榛名の誤算

 舞烏帽子中学校の二年五組の教室は、しばらくぶりに落ち着いた状態になっていた。理科の担任の若い教師は、まだ状況が信じられず、時々窓際最後列の片品翠をチラッと見ていた。いつ彼女が大声を出して机を蹴飛ばすかと冷や冷やしているのだ。しかし、ほぼ五分おきくらいに観察した翠は、以前のように穏やかで奇麗な普通の女子であった。

(どうしちゃったんだ、片品は?)

 拍子抜けしたのは彼だけではない。翠が思いを寄せる厩橋渉の親友である吉岡も翠の変わりように驚いていた。他の男子も女子も、翠が真剣な表情で授業を受けているのに驚愕していた。当事者である渉を除けば、その原因を作ったとも言える陰陽師の妙義榛名だけが平然としていた。

(片品さんは元に戻ったが、地下の闇の活動が激しくなっているな)

 榛名は中学校の校舎が建てられている土地の下に埋め立てられているものから漏れ出ている怒りを感じた。

『禍津、そちらの様子はどうだ?』

 榛名はもう一人の当事者である倉渕美琴が寝ている保健室を監視させている式神に尋ねた。

『倉渕美琴はまだ寝ております』

 禍津の声が榛名の心に応えた。

『彼女が目を覚ましてもこちらに来させるな』

『承知』

 榛名は美琴が教室に来れば、地下の闇をいっそう刺激してしまうと考えたのだ。

『授業が終わり次第、私もそちらに行く。倉渕さんの闇を祓えば、全て収まる』

 榛名は禍津に厳命し、再び授業に戻った。

きしみが酷くなっている』

 榛名の脳裏に彼女と同じ顔の少女が姿を見せ、悲しそうな顔で呟く。

(何の真似だ? 春菜かのじょは何が言いたい?)

 時を置かずに頻繁に現れるようになった少女に榛名は疑問を抱いた。

(闇の思いが強いのは片品さんだったはず。彼女に憑いていた闇が消えた今、何が軋んでいると言うのだ?)

 普段ならすぐに消えてしまうはずの少女が未だに消えないので、榛名はもどかしくなっていた。

『貴女は私、私は貴女。何故わからないの、あの人の思いが?』

 少女が更に問いかけて来た。

『あの人? あの人とは誰?』

 榛名が問い返すと、少女は消えてしまった。榛名の額に汗が伝わる。彼女は不安を感じている自分に驚いていた。

(何に対して脅えているのだ?)

 考えてみてもわからない。そんな事をしている間にも、地下から漏れて来る怒りの波動は徐々に強くなって来ていた。

(この闇はまさか……?)

 波動が強まったせいで、榛名はそれが美琴に憑いていた闇と同じものだと理解した。そしてそれこそが、翠に取り憑いていた闇が使役していた「蛭子ひるこ」の本体だという事もわかった。

(闇は二種類ではなく、取り憑いている対象によって変質していたのか?)

 榛名は自分が思い違いをしているのに気づき、歯軋りした。

あるじ、倉渕美琴がそちらに向かってしまいました』

 禍津の声が聞こえた。

『何!?』

 美琴を禍津が押さえられなかったのかと思ったのであるが、そうではないと次の瞬間わかった。美琴が保健室から二年五組の教室に転移したのだ。

「うわあ!」

 一人だけ違う方角を見ていた男性教師がいち早くその異変に気づいた。美琴は教室の後ろにフワッと現れたのだ。彼は腰を抜かし、教壇にへたり込んでしまった。それを切っ掛けにしてクラスの視線が後ろに注がれた。

「美琴?」

 次に気づいたのは翠だった。いきなり現れた美琴に驚き、彼女は目を見開いた。

『殿はわらわのものじゃ……』

 美琴はまだ意識を回復していないが、口が動き、全身の毛が逆立ってしまいそうなくぐもった声が言った。

(教室から離れていたのに憑かれたのか?)

 榛名は席を立ち、美琴を見上げた。

(油断した。闇が同じものと見抜けなかったとは……)

 榛名はまた歯噛みした。そして美琴を睨んだ。

(出て来てしまったのか、あの中から……)

 その途端、榛名は異空間に跳ばされたような錯覚に陥った。

『主!』

 榛名の危機を感じ取り、禍津が戻って来た。そこは異空間というより、異次元のようなところだった。

「時代が違うのか? もしや呼び込まれたか?」

 榛名は教室の風景が消え、武家屋敷の中庭が現れたのを見て呟いた。

(全ての発端の場所か?)

 榛名は周囲を見渡した。池の見える広い座敷で寛ぐ邸の主らしき武士とその隣に座る奥方らしき女性。互いの顔を見て微笑む二人を見て、榛名は首を傾げた。

(呼び込んだのはこの二人ではない。誰だ?)

 彼女はもう一人の当事者がいないのに思い至った。そしてその当事者こそが元凶となった存在なのだ。

(どこだ? もしや!?)

 榛名は池のそばから移動し、裏庭へと至った。そこには井戸があり、それを挟んで若い女性と殺気立った武士がいた。武士は刀を抜き、下段に構えている。彼は何故か白装束を着ている。

『貴女には何の恨みもござらんが、おいのち頂戴ちょうだいつかまつる!』

 武士は一足飛びに女性に近づくと、刀を振り下ろす。それより一瞬早く女性が飛び退き、切っ先が彼女の髪を数本斬り飛ばした。

御方おかた様のお指図か?』

 女性は鋭い視線を武士に投げつけた。しかし武士はそれには応えず、

『これより冥土に参られるお人が知る必要もなし!』

 次の太刀を振るい、女性の右肩を斬った。太刀筋の先に血が舞う。

『くう……』

 着物ごと斬り裂かれて血を噴き出した右肩を押さえ、女性は悔しそうに池の方を睨んだ。その一瞬の隙を突き、武士は女性の胸元を刺し貫いた。

『御免……』

 武士は涙を浮かべながら更に刀を押し通す。臓腑ぞうふを貫かれたせいで女性が吐血した。自分の着物と武士の白装束が赤く染まる。

『口惜しや……』

 痛みと悲しみと悔しさで涙を浮かべた女性はヨロヨロとして井戸にもたれかかった。武士は涙を堪え、刀を引き抜いた。そして、

『貴女ばかりを死なせはしませぬ。拙者もすぐに!』

 彼は刀を持ち替え、自分の腹に突き刺し、続けて首の頚動脈辺りを掻き切った。血飛沫が上がり、辺り一面を赤黒く染めて行く。

『ああ……』

 女性は武士が何故白装束を着ていたのか理解し、その心に感謝した。

『貴方のお心、ありがたく存じます。しかれども、妾は御方様を許せませぬ』

 女性は口から血を吐きながら、懸命に井戸を乗り越えようとする。

永遠とわにこのお屋敷を呪い、祟りましょうぞ!』 

 彼女はそう叫ぶと、笑いながら井戸の底に落ちて行った。

(そしてその後、事情を知った奥方が井戸を埋めさせ、高名な僧侶達に読経をさせ、呪いを封じようとした。しかし、それは叶わず、お家は断絶、屋敷は破却となったのか……)


 榛名は舞烏帽子中学校の下にある壮絶な歴史を見せられ、目を細めた。気がつくと彼女は二年五組の教室に戻っていた。

『死して尚、未だに妾をお苦しめになるのか、殿、御方様!』

 美琴に取り憑いているのは井戸に身を投げた女性の霊である。彼女は渉と翠を見てそう叫んだ。

「え?」

 渉と翠は何の事かわからずに顔を見合わせた。吉岡始め他の生徒達は意味がわからずに意識を失ったままで立っている美琴を見ている。

(厩橋君はあの邸の主である大名の生まれ変わりであるから、多少は関わりがあるのかも知れないが、只それだけの事。あの事件とは直接つながりはない)

 榛名は理不尽な事を言い出した女性の霊に眉をひそめた。更に言えば、翠に至っては、只単に渉と仲良くしている現代に生きる女の子だ。当時の事件には前世も含めて全く関わりがない。しかし、闇に支配されてしまっている女性の霊にはそのような理屈は通じない。渉はかつて自分が仕えた主であり、愛した男性。翠はその奥方。憎むべき対象でしかないのだ。

(当時、主の寵愛を一身に受けていた側室の彼女を亡き者にしようとした奥方が招いた何百年にも亘る怨嗟の渦か)

 榛名は美琴の背後にうごめく闇と同化してしまっているその女性の霊を見た。

(恨むなら奥方と主を恨むのが筋。厩橋君も片品さんも関わりがない)

 榛名は制服のポケットから護符を取り出し、身構える。

(闇ごと消し飛ばすしかない)

 その時、またしても榛名と同じ顔の少女が脳裏に浮かんで来た。

『貴女は私であるはずなのにどうしてあの人の心がわからないの?』

 榛名は少女の言葉に苛立った。

『だから何だと言うのだ!? 遠回しの言い方は好かぬ。はっきり言え!』

 彼女は少女に怒りを露にした。少女は悲しそうに榛名を見て、

『それでは人にはなれない……』

 謎の言葉を残して消えてしまった。

(人にはなれない……?)

 無表情な榛名の顔が引きつった。心の動揺が激しくなり、顔に汗が噴き出す。

「皆死にや!」

 榛名が心の中で少女と葛藤している隙を突き、美琴に取り憑いた女性の霊が蛭子を呼び込んだ。蛭子は天井から雨粒が滴り落ちるように現れ、少しずつ集結して行く。

「な、何だ?」

 吉岡がブニュブニュと動く物体を見て後退あとずさりした。

「うひゃあ!」

 教室を一番に逃げ出したのは、あろうことか、理科の担任教師だった。それを切っ掛けにして、次々に生徒達が廊下へ飛び出し、逃げて行く。渉と翠は魅入られたかのように動かず、美琴を見ていた。

「禍津!」

 榛名はポケットから人型を取り出して宙に投げた。人型は異形の式神である禍津に変化へんげした。榛名は次に右手を横に振り、

「禍津、全力を出せ」

 その掛け声に応じて、禍津の首にかけられた鉄の鎖がバラバラになって消失し、細い手足が装束を引き裂かんばかりに筋骨隆々となる。

『先程は後れを取ったが、此度こたびはそうはいかぬぞ』 

 闇が美琴の口を借りて言う。すると榛名は、

「笑止。お前は私が誰であったのか知らぬのか?」

 彼女の背後に陽炎が立ち昇るように空間が歪んで見える。

『主、いけませぬ、そのお力は……!』

 禍津が榛名を見て叫んだ。顔を隠していた榛名の長い髪が逆立ち、彼女の整った顔立ちをさらけ出す。それを見るのは二度目の渉は顔が火照るのを感じた。

(妙義さん、やっぱり可愛い……)

 それは翠も感じている事だった。

(あの、こんなに美人だったんだ……)

 二人がそう思ったのはそこまでだった。榛名の整った顔立ちが凶悪になる。小さな口が大きく裂けて広がり、まなじりが吊り上がり、吐く息が黒くなる。

『主……』

 禍津が心配して更に声をかけるが、

「要らぬ世話だ、禍津。私は自分を見失った訳ではない!」

 榛名は大声で言い返した。禍津はギョッとしたように身を竦め、蛭子に視線を戻した。

『貴女は私である事を拒否するの?』

 また少女の声が頭の中で聞こえたが、榛名は反応しなかった。渉と翠は榛名の顔つきが変わったので目を見開き、また互いを見た。

『悔しや! 貴方の心変わりが許せぬ!』

 美琴に取り憑いた女性の霊が渉と翠が顔を見合わせたのに嫉妬したのか、蛭子を二人に向かわせた。

「禍津、そやつは任せた」

 榛名は蛭子には目もくれず、美琴に接近した。

『承知』

 禍津は蛭子の前に立ち塞がった。

『此度は逃げぬのか?』

 蛭子のものであろうか、どこからともなく濁った声が聞こえた。

『我は逃げた事はない。うぬと関わるつもりがなかっただけの事』

 禍津が言い返す。そして、

『我の務めは主をお助けする事。参る!』

 言うが早いか、禍津は蛭子との間合いを詰めた。

『無駄よ』

 蛭子は大きく膨らみ、禍津を覆い尽くそうとする。

『それこそ無駄よ』

 禍津は右手で蛭子の一部に突き入れた。そして、

『闇はあるべき所に帰りぬ!』

 全身を輝かせ、その光を右手に収束させる。

『効かぬ』

 蛭子が言った。

『何?』

 禍津にもそれがわかった。蛭子は光の力を受けても消滅していないのだ。

『うぬは思い違いをしている。我は闇にあらず』

 次の瞬間、禍津は蛭子に全身を覆われ、締め上げられていた。

『不覚……』

 禍津は蛭子の力に抵抗しながら歯軋りした。

「禍津」

 苦戦する禍津が気にかかった榛名だったが、美琴に取り憑く女性の霊を排除するのが先と判断し、向き直った。

「一体いつまでその恨みを膨らませるつもりだ、女? 不毛とは思わぬのか?」

 口から黒い息を吐き出しながら榛名が尋ねた。すると女性の霊は美琴の身体に降りた。

「闇の者である貴女にそんな事を言われたくないわ、妙義榛名さん」

 美琴の声でそう言われ、榛名の凶悪な顔が一瞬揺らぎ、彼女の脳裏に姿を見せる少女の顔と重なった。

「消えるのは貴女の方よ」

 女性の霊は美琴の顔でニヤリとし、榛名を蔑むような目で見た。

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