名が廊下を歩いていくのを見ていたが、美琴が気になって彼女に駆け寄った。


 榛名は廊下を歩きながら思っていた。

(また奴が関わっていた。だとすると、厩橋君達の記憶から私は消えなければならない)

 すると脳裏の少女がまた現れた。

『寂しいの、榛名?』

 そう言われてハッとする。榛名は自分のその感情が信じられない。

(寂しい? 忘れられる事が?)

 榛名はその感覚を追い出すように頭を振り、校長室を目指した。

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