すれ違う思い
中学生にして高い能力を持つ陰陽師の妙義榛名。彼女は舞烏帽子中学校の二年五組を覆う闇の正体を探るうち、学校の敷地に因縁を感じ、自身が操る式神の禍津に調べさせた。真相を知るに至り、榛名は闇に取り込まれようとしている片品翠を助けられるかも知れないと考えた。
「余計な事をするな、
翠の身体に残っていた闇が彼女をまた強く支配する。彼女の目は血走り、榛名を睨んだ。
「我が恨みは深い。お前如きに何ができるか!」
翠の身体に闇が侵蝕していく。榛名は眉をひそめた。
(どういう事だ? 教室から離れても駄目なのか?)
長い茶髪が逆立ち、吊り上がり気味の目が更に上がる。榛名は
「我が恨みは
翠に口を借り、闇が叫んだ。榛名は目を細め、ポケットの中の禍津の人型を取り出した。
「禍津、闇を滅せ!」
榛名は人型を空へと投げ上げた。
『承知』
禍津の声が応じ、人型が異形の者に
「それがお前の式神か? 弱そうだな」
翠が右の口角を吊り上げて言う。しかし、榛名も禍津も無反応だ。
「ならば我が式神を使わそう。いでよ、
翠が叫んだ。その名に榛名が目を見開いた。
(蛭子だと?)
蛭子とは日本の神話に出て来るイザナギとイザナミが国産みの時に最初に産んだ子の名である。恵比寿神と同一視されて祭られている土地もある。まつろわぬ神としてとらえられている場合もあり、謎の多い存在である。
『
禍津が素早く反応し、榛名を抱きかかえて飛ばなければ、彼女は翠が放った式神に切り裂かれていたろう。榛名が立っていたコンクリートの床が何かで
「ありがとう、禍津」
礼を言う榛名だが、無表情のままだ。禍津はゆっくり榛名を床に下ろすと、彼女を庇うように前に立った。身長が二メートルを超える禍津が前に立つと、それより五十センチ以上低い榛名はまるで見えなくなる。
「あれが蛭子?」
榛名は禍津の身体を
(教室で男子を倒したのもあいつか?)
榛名は右手の人差し指と中指を立て、サッと右に振った。
「禍津、全力で行け」
途端に禍津の首にかけられた鎖がバラバラになって消え、細かった腕と脚が装束を破らんばかりに筋骨隆々となった。
「む?」
翠が目を見開く。禍津の変異が意外だったようだ。しかし、
「我が式神には及ばぬ!」
翠のその言葉が合図だったかのように蛭子が飛んだ。禍津もそれに合わせて跳躍し、頭上から襲いかかろうとする蛭子の更に上を行く。すると蛭子は放射状に広がり、禍津を覆い尽くそうとした。
「
榛名は早九字を切り、ポケットから取り出した護符を投げつけようとした。
「させないよ」
いつの間にか翠が榛名のすぐそばに来ていて立ちはだかった。
「死にな、呪い師!」
翠の蹴りが榛名の腹を襲った。
「ぐふ!」
榛名はそのまま後方へ飛ばされ、コンクリートの床に身体を打ちつけた。
『主!』
蛭子に巻きつかれた状態で空中で停止している禍津が榛名を見て叫んだ。
「その式神を
翠はよろけながら立ち上がる榛名を勝ち誇った顔で眺めながら命じた。蛭子が一気に縮み、禍津を締め付けていく。
『ぐう……』
禍津は抵抗しているが、蛭子の力はそれ以上で、次第に空間が狭められていった。
「式神が消えれば、お前など無力に等しい」
翠が高笑いをした。すると榛名は再び右手の人差し指と中指を立てて、
「主が式神より弱くては操る事などできぬ!」
榛名にしては大きな声だった。彼女は次の瞬間、宙を舞っていた。
「何!?」
翠は仰天して蛭子に向かって飛翔する榛名を見上げた。
「
榛名の声に応じ、彼女の右手に一メートル程の長さの両刃の剣が現れた。榛名はそれを振るい、蛭子を一刀両断した。蛭子の束縛から解放された禍津は切り裂かれた蛭子を掴むと更に細かく引き裂いた。榛名はふわりと着地すると翠を見た。その隣に禍津が着地し、引き裂かれた蛭子が寄せ集まりながら翠のそばに落ちた。
「蛭子は不死。その程度でやられはしない」
翠は不敵な笑みを浮かべ、榛名を睨み返す。榛名は剣を消し、
(やはりあれは本体ではない。身体の一部に過ぎないのか)
目を細め、蛭子と翠を見た。
『禍津、奴は分離体だ。本体を探せ』
榛名は禍津に心の声で命じた。しかし翠に聞かれている可能性がある。
『承知』
禍津はフッと姿を消した。翠の片眉が吊り上がる。
「何を企んでいる、呪い師?」
榛名は話を聞かれていないのを知った。
(やはり闇の力は教室を離れると弱まるようだ)
翠と蛭子を相手にどこまで戦えるか? 榛名は更に目を細めた。
榛名が屋上に行き、翠もまた姿を見せないのを知り、倉渕美琴は不安になっていた。
(妙義さんが翠に……)
翠は体力に自信がある方ではないのを美琴はよく知っているが、榛名は翠より小柄で体力がなさそうなので、尚更心配なのだ。
(でも私が行くと、翠が怒るし……)
美琴は教室に戻って来た厩橋渉を見た。
(渉に頼んで、二人の様子を見に行ってもらおう)
美琴自身は、渉を翠に近づけたくはない。しかし、翠を止められるのは渉しかいないとも思えるので、ジレンマだった。
(どうしたらいいの?)
そんな美琴の様子に気づいた渉の親友の吉岡が、
「おい、厩橋、倉渕がお前の事を切なそうな目で見てるぜ」
と耳打ちした。
「え?」
ボンヤリしていた渉は吉岡の言葉にハッと我に返り、美琴を見た。美琴は急に渉が自分の方を見たので、顔を赤らめて俯いてしまった。
「あのさ……」
渉は翠がいないので美琴に話しかけた。美琴はニヤついてこちらを見ている吉岡をキッと睨みつけてから、
「な、何?」
緊張した顔で無理に微笑み、渉を見る。
「いや、何って、美琴、じゃなかった、倉渕さんが僕を見ていたから……」
ついうっかり名前で呼びかけ、渉は慌てて訂正した。
「翠がいないから、大丈夫だよ、渉」
美琴が恥ずかしそうに言った。渉はその言葉に赤面し、
「あ、うん、そうだね」
互いにぎこちなく笑った。吉岡がそれを見て舌打ちする。
「お熱い事で……」
肩を竦めて二人から視線を
「私、妙義さんが心配なの」
美琴はそれでも周囲を気にしながら小声で告げた。渉はチラッと廊下を見て、
「彼女、陰陽師だって言ってたよね?」
「うん。渉も聞いたんだ」
美琴はそれが何故か嬉しかった。
(何だろう? 翠がいないとすごく心が休まって、渉の事をどんどん好きになっていく)
気持ちの高揚があまりに激しいので、自分自身面食らってしまった。
(それにいつも教室に入ると重苦しいのに、今はそれがない)
翠がいないのと関係しているのか美琴には判断がつかないが、
「とにかく、妙義さんが翠に酷い目に遭うような気がするの。止めに行って」
渉にそれだけは伝えた。渉は目を見開いて、
「片品さんが妙義さんに何かすると思うの?」
「うん……」
美琴は渉の瞳に吸い込まれるような感覚に陥っていた。
「妙義さんは大丈夫だと思うけど」
渉の返事はつれないものだった。彼は彼で、翠がいない教室から出たくないのだ。
(妙義さんは片品さんを救うために力を貸して欲しいって言ってた。だったら、片品さんと妙義さんが喧嘩する事はないと思うんだけどな)
美琴の心配が理解できない渉である。
(このままずっと渉と話していたい……)
美琴は当初の目的を忘れてしまったかのように渉を見つめている。彼女は翠を取り込もうとしている闇の妨害を受けているのだ。それに気づく術はない。そして榛名もそこまで見抜けていない。
「美琴?」
渉が美琴の異常な視線に気づき、声をかけた。
「何、渉?」
美琴はトロンとした目で彼を見て微笑む。渉は美琴の様子がおかしいと考えた。
(これが妙義さんが言っていた闇?)
渉が闇の策略に思い至った途端、美琴の顔が変わった。
「行ってはダメよ、渉! 貴方が心配なの!」
美琴はいきなり渉に抱きついた。吉岡を始め、男子達がヒュウと口笛を吹き、女子達が驚いて二人を見た。
「美琴、どうしたんだ?」
渉は美琴を押し戻そうとするが、美琴の力は中学生女子のものとは思えない程強力だった。
「く……」
身長差があるのも手伝い、渉は身動きが取れなくなってしまった。
「おいおい、いつまで見せつけるんだよ、厩橋ィ」
吉岡がからかうように言うと、
「吉岡、美琴を引き離してくれ……。息ができない……」
渉が苦しそうに告げた。吉岡はそんな冗談を渉が言わないのを知っているため、驚いて駆け寄った。
「おい、倉渕、厩橋が苦しいってさ! 放してやれよ」
吉岡は美琴の肩を掴んだ。すると美琴が彼を睨みつけ、
「触るな、下郎め!」
その目は美琴の目ではなかった。吉岡はその迫力に仰天し、尻餅をついてしまった。
「く……」
渉の顔に脂汗が滲む。顔色が悪くなり、目も虚ろになって来た。
(美……琴……)
渉は意識が飛びそうになっていた。
榛名と翠、そして蛭子の睨み合いはまだ続いていた。
『主』
禍津の声が榛名の心の中に語りかけて来た。
『どうした?』
榛名は翠を見据えたままで尋ねる。
『厩橋殿が危うい事になっております』
渉が闇に操られた美琴に絞め殺されそうになっているのを禍津は知らせた。
(そういう事か)
榛名は闇にとってその対象は誰でも良いのだと悟った。
『厩橋君こそ、この事態を打開するための存在。助けよ』
榛名は禍津に命じた。
『承知』
禍津が応じた時、その影響だろうか、翠が動揺し始めた。彼女も渉の危機を感じているのだ。闇にとって渉の存在など些末なものだが、翠にとっては違う。彼女と闇の関係に齟齬が生じた。
(隙間がないほど一体だった片品さんと闇の間が
榛名は好機と捉え、動いた。ポケットから護符を取り出し、宙へ放る。
「臨兵闘者皆陣列前行!」
早九字に乗せ、護符を翠に飛ばした。
(闇の縛りが緩んだ今こそ、片品さんを救い出せる)
だがそれは同時に闇の本体を刺激する事でもあった。
(私に押さえ切れるか?)
榛名は校舎の下に蠢く途方もない闇を感じ、眉間に皺を寄せた。
「いやああ!」
翠が動揺しているせいで、榛名の放った護符が闇を攻撃する。まだ完全に分離した訳ではない翠が悲鳴を上げた。闇も翠との連携を取れなくなって力を失っていた。
(今か?)
榛名はもう一度右手に「五行剣」を出し、中段に構えると翠に向かって走った。真昼の太陽の光で刀身が光る。
「蛭子!」
翠の動揺を押さえ込みながら、闇が彼女の口を借りて蛭子を動かした。蛭子はウネウネと動きながら、榛名の前に立ちはだかり、その面積を広げて完全防御の態勢に入る。
(こいつは斬っても意味がない)
榛名はポケットから護符を取り出した。
「
榛名が蛭子に放ったのは封じの護符である。蛭子の動きを止めるつもりだ。しかし蛭子は護符を直前でうねってかわしてしまった。
(ならば!)
次に榛名は五行剣の切っ先で左手の薬指を突き、血を出した。その血を刀身に垂らし、赤く染め抜いていく。
(人ではない私がこの術を果たして使いこなせるのか?)
榛名は剣を構え直しながら案じた。人ではない私とはどういう意味であろうか?
『大丈夫。貴女は私。私は貴女』
榛名の脳裏に自分と同じ顔の少女が現れた。榛名は目を細め、
「だといいのだが……」
そう呟くと、蛭子に対して右薙ぎに剣を振るった。
「無駄だ!」
また闇に支配されてしまった翠が高笑いした。だが、榛名の振るった右薙ぎで斬り裂かれた蛭子は二つに裂けると、元に戻る事なく霧状になって消失してしまった。
「……」
翠に取り憑いた闇は意外な展開に言葉もなかった。榛名は剣をブンと振って正眼に構え、
「次はお前だ」
鋭い目つきで翠を見た。翠は歯軋りをして榛名を睨み返し、
「まだだ。お前が消したのは蛭子の一部に過ぎぬ。これからが真の戦いよ」
屋上での戦いは第二段階に入ろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます