地の底の闇

 五行剣ごぎょうのつるぎを正眼に構えたまま、妙義榛名は目を細める。

「どうした、まじない師? かかって来いよ」

 闇に取り込まれかけている片品翠がニヤリとする。榛名は目の前の翠より二年五組の教室の方が気がかりだった。

(どういう事だ? 闇は片品さんを取り込もうとしているのだと思っていたが、違うのか?)

 榛名は情勢の変化に戸惑っていた。

「来ないならこちらから行くぞ!」

 翠が榛名に向かって走り出した。人とは思えないほどの速さである。

「く!」

 榛名も翠の速さに合わせて間合いを取ろうと動く。広い屋上が二人にとっては狭い空間となるくらい、二人の動きは激しかった。

(このままでは片品さんの肉体が壊れてしまう)

 榛名は危険を覚悟で足を止めた。

「もう疲れたのか、呪い師!」

 翠が榛名の背後に現れて右のハイキックを繰り出した。榛名はそれを待っていたかのように身をかがめてかわし、剣のつかを後ろに動かして翠の軸脚である左脚を払った。

「うお!」

 翠はバランスを失い、コンクリートの床に尻餅を突いた。榛名は剣を消し、間髪入れずに倒れた翠に正拳突きを見舞った。

「ぐう……」

 翠は防御のいとまもなく、それを鳩尾みぞおちに受けてしまい、うめいた。

(今だ)

 榛名は制服のポケットから護符を取り出し、翠の額と顎、喉、左右の胸、腹、両膝に素早く貼った。

「ふううわああ!」

 途端に翠に取り憑いている闇が苦しみ出した。コンクリートの上をのた打ち回る。翠が思いを寄せているクラスメートの厩橋渉には見せられないほどのあられもない姿だ。翠は護符をがそうとするが、熱くて触れない。闇を追い出すための護符なので、闇に支配された彼女には触れる事すらできないのだ。

「苦しいのなら、片品さんから離れろ」

 榛名はゆっくり立ち上がって闇に言った。すると闇は悶絶しながら、

「この女子おなごが離れとうないと申しておるのじゃ!」

 目を血走らせて叫ぶ。榛名は眉をひそめた。

「何?」

 合点がいかない榛名は次の一手を出しあぐねる。

(闇が片品さんに取り憑いたのは、彼女がそれを望んだからなのか?)

 榛名は翠の感情を推し量れずにいた。

「お前はこの女子を助けるために我に対してこの仕打ちを仕掛けたのであろうが、この女子はそのような事を望んではおらぬ! 今すぐに札を剥がせ!」

 闇は翠に口を借りて叫んだ。しかし榛名は、

「そんなのはお前の理屈だ。関係ない」

と言うと、更に護符を取り出し、翠の両肘、両手、両足首にも貼り付けた。

「ぐええ!」

 闇が激しく苦しみ出した。口からよだれを垂らし、目をうつろにし、脚をバタつかせる。

「む?」

 榛名は地面の下から激しい憎悪が湧き起こるのを感じた。

(闇の中心が動くか?)

 渉の救出に向かった式神の禍津が気にかかった。


 二年五組の教室では、闇に取り憑かれた倉渕美琴が渉に抱きつき、締め上げていた。クラスメートの吉岡達は何がどうしたのかわからず、その様子を呆然として見ているだけである。

「く……。美琴、苦しいよ、やめてくれ……」

 息が止まりそうな状態で、渉は美琴に懇願した。しかし美琴にはその声は届かない。彼女の腕に更に力が込められる。

「ぐうう……」

 渉は脂汗を流した。

「何してるの!?」

 他のクラスの生徒が騒ぎに気づき、クラス担任の月夜野鞠子を呼んで来た。しかし、鞠子に解決できる事ではなかった。鞠子は美琴と渉が抱き合っているのを見てムッとしたが、渉が苦しそうな顔をしているのでギョッとした。

(いちゃついているのではないの?)

 鞠子が救いを求めて教室を見渡すが、誰も彼も鞠子を見てくれない。彼女は自分の非力を痛感した。その時、天井から禍津がヌウッとその異形を現した。教室はパニックになった。

「お、鬼だァ!」

 涙を流して逃げ出す生徒が幾人もいたが、吉岡は渉の事が心配で恐怖を克服しようと念仏を唱え始めた。

「あら?」

 一度禍津に闇を祓ってもらっている鞠子にその記憶はないが、禍津に恐怖は感じなかった。

(何でだろう? こんな恐ろしい姿をしているのに、全然怖くない)

 禍津に親しみすら感じている自分に驚く鞠子である。禍津はそんな鞠子を完全無視で美琴と渉を見る。

「わわ、渉に近づくな、化け物!」

 涙目になって意味不明の念仏もどきを唱え、吉岡はそれでも懸命に親友を守ろうとした。

『案ずるな。我は厩橋殿を助けに参ったのだ』

 禍津がくぐもった低い声で吉岡に告げた。

「え?」

 吉岡は禍津の口が動いていないのに声が聞こえたので、キョトンとしてしまった。美琴を操っている闇が禍津を見た。

「雑魚が来たのか? 見くびられたものよ」

 美琴の口から聞こえたのは、彼女の声とは思えないほど低く濁ったものだった。吉岡はビクッとして美琴を見た。鞠子も美琴の様子がおかしいのに気づき、顔を強張こわばらせる。

『うぬの方が余程雑魚であろう?』

 禍津が言い返した。美琴に取り憑いた闇はニヤリとし、

「面白き事を申すな。ならば試してみるか、我が力を?」

 教室の空気が一気に張り詰めた。一陣の風が吹き、教科書やノートや鉛筆が飛ぶ。鞠子のスカートがめくれ上がったのを間近で見た吉岡は普段なら喜ぶのだろうが、今はそんな感情はどこかにいってしまっていた。

「いやあ!」

 比較的冷静だった鞠子もその異変には驚き、めくれたスカートを抑えた。

「今はうぬと争うつもりはない」

 美琴が自分に向き直ったため、渉が解放されたのを見るや否や、禍津は渉を美琴から引き離し、一緒にフッと消えてしまった。

「逃げたか……」

 闇は舌打ちをし、まだ念仏を唱えている吉岡を見た。

「く……。限界か……」

 闇は謎の言葉を残して、美琴の身体から離れ、消えた。その途端、美琴が床に倒れた。

「倉渕さん!」

 鞠子が慌てて駆け寄り、美琴を抱き起こした。吉岡もようやく我に返り、

「倉渕?」

 怪訝そうな顔で気を失った美琴を見た。

(何がどうなってるんだよお……?)

 吉岡は頭がおかしくなりそうだった。


 屋上では、翠に取り憑いていた闇の悶絶が収まったところだった。

(抵抗する力も尽きたか。もう少しだな)

 榛名が次の護符を出しかけた時、禍津が渉を連れて屋上に戻って来た。

「わわ!」

 禍津にいきなり放され、渉は床に転がり落ちた。榛名は渉が現れたと同時に翠の闇が急速に衰えるのを感じた。

(やはり厩橋君が影響している。片品さんと彼の仲を取り持てば、闇は離れる)

 榛名は禍津を見て、

「戻れ」

と命じた。禍津は人型の紙に戻り、榛名の制服のポケットに入った。

「いてて……。何がどうなったんだよ……」

 渉は腰をさすりながら立ち上がり、榛名と翠に気づいた。

「片品さん……」

 渉は翠の姿に赤面した。スカートがめくれ上がり、太腿が見えていたのだ。榛名が放った護符はすでに翠の身体に溶け込んでいるので渉は見ていない。

「厩橋君」

 榛名が声をかけたので、渉はビクッとして彼女を見た。

「な、何、妙義さん?」

 顔が火照っているのを見抜かれたくないのか、渉は俯き加減である。

「片品さんは貴方の事が好きなのです。その思いに応えてあげてください」

 榛名は無表情のままでそう言った。渉は翠の太腿をまたチラッと見てしまい、

「僕の事を好き……」

 それは十分過ぎるほどわかっている。しかし、自分には美琴がいる。

「貴方が倉渕さんと付き合っているのは知っています。無理を承知でお願いしているのです」

 榛名の目が細くなった。渉はそれを見て震えそうになった。

(妙義さん、怖い……)

 渉は榛名の目の奥に暗く深い闇があるような気がしたのだ。

(ここで厩橋君が拒否するとまた憎悪が膨れ上がる。返答次第では……)

 榛名はポケットに手を入れ、護符を探る。

「うん。片品さんの思いに応えるよ」

 渉があっさり承諾したので、榛名は目を見開いた。

(何があった?)

 すると禍津の声が心に語りかける。

『厩橋殿は倉渕美琴にあやめられそうになりました故、片品翠に気持ちが傾いたのではないでしょうか?』

「それだけなのか?」

 榛名は納得していない。渉が何故美琴を裏切るような事を簡単に承諾したのか? 彼女は視線を合わせようとしない渉を見つめた。いぶかる榛名をよそに、渉は倒れている翠に近づいた。また視線が太腿に行ってしまうが、何とか彼女の顔を見る。

「片品さん、大丈夫?」

 右肩を揺すって声をかけた。翠は虚ろな目で渉を見上げた。口の周りには涎の痕が残っている。

「厩橋君……」

 彼女の綺麗な瞳から涙が一粒零れ落ちた。

「ごめんね。今からでも遅くないかな、片品さんの手紙に返事をするの?」

 渉は翠の手を取って立ち上がらせた。翠はキョトンとして彼を見ている。彼女の身体に残っていた闇が全部出て行くのを榛名は見た。翠の気持ちが完全に闇から離れたのだ。渉は照れ臭そうに微笑んで、

「こちらこそよろしく。勉強も大事だけど、こういう気持ちも大切にしたいと思う」

「厩橋君!」

 翠は渉に抱きついた。渉はびっくりした顔で翠を見たが、やがてまた微笑み、優しく彼女を抱きしめ返した。

『歯車がきしんでる』

 榛名の脳裏で彼女と同じ顔をした少女が呟いた。

「嬉しい……」

 翠は涙を流して渉の顔を見る。渉も翠の顔を見た。

(でも、今は仕方ない)

 榛名は脳裏の少女にそう応じ、屋上をそっと立ち去った。


 教室で倒れた美琴は吉岡達男子が三人がかりで保健室に運んだ。大柄な美琴を一人で背負える男子がいなかったのだ。その経緯を知らない榛名は教室に美琴がいないのを知って驚いてしまった。

(片品さんの事に意識を集中させてしまって、倉渕さんの事を見過ごしていた)

 榛名は保健室から戻って来た吉岡に声をかけた。

「倉渕さんは大丈夫ですか?」

 榛名が話しかけて来たので、吉岡はビクッとした。

(な、何?)

 吉岡は榛名を警戒しているのだ。翠を挑発したり、美琴を呼び出したり、揚げ句は渉まで連れ出した榛名の考えている事がわからないからだ。

(こいつ、何がしたいのさ? 結局厩橋と仲良くなりたかっただけ?)

 暗くて貧相な顔に見える榛名がいくら頑張っても、渉が振り向くはずがないと思っている吉岡である。

(厩橋と倉渕はクラス公認に近い存在だぜ。無駄無駄、転校生)

 吉岡はニヤッとした。榛名は吉岡が笑ったので首を傾げた。

「何がおかしいのですか?」

 無表情のままで尋ねた。吉岡は鬱陶うっとうしくなって、

「倉渕は大丈夫だよ。疲れから眩暈めまいを起こしただけだろうって、保健の先生が言ってたから」

 そう告げると、榛名を押し退けるようにして自分の席に着いた。

「そうですか」

 美琴が倒れたと聞いた時は、翠と厩橋の事で悪影響が出たと思ったのだ。

(直接は関係ないが、倉渕さんが知った時の対応を考えないと、今度は彼女が元凶になってしまう)

 榛名は美琴が翠の二の舞いにならないように対策を考える事にした。

(保健室にいる限り倉渕さんが闇に取り込まれる事はない)

 そうは思ったが、万一の事を考えて、榛名は禍津を保健室に送り込み、監視させた。

「あれ?」

 吉岡が弁当箱を片づけながら、一緒に入って来た翠と渉に気づいた。翠は穏やかな顔になり、渉と楽しそうに話している。他のクラスメート達も二人の様子に驚き、ヒソヒソ話していた。

「じゃあ、放課後ね」

 翠は嬉しそうに微笑み、自分の席に着いた。渉も微笑み返して席に着く。呆気にとられたのは翠の取り巻き達だ。ボスのあまりの変貌にどうしたらいいのかわからない顔をしている。チャイムが鳴り、皆が席に着いた。午後の授業が始まり、教師がやって来た。若い男性教師で理科を担当しているためか、いつも白衣を着ている。彼はおどおどしながら教壇に立ったが、視界の端に入った翠の様子が今までと違うのでキョトンとしてしまった。

(教室の気の流れが変わった。あの陰鬱な状態から抜け出したようだ)

 榛名も翠の変化でクラス全体が変わったのを感じていた。

(む?)

 その時、地の底から声とも音ともつかない何かが聞こえて来た。

(やはり片品さんと厩橋君が仲良くすると刺激してしまうのか)

 二年五組の真下の地面で闇が本格的に動き出したのを榛名は感知していた。

(せめて倉渕さんがここにいない事が幸いしている。奴の受け皿が存在しないからな)

 榛名は授業が終わるまで何事も起こらないだろうと予想した。

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