舞烏帽子中学校編

荒んだ学び舎

 つやのある長い黒髪を激しく揺らしながら、少女はどこまでも続く闇の中を走っていた。息が上がり、顔が汗で濡れても、少女は走るのをやめない。まるで後ろから何者かに追いかけられているかのように足を繰り出している。

「く!」

 少女は何かに足を取られ、つまずいた。それでも彼女は歯を食いしばって立ち上がり、走り出そうとした。

「終わりだ」

 どこからともなく腹の底に鉛の玉を落とされたかのような嫌悪感を覚える声が聞こえた。少女はハッとして立ち止まり、気忙きぜわしく周囲を見回す。

「ここだ」

 また声がしたと同時に、少女の身体は彼女の身長より長い刃の大鉈で身体の中心から二つにされ、血飛沫ちしぶきを上げて両側にそれぞれが倒れた。


「いやああ!」

 絶叫して目を覚ました少女。彼女の名は妙義榛名。悪夢にうなされたのか、榛名は半身を起こして肩を大きく動かし、荒くなった呼吸を整えようとした。

(また春菜の夢……。彼女の意志が強くなって来ている)

 榛名は肌蹴はだけた白装束を合わせ直す。そして掛け布団をそっとけると、立ち上がった。まだ外は夜明け前で、気の早い雄鶏が鳴いていた。

(夢を見るようになったのは、人になりかけている証拠だと白雲様はおっしゃった。私如きが人になって良いのか?)

 榛名はそんな事を思い巡らしながら、部屋の障子をそっと引き、縁側に出た。

「どうした、榛名? 大声を出していたようであったが?」

 声のした方を見ると、榛名と同じく白装束を着た切れ長の目の長身の男性が隣の部屋の障子を開けて立っていた。榛名は居ずまいを正して縁側に正座し、

「お騒がせして申し訳ありません、白雲様。春菜様の夢を見まして……」

 そう言って頭を下げた。白雲と呼ばれた男性は一瞬目を見開いたが、フッと笑い、

「そうか。先日も言ったように、夢を見る事、春菜あのこを感じる事は兆しなのだ。お前は確実に人に近づいている」

 男性は榛名に近づき、彼女の右頬を撫でた。

「ありがとうございます、白雲様」

 榛名は感情のない顔で白雲を見上げて言った。白雲は榛名から手を放して、

「白雲様はよせ、榛名。父上であろう?」

 白雲は微笑んで告げると、縁側を戻る。

「まだ早い。もう少し休め、榛名。今日、新しい学校に転校するのだからな」

 白雲は背中を向けたままで言うと、そのまま部屋に入り、障子を閉めた。

「はい、父上」

 榛名はそう応じて、自分も部屋に戻った。二人がいるのはP県L市の郊外にある古い民家である。

(この町、酷く荒れた臭いがする)

 榛名は障子を閉めながら、白々と明けていく空を見た。


 P県L市。県西部の山沿いに位置する人口六万人弱の小規模な地方都市だ。染物で有名であるが、後継者問題が大きくなり、数十年後には誰も跡継ぎがいない状態になるという。

 そのL市の中心部にある舞烏帽子まいえぼし中学校。新校舎となって五年目、創立六十五周年の伝統ある中学校である。生徒数六百九十九名、一学年は六クラスある。一見穏やかに見えるのだが、実は校長以下教職員達は生徒のすさみように頭を悩ませていた。

「お待ちしておりました、妙義先生」

 黒のスーツに着替えた白雲と車で舞烏帽子中学校に出向いた榛名は校長と教頭と事務長に出迎えられ、校長室に通された。榛名はたくさんのトロフィーや賞状の入った額を見渡しながら、勧められてソファに腰を下ろした。

「仮住まいにしても、あまりにも手狭で貧相な家で申し訳ありません。生憎あいにく、この界隈には旅館もホテルもないものですから」

 胡麻塩頭の校長が愛想笑いをしながら言った。しかし白雲は、

「いえ、むしろ一軒家の方が好都合です。我らは雨露をしのげればそれで良いので、お気になさらず」

 尚も言い訳をしようとする校長を制した。そして室内を見渡す。

「凄まじいですな。一体何が起ころうとしているのか、じっくり調べる必要があります」

 白雲は真正面に座った校長を見て言った。

「そ、そうなのですか? それで、何とかなるものでしょうか?」

 校長は隣に座ったロマンスグレーの髪が頭頂部まで禿げ上がった黒縁眼鏡の事務長と顔を見合わせてから尋ねた。

「大丈夫です。原因がわかれば、対処のしようはいくらでもあります」

 白雲は校長と事務長を見比べながら応えた。

「そちらのお嬢さんが、その……?」

 黒々とした豊かな髪を七三に分けた教頭が遠近両用の眼鏡で榛名を見つつ、白雲に尋ねる。

「はい。我が娘、榛名です。なりは小さくて幼いですが、腕は一級の陰陽師です」

 白雲は心配そうな顔で榛名を見ている教頭を射すくめるような目で応じた。

「よろしくお願いします」

 榛名は三人を順番に見て頭を下げた。彼女は紺の大きな襟付きの白の上着のセーラー服と紺のプリーツスカート姿。顔の半分は長い黒髪で隠れているので、教頭はそれを奇異の目で見ていた。しかし榛名は彼の視線を全く気に留めていない。もちろん、教頭は自分がそんな目で榛名を見ているのを気づかれているとは思っていない。

(我が娘、か……)

 白雲の紹介の言葉に榛名は少し戸惑ったが、悪い気はしなかった。

「昨日お電話でお話した通り、榛名をこの学校に転校させ、この地に渦巻く得体の知れない闇を打ちはらわせます」

 校長達は一様に頷く。白雲は榛名を見て、

「榛名、元凶はわかっているな?」

「はい、父上」

 榛名は無表情な顔を白雲に向けて応じた。

「二年五組」

 榛名がそう告げると、校長達は一斉に小さく悲鳴を上げた。

「どうされましたか?」

 白雲がニヤリとして訊いた。校長は呼吸を整えながら、

「そ、それがどうしておわかりなんですか?」

「この子の力のお陰です」

 白雲は校長、事務長、教頭と視線を移した。

「確かにお嬢さんの仰る通り、二年五組には手のつけられない生徒がおります。やはりあの子が原因なのですか?」

 教頭が榛名と白雲を交互に見て訊いた。白雲は教頭に目を向けて、

「その子は元凶ですが、原因ではありません」

「は?」

 教頭はキョトンとして校長や事務長と顔を見合わせた。

「原因はその子の背後にいる闇の者です」

 白雲はその元凶となっている生徒が闇に完全に取り込まれそうになっているのを感じていた。

(もう少し早ければ、その子も救えたろうが、それはもはや無理だ)

 彼は、保身に走って最悪の事態になってからようやく動き出した学校側に呆れていた。

(私も彼らを非難する立場にないか)

 白雲は横に座る榛名を一瞥し、自嘲した。

「担任の先生に会わせてください」

 榛名が校長を見て言う。校長は榛名の声にギクッとして彼女に視線を向け、

「わかりました、ここに呼びましょう」

「いえ、ここではなく、誰もいない場所がいいです」

 榛名は無表情な上に声にも抑揚がまるでないので、言われた校長だけでなく教頭も事務長も顔を引きつらせて彼女を見た。

(この子、何者なんだ?)

 父親である白雲が「一級の陰陽師」と言ったが、彼らには榛名は味方に見えていなかった。


 榛名は校長に応接室に案内された。

「私はこのまま帰る。何かあれば、すぐに連絡をよこせ」

 白雲は小声で榛名に告げ、校長達と廊下を去って行く。榛名はしばらく彼らの後ろ姿を見ていたが、応接室のドアを開いて中に入った。

(来た?)

 ドアを閉じて室内を見回していた榛名は、廊下を近づいて来る気配に気づき、振り返る。ノックの音が静かな部屋の中に響いた。

「どうぞ」

 榛名はドアノブを凝視して応じる。ドアがゆっくりと開かれ、顔色の悪い若い女の先生が入って来た。チャコールグレーのスカートスーツを着て黒髪を肩上でカットしている。

「あの、貴女が転校生の妙義榛名さんですか?」

 その目は怯え、唇は震えていた。榛名はその問いかけに黙って頷く。

(この先生、闇に家の中まで侵蝕されている)

 榛名は目を細めた。

「私は二年五組のクラス担任の月夜野つきよの鞠子まりこです」

 本当は明るくて奇麗な先生なのだろう。だが今の鞠子からは恐怖しか感じられない。

「よろしくね、妙義さん」

 鞠子は表情筋が錆びついているかのようにぎこちない笑みを浮かべる。

「先生をそこまで追い詰めている生徒の名前を教えてください」

 榛名は鞠子の顔を瞬きせずに見つめる。その途端、鞠子の顔が引きつった。

「な、何を言っているの、妙義さん? 先生は追い詰められてなんかいないわ」

 目を潤ませ、歯をカチカチと震わせ、首を横に振りながら鞠子は否定した。しかし榛名は、

「このままだと先生は殺されます」

 その言葉がまるで呪文だったかのように鞠子が停止した。目を見開いたまま、呼吸まで止めている。

「教えてください」

 もう一度榛名が言うと、鞠子は停止ボタンを解除されたように動き出した。

片品かたしなみどりさん……」

 そう言ってから、自分が取り返しのつかない事を口走ってしまったと思ったのか、

「でも、片品さんは本当はいい子なの。きっと何かあったの。本当よ。嘘じゃないわ。一年の時もクラスをよくまとめてリーダーシップを取ってね。だから……」

 堰を切ったように喋り出した。

「わかっています」

 榛名は鞠子の右手を両手で包み込むように握った。その瞬間、鞠子の何かに取り憑かれたようなお喋りが終わった。

「私が翠さんを助けます。ですから、先生は落ち着いてください」

 榛名は握った手の中に護符を忍ばせていた。

臨兵闘者皆陣列前行りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんぎょう!」

 榛名は早九字を唱えた。鞠子がそれに呼応するかのように身をよじらせ、榛名の手を振り解こうとした。彼女の身の内に宿る闇が九字に拒絶反応を示したのだ。

禍津まがつ

 榛名は右手で鞠子の手を握り締めたまま、制服のポケットから人型の紙を取り出して宙へ放った。その紙はくるくると回りながら、彼女が使役する式神しきがみの禍津に変化へんげした。

「いやあ!」

 鞠子は鬼にも見える禍津の風貌に驚愕し、榛名の手を振り払って応接室から逃げ出そうとしたが、禍津の方が一歩早くドアの前に舞い降りた。

「ひいい!」

 鞠子はそのまま床に尻餅を突き、涙を流しながら後退あとずさりした。

「滅せ」

 榛名が命じると、禍津は

『承知』

 鞠子に一足飛びに近づき、彼女の口の中に右腕を突き入れた。腹の中に巣食う闇を祓うためである。鞠子はもがくが、一見細くて力がなさそうな禍津の左腕に肩を掴まれ、身動きが取れない。

のぞけ」

 榛名の言葉を受け、禍津の身体が輝き始め、その輝きが右腕に集まり、鞠子の口の中に突き入れられた方へと移動した。

『闇はあるべき所に帰りぬ!』

 禍津が唱えると光が強くなり、鞠子の腹の辺りが輝いた。同時に何かが弾けるような音が聞こえ、鞠子は脱力し、気を失った。

「終わったか」

 榛名はそれを見て呟いた。禍津は鞠子の身体をゆっくりと床に横たえた。

あるじ、この者は闇の一部を受けておっただけです。本体は別におります』

 禍津は榛名を見て告げた。榛名は小さく頷き、

「先生はもう少しで闇に飲まれるところだった。本体は片品翠という生徒の身の内にいる」

 その時、鞠子の叫び声を聞きつけたのか、幾人かの足音が近づいて来た。

「戻れ」

 榛名は見られると面倒なので、禍津を人型に戻し、ポケットに入れた。

「どうしましたか?」

 校長と教頭と事務長が血相を変えて飛び込んで来た。榛名は床に寝かされた鞠子を見たままで、

「月夜野先生の身体に巣食っていた闇を祓ったところです。先生はもう大丈夫です」

 校長達は唖然とした顔で榛名を見てから鞠子を見た。

(片品翠が闇に取り込まれてからこれほどになるまであまりにも短期間だ。一体何が原因なのか……)

 榛名は校長達を問い質そうと思ったが、彼らに生徒の事がそこまでわかるはずもないと判断し、やめた。

「先生、しっかりしてください」

 榛名は鞠子を起こすふりをしながら彼女の記憶を操作する護符を額に貼り、染み込ませた。 

「私……」

 鞠子は自分が何故倒れていたのかわからず、首を傾げて立ち上がったが、校長達がいるのに気づき、慌てて頭を下げた。

「失礼ました!」

 鞠子は破裂するのではないかと思われるくらい顔を赤くしていた。

「先生、教室に行きましょう」

 榛名が抑揚のない声で言うと、鞠子はハッとなり、

「そうね。行きましょうか、妙義さん」

 榛名は呆然として見ている三人の中年男に会釈し、鞠子と共に応接室を出た。

(手強そうだな)

 榛名は右手を強く握り締めた。

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